2007年08月31日(金) |
070831_男子リレーで日本記録!ガンバレ日本 |
涼しくなりました。夜窓を開けて寝ると朝は風邪を引きそうです。
テレビで世界陸上を見ていたら、100m×4人のリレーで日本記録を更新してくれました。
今年の世界陸上では日本はまるで力を発揮できていなかったのですが、この快挙にはちょっと熱くなりました。
だんだん残りの種目も少なくなってきました。日本の選手の調子が総じて思わしくなく、活躍が少ないのは寂しい限りですね。
明日のリレーもガンバレ日本!
2007年08月30日(木) |
070830_大規模倉庫型店舗、おそるべし |
今日も涼しい一日。まだまだ暑さもがんばってぶり返すのでしょうけれど、もう一時のピークは過ぎたような感じです。 夜が楽になりました。
今日は神奈川県内で、我が社の土地を有効に使った事例の視察会が行われました。
多くの土地はマンションやオフィスビルになっているのですが、一つだけ変わっていたのは「costco(コストコ)」という、大規模ショッピングセンターがうちの土地を購入していたことです。
このコストコは、高品質な優良ブランド商品を低価格で提供する会員制倉庫型店舗ということで、一見すると郊外型ショッピングセンターと同じに見えますが、その安さに対するコンセプトは既存のものとはかなり違っているようです。
店内でまず驚くのは、だだっ広い店内でのその品物の並べ方。その多くがフォークリフトで運ぶパレット単位で並べられていることです。
お店で担当者がいちいち「マヨネーズがなくなりそう…」などと商品の品数をチェックして足りないものを奥から持ってくるなどというような非効率的なことはしません。 すべての品が、工場からパレット単位で包装されて運ばれてくるので、店ではそれを陳列棚の上に置いておき、商品が売れて残りが少なくなると、夜や朝のうちに、フォークリフトで棚から下ろして終わり。 品物の陳列はフォークリフトが使われるので効率的。おまけにフォークリフトが走れるように園路の幅は広く、ゆったりとした感じを与えます。
陳列する商品の数は約4500種類だそうで、これは大きめのコンビニと同じくらいの品数。つまり売れ筋の商品しか置かないことで商品の回転をよくしています。
たとえばお醤油で言うと、メーカーの数を選別して、ボトルのタイプも二タイプくらいしかおかないことで、「お醤油が必要ならこの中からお選びください。そのメーカー塗料と品質で良ければ低価格でご提供できます」というのがコンセプト。 「もっと品揃えのある中から選びたい」というお客様にはよそのお店へ行っていただいた方が良いのです、とまで言い切ります。よけいな選択肢はすべて非効率で価格を上げる要素にしかならないと考えています。徹底的な合理主義です。
※ ※ ※ ※
それにしても並べられている商品は一個一個の量が多いのです。液体洗剤は5リットルくらいの容器ですし、肉は大きな固まりです。 「少しだけで良いという人は困りませんか」と訊くと、案内してくれた担当者は「こちらは会員制で入店ができるのですが、会員カードが一枚あると二人の知人を一緒にお連れいただいても良いようになっています。見ていると、買った商品をお連れ様と分けるというようなこともされているようですよ」とのこと。
※ ※ ※ ※
さらに「目玉の一つなんですよ」と教えてくれたのは「吸塵力の落ちないただ一つの…」というフレーズでおなじみのダイ●ンの掃除機。他のお店では安くても5万円台という品が、「よけいな付属物をつけずに安さを追求しました」ということで39,800円で売られていました。これには一緒に行った仲間も「こんなに安いのは見たことがありませんよ」と驚いていました。ふーん、そうなんだ。
いかにもアメリカ的な量と買い方のような気がしましたが、買い物客は大きなカートに大きな商品をどんどん積んでいます。そういうことに抵抗感のない方も多いようです。
都会にはこういうお店もはやるのだなあ、と思っていたら、少しずつ地方都市にも進出する計画が進んでいるのだとか。 「札幌にももうすぐ出店しますよ」とのこと。うーむ、これは既存店にとっては驚異かも知れませんが消費者には大歓迎かも。
札幌の皆さん、「costco(コストコ)」という単語を覚えておいた方が良いようですよ。かなりのインパクトをもたらす予感がします
2007年08月29日(水) |
070829_高齢者ビジネスの行方 |
夕べは涼しくて、あまりに快適なので窓を開け放して寝ていたら、朝方寒気がしてきました。 まずいまずい。急激な天候の変化に体がついて行けなくて風邪を引きそうです。みなさんもお気をつけて。
今夜はある自治体の方と懇親会。その方は自治体の公園担当なのですが、お墓も担当しているとのこと。
「最近はお墓もなかなか手に入らなくて、抽選会にはお年寄りがたくさん来ますよ」とのこと。
「墓園の管理もするのですか?」 「ええ、最近は緑豊かなお墓が増えたのはよいのですが、木を植えるとそれが大きくなったときに根がお墓の下に入って墓を傾けたり倒したりすることがあるんです」
「そういう木の管理はどうするのですか?」 「個人のお墓の敷地の中に植えられたものは個人の財産なので手を入れかねるのですが、見かねた場合はやむを得ず切ることもあります」
