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しつこくも、ちょっとプーさんの補足。
私にはク・リが、おそらく6,7歳の子どもにしては大人びていて 考え深いし、責任が重そうだし、さびしそうに見えるという ことのつづき。
プーさんやコブタやイーヨーのいる森に行ける 人間は、クリストファー・ロビンことク・リだけだけれど、 演劇にも才能を発揮したミルンは、物語への導入と 幕引きに、物語の外側のエピソードをうまく用いている。
クリストファー・ロビンと父親(著者のミルン)が 現実の世界で話をしている場面。
そして、ドアのところでふりかえり、 「ぼくが、おふろにはいるの、見にくる?」 「いくかもしれないよ」 (/引用)
英語では、 At the door he turned and said, "Coming to see me have my bath?" "I might," I said.
ここを読むと、「行くかも、」って。と私の神経がささやく。 そして次のイラストは、ひとりで、プーさんをバスタブの ふちっこに乗せてお風呂に入るクリストファー。
つまり、このお父さんは、やはりというか、 いつもというか、息子の実生活にはつきあわない人だった ということだろうか。 息子の世界を描いた本のおかげで世界的な名作を残したのだけれど、 途中で息子の将来を考え、執筆をやめたという経緯も読んだ。
この家にお母さんがいるのかいないのか、プーさんの本には まったく出てこないが、現実にはお母さんがいた(ぬいぐるみを 買ってきたのもお母さん)ので、 いつもひとりだったというわけではないだろう。 でも、画家のシェパードは、モデルになったぬいぐるみたちの姿は かなり忠実に描いているし、何度もスケッチに通い、 クリストファーの姿もやはり、本人をモデルにしている。 ということは、シェパードは、一人でいる子どもを、 何度も見かけたのにちがいない。
クリストファーが、プーさんを片手にぶらさげて、 ぱたんぱたんと階段をのぼってゆく姿も、 本の表紙になっているほどだから、覚えている人も多いだろう。 あの有名な絵も、子どものさびしさを象徴している ように思えてならない。あの、傾けた頭の角度も。 子どもたちは往々にして、あのように子ども部屋に あがっていくものだということも、じゅうぶんわかっている けれど、そのように見えてしまうのは、私の問題とも 自動的にかかわってしまうからなのだろう。 観察されるよりも、そばにいてもらいたい。 ぬいぐるみは仲間だけど、親じゃない。 クリストファーが苦しんだ本当の理由は私には わからないけれど、ただ、あの本があったおかげで、 親子の問題をとらえなおすきっかけも生まれた、という ことを、後になって書いているらしい。
ところで。 クリストファーのお母さんは本には出てこないが、 本のなかには、ひとりの強いお母さんが出てくる。 ぬいぐるみのカンガルー、カンガ。 ルーという幼い男の子がいて、その世話ぶりは徹底している。 まったく顔を出さないクリストファーのお母さんとは逆に、 いっときたりとも子どもから目を離さない、 ある意味では同じようなお母さんである。 やがて新入りのはねっかえり、トラーの親がわりにもなる カンガは、ウサギにいわせると、 才女じゃないけど、ルーかわいさに、かんがえもなにもしないで うまいことやっちゃう、そんな母親だ。
とはいえ、ルーがさらわれたとわかったときのカンガの行動には、 その結果責任がすべて神ならぬクリストファーの管轄に されていることは別として、敬意をおぼえる。 ミルンがどうしてカンガをこの物語のなかにおいたのか、 私のなかで、いつか答えが出ることがあるだろうか。
プーさんのキャラクターと世界が古典的名作だということは 重々承知のうえで、このお話を普遍のものにしている 伏流水のようなものが、こうしてかいま見える「さびしさ」では なかったのか、と思わずにいられないのだ。 ディズニーのプーさんには拭い取られている、 あってはならない汚れ。 やはりいつかは、最近再訳されたミルンの自伝 (『今からでは遅すぎる』石井桃子訳)を 読むことになるかもしれない。 (マーズ)
『クマのプーさん』 著者:A・A・ミルン / 絵:E・H・シェパード / 訳:石井桃子 / 出版社:岩波書店2000新版
2003年01月27日(月) 『スチュアートの大ぼうけん』
2001年01月27日(土) 『ピエタ −pieta− (1・2)』
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管理者:お天気猫や
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