スナックおのれ
毛。



 未知の国:四国

行ったことがないからイメージがわかない。そりゃ、情報はテレビ、雑誌、インターネット、ちょっと忘れてたけどラジオと垂れ流しだけど、本当にその場所のこと知ってるの?福井と福島の差、御存知?岩手にはなにがある?どこにある?主な産業は?確かにね、そこに住んでいる人には失礼極まりないんですよ、「うーん、イメージがわかない」なんて。ハナっから、存在を否定していますからね。でも、「●●があるよね!」なんて、しどろもどろするよりは、いつかいくかもしれないその土地の見聞を広げましょう!地理ネタは、話しが尽きるのは早いけど、少しはためになる。そう、ためになる。

ってなわけで、四国のイメージがさっぱり尽きません。それだけじゃないんですけどね、大阪も九州も四国も北海道の大湿原や大雪原、大農場も沖縄も知識的には知っているけど、真の部分でわからない。この場合、真は芯ですよ!芯がわかってなきゃ、意味ないんです!苺大福は、苺の部分に到達しなけりゃ、ただの大福なんです!そうです、そう、そう言うことにしといて。「知ってるよ、馬鹿じゃないの?」と思っているアナタ、じゃあ、なぜ、その場所に行くとびっくりするの!沖縄の海、青すぎ!とか、北海道、寒すぎ!とか福島なにも、なさすぎ!とか。真の部分は行ってみなけりゃわかりません。やっぱり、行かないとね。

知識は知識どまり。どんな退屈な経験でも、そちらの方が勝ち!
だって、しょうがないじゃない。そうなんだもん。
というわけで、明日。四国からはるばる友人がやってきます。本当に四国の道端には“うどん”が生えているのか、亀がカブトムシばりに道をさまよっているのか、といただしたい!私の中にある四国の虚像を打ち破るために!!

2002年03月28日(木)



 話題

俗に花冷えとか言いますが、これがそれですかね。
先週末、ちょうど桜が咲き始めた頃からいやに寒い。というより、冬に突っ走っているかのような気もします。春が秋になって秋が春になって、夏が冬になる・・・?あー、もう面倒くさい!こういうのなんて名前の異常気象ですか!?
むしろ、怒っているんですよ、わたしは!せっかく、春になってうかれはじめたのに、HPも春にむけてあたたか〜いようにリニューアルまでしたのに、風は強いし、花は散るし!もったいない!本当にもったいない!このままいくと、春を満喫するまでもなく、冬!まっとうな季節の流れでいくと、夏に直行!いやー!!

ってなわけで、人間、ネタがない時は、季節とか花、気温、風にたよっていけません。あたりさわりのない話題をしたいなら、今日の天気を言おう、という人は正解です。あーあ、こまちゃった。

2002年03月27日(水)



 愛すべき天敵、心無い天敵たちへ。

どうにもこうにもムカツク人が昔、いましてね、
今、某電気メーカーの開発にいるってのはわかってるんですけど、何をやっているんだか、皆目検討つきません。というより、しりたかないんですけど、そんなこと。かといって、ろくろく話したこともないんです。だけど、その人の行動パターンやら物言い、笑い方、返事の仕方にいたるまで大嫌いでした。それはあちらも同じだったらしくて、私のことが嫌いだったらしいですよ。

なぜか、その人と私の真ん中には、何人もの人がいて、おもしろがっている様子で。水と油、というよりは私の認識としては、もはやお互いまったく違う生き物の認識でした。よくよく考えてみれば、幸せです、お互いに。というのも、これでどちらかが相手のことを気にやんでいたら、不幸成立。でも、お互い嫌いな分だけ、存分に嫌いになれたというワケです。ある意味、両思い。気持ち良いほど、互いの気持ちが通じ合ってなかった、それだけです。
こんなことを書いたのは、まあ、そんなカタチの両思いもあるよね、ということを話したかっただけなんですが、世の中には、尊敬できる愛すべき「良い人たち」がいて、そんな人が、もし人を嫌いになるという行動自体を恥じているなら、気にやむ必要もないんだぜ、というパターンを知って欲しかった。さあ、前世からの因縁があることを知ってください。生まれながらにして、嫌い合う運命を担う自分の天敵に心馳せましょう。そして、心から嫌い合う日が来ないことを願いましょう。そんな人にあわないようにするために。

まあ、こんなことを書き始めた本当の理由は、にょんなことから奴を思い出してしまったうさばらしなんですけどね。あーあ、日記をうさばらしにつかっちゃった、駄目だなあ。私。だって、あのツラが鼻につくんだもん、目につくんだもん、むかつくんだもん。

2002年03月26日(火)



