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傷を負った(とあえていう)女性たちの体が、モノクロームの写真となって連続する。 顔は見えない。傷そのものがモデルとなっているのだから。
「キズアトの女神」と作者は呼ぶ。かくいう私も、ときどきではあるが、傷のことを考える。左手の親指のところに、自分で付けてしまったリボンみたいな形の傷があるからである。それが左手だからなのか、左手のほうが右手にはない非日常性を秘めているように感じていた。あまりにも古い傷だけに、傷がなかったときの左手を思い出せないし、その瞬間の燃えるような痛みは覚えているが、してはいけないということをしていて負ってしまった、誰の責任でもない刃物傷なのである。
実際、体に傷のまったくない女性は少ないのかもしれない。大きな手術跡ではなくても、皆どこかしら目に見える傷も抱えている。目に見えない傷とはまたちがった意味を持つ、体の傷。しかし、大人になると、人は無遠慮に傷のことをたずねたりはしなくなる。その手はどうしたのかと聞かれなくなってもうずいぶんたつ。自分自身にとっては、それはそこにあるものであり、美しい手のモデルにはなれないけれど、隠さねばならないものではない。
前置きが長いけれど、服の下に隠れている傷は、個人的な場面でしか姿を見せない。モデルの肌の多くは、傷を負ってから数年以上の時間が過ぎたことを思わせる。その体に同化し、体とともに形を変えてゆく傷あと。好むと好まざるとにかかわらず、離れることはできないのだ。
かつてピアスを開けて知ったことは、それが「親からもらった体に傷を付ける」のではなく、自分の体をいつくしむ行為なのだということ。もちろん、自分で付ける傷と、他者によって暴力的に受けた傷とは受けとめ方が異なるが、傷を負うことで生きられる場合もある。何点か見られる心臓の手術跡も、まさに命の代償としての記憶なのだ。出産の傷もまた、命と深く関わっている。
そして多くの小さな傷は、肌のうえに残らず消えてゆく。ふと見ると、ずいぶん長いこと残っていた、かつて友人が飼っていた猫の歯型も、すでに見えない。見るたびに思い出すことができた猫の姿は、ごくたまにしか現れてこない。
写真のなかには、ほとんど傷あとの見られない手もある。あるいはこれだけが作者の手なのか、どうなのだろうと思ったりする。
作者は今、広島で原爆の遺品のなかから、心にふれた「物」を選び出して、撮っているという。時に忘れられたわけではないだろうが、資料館に展示されたりしなかった「物」から、どんな記憶が呼び覚まされるのだろう。体の傷からヒロシマの傷へと、遍歴は目的を込めた潮流となっていくかのようだ。(マーズ)
『INNOCENCE』(写真集)写真:石内 都 / 出版社:赤々舎2007
2006年05月15日(月) 『小川は川へ、川は海へ』
2002年05月15日(水) 『ゴースト・パラダイス』
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管理者:お天気猫や
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