NY州在住 <旧『東京在住』・旧旧『NY在住』>
kiyo



 恩師の死

 ずっと前は私の備忘録として機能していたんですよ。このブログ。今日は久しぶりに備忘録モードで。

 私の恩師が死んだ

※訃報:波多野里望さん76歳=元国連人権小委員会委
http://mainichi.jp/select/person/news/20080320k0000m060046000c.html?inb=rs

 私が国際法が面白いと思ったのも、文系なのに大学院に進学しようと思ったのも彼の講義や教えを受けたから、という訳では全くなく、他の先生たちの影響だったが、小学校以来学んできた恩師たちの中で初めての訃報だ。それなりに感慨深い。

 二年生から四年生まで都合三年間毎週顔をゼミであわせていた。(二年次は、外国書講読という講義だった。語学が嫌いだったために、その講義で代替したのだけどまさか彼のゼミにはいるとは全く持って思わなかった。ところで、彼にゼミにはいったおかげで、国際法模擬裁判大会なんていうものに、あろうことか弁論人として参加することになったし、おかげで今でも履歴書の一行が埋まるので助かっている)

 彼のゼミには本当に法学部の中でも変わり者が集まっていたと思う。というか、法学科の中で国際法をやろうとすることが変わり者の証といえばそうだ。合宿で夜通し「日本をどうするか」とか「国際社会にあるべき方向」とかを延々と先輩たちが議論していたときには圧巻でした。他方で、私は、国際法のコンテンツとして興味があっても、そのアウトプット(国際法を勉強して国際社会に貢献したいとか)に全く興味がなかった私にはさすがに引きました。それでもとてもエネルギッシュでいい人が沢山集まっていたものです。彼の人柄でしょう。


 どんな人かというと、彼ほどいわゆる「華麗なる人生」を歩んだ人を見たことがない。お茶大総長の父と児童教育の大家を母に持ち、小さい頃からベストセラー小説(波多野勤子『少年期』1951年。同年映画化)の主人公になっていた。一高・東京帝大を何よりも誇りにし、スキーの写真を見せられると「あーそれは終戦の次の年にスキーにいった写真だ」とか、焼け野原でフォードのオープンカーを乗り回していたこととか、数々の女優と浮き名を流したこととかを、年末のクリスマスパーティに招待されたときに毎年聞かされた。(彼の最期の著書『心謝―ボクの宝ものたちへ―』も、この手の話で一杯)

 全てが事実なのだから仕方ないし、あまりにも華麗なので嫌味にも聞こえなかった。それが彼の持ち味だったと思う。とても酒が好きな人で、合宿に行ってそば屋で昼食を取ることになっても、ビールが隣の席からオーダーされてきたのが面白かった。私が最期にあったのは、留学前に推薦状を書いてもらったときだが、サインをもらいに自宅に行ったときも、「奥さんがいなくてね・・・。悪いけどその台所に用意してある盆を持ってきてくれないか」といって、私が台所に行くと、ビールとコップが乗せてあった。思えばあれが最期だから、卒業後に会うチャンスがあった私は結構ラッキーかもしれない。ほろよい気分で、目白の自宅を後にしたのが昨日のようだ。(といっても数年前だが)思えばあれが最期だから、卒業後に会うチャンスがあった私は結構ラッキーかもしれない。


 とまあ、そんな彼の訃報を聞いてから、数時間考えてしまった。

人生を終えてどうでしたか?先生。楽しかったですか?

 晩年はガンに苦しんでいたという。(その頃から海外にでていた私だが、伝え聞いただけでも大変そうだった)ところが、前述の『心謝』には、声が出せず、流動食オンリーでも、なんてことない。全くつらくない。障害者手帳でタクシーが割引になりラッキーだ、という話が書かれてある。

本当だろうか?

『少年期』を読むに、学者肌の厳格な父のもと、四人兄弟の長男(そういえば五人兄弟で五人東大に入り、さらに入りたかった外務省にまで入った小和田家をライバル視していた。上には上がいるものだ)として背伸びして生きている様が描かれてあるが、彼の華麗なる人生を、いつも語っていた彼はずっと背伸びだったのか。それとも、ああいうキャラクターだったのか。今になっては分からない。(改めて『心謝』を読み返してみたけれど、本当に、まえがきからあとがきまで「背伸び」とも、「自慢」ともつかない話で一杯なのでわからない)

 彼には、人生を終えて、「ふぅ」とため息をつかないでほしいな、と思った。むしろ、「もう終わりかよ」と思ってほしい。ところが、そんな風にみんなに思われて生きてきた彼は、ふぅっとため息をついているかもしれない。



 どちらだろうか?考え続けて数時間がたった。76年間の人生を終えてどうですか?先生。
 冥福を祈りたい。


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[追記:他にも疑問はある]
 突出した業績(彼の愛して止まない母校である東大に入るとか、外務省に一種で入るとか、国連にはいるとか)を残さないと卒業後名前を覚えてもらえなかったけど、今なら覚えてもらえるだろうか?ちょっと不思議だ。
 4月20日のお別れ会。彼のお父さん(波多野完治氏)のお別れ会は私たちが手伝った。これも感慨深い。二代続けて葬式にでてみたいが、そうもいかないだろうな。残念です。誰かこれをみて私を知っている人連絡ください。
(写真は私の大学の写真。その頃デジカメなんてはやっていなかったので、PCにあったのはこれだけですよ)


2008年03月20日(木)
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