 人、1人。

中原中也の詩集を買いました。
 「よごれちまつたかなしみに」とか「ゆあーんゆよーんゆあゆよーん」の人です。昔の人と現代に生きる人の精神年齢を比べると、否が応にも精神年齢若年齢化が見えてきます。中原中也は享年30歳。よくよく考えてみると群雄割拠、否、文豪割拠(造語)の時代の人々には、若死にが多いです。かといって、当時の平均死亡年齢がおそらく60歳とかでしょうから、中原中也で言えば、人生の半分で死んだということになります。いまでいうと45歳くらいですか・・・。
 さて、中の詩をパラパラめくってみますと、非常に孤独。正岡子規まではいかないけれど、精神の孤独さを感じます。ちゃいろーい感じです。なんで、そんなになったかは巻末についてた年譜をきちんとよまなければ、わかりません。まだ読んでません!
 そういえば、今日の朝まで友人がはるばる山形くんだりから宿泊に来ていました。彼女が帰って、我が家に本来のカタチがよみがえってきたわけですが、人1人いなくなっただけで、なぜこうもガランとするものなのか。148CMしかない身長なんて、いたかいないかわからないくらいなのに(嘘)。人1人の存在感の大きさに、少し驚きました。
 中原中也は、かわいい盛りの息子を亡くし、それから床に臥すようになったと作者説明に書いてありました。こんな詩を書く人が、どんな気持ちになったのか、あまりに無残で想像することがはばかれました。

2002年03月25日(月)



 たいこから

頭と体は、かならずしも一致しません。物事をなすまえに、こうしてやろうともくろんでみても、体に裏切られる、そんなことってありませんか?例えば、起床なんかがそうです。前夜、明日は何時に起きて、ステキな朝食を・・・なんて思ってみても、その時刻に起きられないばかりか、挙句の果てに、あと5分、5分のくりかえし。大人になるってことは、頭と体、もしくは、心と体の動きを一致させるという使命も持っているのかもしれません。
 今、太鼓のゲームがあるでしょう?音楽にのせて、太鼓を叩く例のアレです。私、それを土日に2回程やりましてね、もともと、うまくはないというのは薄々かんずいていたんですけれど、バチで太鼓を叩くあの感触に誘われて、ついつい。やってしまったんでございます。
 結果はひどいもので、初心者にちかい友人たちが軽快に太鼓を叩くなか、私は生きッぱじをさらして参りました。ところどころ、記憶が飛ぶんです。太鼓を叩いている自分と画面と音楽とバチを持つ手のつながっていた糸がぷっつり切れる感じ。怖すぎるジェットコースターで、少しアタマが飛ぶのとよく似ています。恐怖すら超越した絶望感、現実味のなさみたいな。まあ、そんなことを太鼓ゲームで感じるのもおかしな話しなんですけれどもね。
 やっぱり、頭と体がうまく調和していない。もしかして、この体は私のものじゃない?でも、たぶん、一番の真理は私はパニクリやすいということなのではないかしら?

2002年03月24日(日)



 電車で・・・。

またもや、山手線でずうずうしい浮浪者に出会いました。今回は、長椅子の端の格子にひょいと足を上げて、完全に横になりやがっていました。先ほど、食べたのかチョコビスケットの破片やら、そのものやらが散らばっている御様子。もちろん、浮浪者必須アイテムの少し薄汚れたビニール袋もありました。私自身の降りる駅に到着したら、ペットボトルでも投げつけておりたろかな、と妄想を膨らませておりますと、大変に空いていた車内に人がパラパラと入り出しました。先刻まで浮浪者専用のベットと化していた長椅子にも、とうとうつかれたサラリーマンたちが座り出します。
すると、この長椅子には通常、みられない面々が座り出します。まず、浮浪者のすぐ横に座った眉間にシワよりめのサラリーマンが「っくっせーんだよっ」という捨て台詞を残して隣の車両に移る。すると、携帯メールに集中する暗い技術者風の若者、横に、鼻くそをずぅっとほじっては丸めほじっては丸め、当たり一面に散らかす比較的女の子にモテそうな中途半端な兄さん、さらにその横にはメガネチェーンをなぜか胸の方にたらし、もくもくと携帯メールをやってる中年のおばちゃん、そして、さらにさらにその隣には、だらしなオシャレで髪をボーンとさせている若者サラリーマン。しかも、この若者サラリーマン、よっぽど髪型を気にしているらしく、常に髪をサワサワサワサワいじっているものの、脳天、分け目付近についている紙ふぶきの一片のようなゴミにはちっとも気づかない。
ちょっと見られない構図です。浮浪者以外の4人が、全員、メールをやりだすという瞬間もありました。
でも、しかしながら、どうも私は、髪型ボーンの兄さんの紙ふぶきが大変気になる。家に行ってから、気づいたかしら?それとも、そのうち手があたってみつけたかしら?ああ、ああ、山手線て、たまにおかしい。

2002年03月20日(水)



 神経をヌク。

まだ、やったことはありませんが、歯がよっぽど悪くなったりすると神経を抜かれちゃうらしいですね。痛くなくてありがたいことだけれど、気づかぬうちの虫歯の進行を阻止できなくなちゃッて、大変なこともあるみたい。
もし、他に神経を抜くとしたらどこをぬくかな?
反対に、どこの神経をビンカンにすべきかな?
DNA技術が発展したところで、誰も思いつかないような医学の発展を夢見つつ。
副作用は、どんなんかな?
アホなことを考えております。

ミクロな超人になるための、てっとりばやい方法ですね。

2002年03月19日(火)



 別段。

別段、格別、鬱と言う症状があるわけではないのですが、この時期はやんわりと気が抜けてしまいます。1日だけで次々と咲き始める桜のスピードに自分が追いついていないと言うか、なんというか。桜は、遠くへ行きたいという衝動をつくるばかりか、私にセンチな気持ちも残すのです。

日頃、植物どもの成長と言うのはちっとも目に付かないもので、ふと季節をまたいだ後に目をやると、「あら?お花かしら?」なんて感動を覚えたりするものです。でも、この季節の植物は、実に猛スピード。疾走していきます。寒い季節の我慢が爆発?暴発?発進?そんなもんじゃございません。今や、植物どもはマッハなのです。

同じ生き物と言うことを考えると、私たち、人間のなんとノロマカシイ(造語)ことか!日頃、ウスノロと認識している植物に次々と先を越されています。

でもね、いいじゃござんせんか。春なんですから。鬱?鬱もいいじゃござんせんか。風がゆるゆる、耳朶を揺らすんですから。遠くへ行きたい?現実逃避なんていいません。それはれっきとしたまっとうな衝動です。春なんですから。

冬。張っていた気を、夏に向けて少し緩ませる。
春をそんな季節とハナからしておけば、よろしい。

2002年03月18日(月)



 虎と馬にしますか?

あまりセンチな気分は好きではないです。
ただ、私と言う奴は、落ち込むときにドーンと落ち込んで、
その後は、晴れやか〜に過ごせる人間なので、そこらへんは助かっています。
ただ、思い出した時がヤバイ。
単純作業。
けっこう好きな作業ではありますが、それが集中力を欠いてもOKなもの、
洗濯、洗い物等の場合、急に以前の失敗なんぞが頭をよぎるよぎる。
失敗の走馬灯、失敗のメリーゴーラウンドです。
その場合、不覚にも涙がこぼれ出してしまったりします。
本当にお恥ずかしい。
「これは、トラウマになってしまうのか?」
「私はトラウマに今、襲われているのか?」
そんな事も時折、考えます。
でも、トラウマなんて負以外の何者でもありませんからね。
できれば、“前にこんなことしちゃったんだ”と笑ッた方がいいに決まっています。
社会人になって、失敗をたくさんしました。
で、これからもおそらく沢山する。
それはそれで、私の血となり肉となり、心肥えさすことを願っております。


2002年03月17日(日)



 なぜか、フリッパーズギターを聞きながら。

本当は、なんとか博士と世界塔がすきだけれど、
いかんせん、持ってないから、唯一持っているカメラ!カメラ!カメラ!を
聴いています。
春だからでしょうか。それとも、車のCMで使われているからでしょうか。
比較的色あせにくいフリッパーズギターの曲を何の違和感もなく、不都合もなく、
むしろ、快感に近い天性の本能で聴いています。

色々な人間がいるもので、本にシフトしている人、乗り物にシフトしている人、ギターにシフトしている人、ピアノにシフトしている人、映画にシフトしている人、そして、音楽にシフトしている人と、様々なシフト・ベクトルの方向を持った人がいます。そのなかで、私はと言えば、むしろ音楽にシフトしている人間。その時の心境の変化や季節、体調等で聴きたい音楽が変わっていきます。また、それは同時に同じ音楽を季節ごとに聴くというループ現象も引き起こすのです。確かに新しいCDがほしくなったりすることはあるけれど、ループ現象を引き起こすようなMY名作に入るかどうかはわかりません。新たな音楽をし入れて、新たな感覚を呼び覚ますのも確かに大切なことです。それでいくとループ現象は、非常に懐古的な現象なのかもしれません。ただ、人間にはそんなセンチになる時が必要だとも思うのです。自分の足跡をもいちど踏みしめて、これから行く先を決定するのもアリだと、私はそう思うのです。

2002年03月14日(木)



 蟹。※文中、すべて仮名。

今日は、会社で松葉蟹を食べました。
バリッボリッ、ペチャペチャ・・・。
と言う音が、無言の中で響いていました。
小島さんが、声をかけるのがはばかれるほど、一生懸命、蟹と格闘していました。
氷さんが、あっと言う間に食べ終えて、私に顔の部分をくれました。
檜山さんも、いつのまにか食べ終わっていて、顔の部分をやはり私にくれました。
顔は、山手線の中で静かに持ち帰られ、
鍋に入れられたり、そのまま食べられたりしていました。
鍋の中にいる蟹は檜山さんにもらった蟹でした。
大きな蟹なので、湯に浸かりきりません。
顔の部分だけが島のように出て、蟹が温泉気分に浸っているかのようです。
なんとなく、そんな蟹を応援したくなった私は、
一緒に入っていた白菜のみじん切りを蟹のおでこの部分に盛り、
手ぬぐいのようにしてあげました。

本当に温泉に入って、赤くゆだっているかのような蟹。

食べ散らかして、蟹の殻まみれになったちゃぶ台。

晩餐の後。

コレ、いカニ!


2002年03月13日(水)



 泣きジョーズ。(涙鮫)

今日は、早めに帰れたのでお洗濯をしながら、テレビをだらだら。
踊るさんま御殿なんて、生活にまったく影響をきたさない、
洗濯への集中力を欠かさないですむ番組をつけて。
なんとなしにチャンネルを変える。
学校へ行こうの青少年(?)の主張が映る。
もちろん、途中からなので、何を主張しているのかサッパリわからない。
でも、こちらは何か愉快なことを期待して、
洗濯への集中を欠けさせて見入る。見入る。
「母は、かまってくれませんでした。」
映し出されるその子の母親の顔。
わざわざ、このために学校にきたんかいな。暇なこっちゃのう。
「でも、三者面談の時、私の成績を見た母が」
ほうほう。
「“あんたなにしてたの!”と言ったので、私はその場で
“こんな時だけ母親面すんな”と言ってしまいました。」
ああ、あるね。そういうのあるね。なるほどね。
「帰り、母の顔を見ると目が赤くなっていました」
「毎日、私たち家族のために働いてくれるお母さん。
私はなんてことを言ってしまったんだろう。」
ここらへんで、私、泣き始め。
「お母さん、ごめんなさい」
号泣。

ああ、いつになったら、政治家の悪事と私の涙はなくなるんだろう。

後悔。

2002年03月11日(月)



 のど。

比較的変化に乏しく、比較的安全で、比較的孤独な。
そんなごくごく当たり前の幸せな日々を送っています。
でも、たまにのどの奥がちりちり痛んでくるのです。
通常通りに、自然に暮らしていますのに、突然、ちりちりするのです。
焼け焦げたのどの奥にはとりでも住んでいますかな?
小さな声で鳴きますかな?

ホーホケキョ。

2002年03月07日(木)



 本を読む。

最近、本をよく読みます。
自分でも少し感心するくらいによく読みます。
(まあ、活字中毒者からすれば、たいしたものではないけれど)
例えば、最寄駅の近くにある本屋は平日は11時までやっているわけですが、
そこにぶらりと立ち寄り、新書のところに佇むことが多くなりました。
めぼしをつけたものは、何度も何度も、手にとり、中身を拝見、
読むかどうかを考えあぐねます。

最近、この考えあぐねるという行動について、考えてみました。
本なんて、少し高いけれど、買おうと思えば買える金額。
これをなぜ、私は何度も何度も品定めするのだろうと考えました。

するとわかってきたことがひとつ。
その日は私、「センセイの鞄」なる黄色いカバーのついた本を読んでいました。
文字量も少なく、わりと読みやすい文章でトントントンと進んでいくわけです。
しかし、全部を読むとなると5時間くらいはかかります。
コレです。
コレなんです。
本を読むと必然、時間を本に食われるわけです。(もしかして、食べていただいている、もしくは、私が食べさせて頂いているのかもしれないけれど)

私は、食べられる時間を保有する者として、食べてもらう者を選んでいるのです。
(ネズミだって、もし自分を食べてもらえる相手を選ぶとしたら、鼠取りよりはカラスを、カラスよりは猫を、猫よりはライオンを選ぶはず)
でも、そんな弱肉強食を説明する際のピラミッドを自分で組み立てる作業はきっと何の役にもたたないことでしょう。


2002年03月06日(水)
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