「なるほど、緑の墓園も管理が大変ですね」 「はい。そしてこれまでは公園が少ないと言われてきましたが、高齢化が進むといよいよお墓が少ない、といわれる時代になりそうです」
「団塊世代」という、巨大な世代人口の固まりが動くところには不足があったり、それが過ぎ去ったときには余剰が発生したりするのです。
社会の変化を捕まえようと思うと、交流人口、定住人口、という人口の外に、緩やかな世代人口の動きを捕らえなくては行けないのですね。 これからの時代は高齢者ビジネスに花が咲く時代のはずです。
2007年08月28日(火) |
070828_変化を恐れない態度 |
今日の夜は耐えられないほど暑かったのですが、夜七時半頃から猛烈な雨が降り、その後は一気に涼しくなりました。 今夜は久しぶりに涼しく寝られそうです。
第二次安倍内閣が成立。閣僚には重鎮と呼ばれるような経験豊富な人たちが就任したようです。政権が失いかけた信頼を取り戻して、日本丸を良い方向に導いて欲しいものです。
それにしても今回の閣僚の選任に当たっては、いわゆる身体検査と呼ばれる、政治と金に関してクリーンであることが条件になったと報じられています。
政治には金がかかるというのは政界の常識かも知れませんが、もはや世間はそうした政界の常識を許さなくなった時代になったと言えるのかも知れません。
一度こうした流れができると、これからの政治家はお金にきれいであるという条件をクリアして上で、当選するポリティシャンとしての能力と、社会問題を素早く把握して政策に展開するステイツマンとしての能力を兼ね備えた人しかなれない、ということになるのかもしれません。
実際、アメリカの地方都市の議員や首長などは無報酬のボランティアで行っているところも多いのです。
時代が変わるにつれて、さまざまな常識も変わって行くようです。
変化に立ち向かえる者が勝ち、変化をおそれる者は負ける時代。
心も体も柔軟に構えるのが良さそうです。
2007年08月27日(月) |
070827_毎週日曜日はパレスサイクリング |
8月も最後の一週間となりました。暑さも少しずつ和らいでいるような印象です。もうピークは過ぎたかなあ。
昨日の東京巡りからもう一つの話題です。
麻生十番商店街での見物を終えて、貸し自転車場を借りた場所まで帰る途中で皇居前を通りました。すると、皇居南側の祝田橋付近で自動車通行止めの車止めが出ていました。おまけに車止めの向こう側ではやたら自転車を乗っている人が目立ちます。
(おやおや、イベントでもあるのかな)と思って、私も皇居前道路に入って行きました。
すると麦わら帽子をかぶった関係者らしいおじさんがいたので、なにがあるのかを尋ねてみることに。
「これはなにかイベントなんですか?」 「イベントと言われるとそうなんですが、毎週日曜の10時から16時まで欠かさずこの祝田橋から北側の平川門までの間を車を止めて自転車専用の道路にしているんですよ。もう何十年にもなりますよ」
「それは知りませんでしたねえ。でも自転車を持ってくるのはなかなか大変ですよね」 「そういう人のためには無料の貸し自転車もあるんですよ。皇居前の交番で貸し出しをしています」
「へえ、そうなんですか。では皆さんはボランティアでイベントの管理をしているんですか」 「そうなんです。でも本当に大変なのは貸し自転車なんですよ。この自転車は倉庫が埼玉県にあって、毎週そこから自転車を持ってきて、終わるとまた埼玉へ持って行って保管するんです。それが大変ですね」
家に帰ってきてから調べてみると、このイベントは「パレスサイクリング」というタイトルで続けられていることが分かりました。
見ていると、自分自身の高級な自転車で快走している人もいれば、親子で笑いながら乗っているお父さんと娘さんがいたりして、楽しみ方は人それぞれです。
しかし快晴の下、皇居前広場の芝と松の緑に囲まれながら車のこない広い道路でのサイクリングは快適でした。
こんな皇居などという東京のど真ん中の場所で毎週行われているサイクリングイベントの「パレスサイクリング」。
案外東京にいる人も知らないのではありませんか。
パレスサイクリングのご紹介はこちらへどうぞ → http://www.cycle-info.bpaj.or.jp/japanese/cycling/ps1.html
2007年08月26日(日) |
070826_アヴァンティの出店 |
とにかく週末が晴れれば東京巡り。しかし今日も暑かった〜、熱射病の一歩手前まで行きました。ふー
今日は文京区の春日で自転車を借りてまち巡り。私は東京FM系列で土曜日の夕方5時から放送されている、「サタデー・ウェイティング・バー アヴァンティ」という番組をよく聞くのですが、この放送の中で、ときどき登場するのが麻生十番祭りです。
これは「アヴァンティ」という架空のウェイティング・バーが麻生十番商店街の近くにあるということから、麻生十番祭りを盛り上げているという設定なのですが、その架空のレストランが実際に麻生十番祭りに出店しているそうなのです。
そこでせっかく東京にいるのだから是非見たいものだと思って、麻生十番商店街を訪ねてみることにしました。
六本木ヒルズの坂を下って行くとすぐに、それほど広くはない路地の上が賑やかで、お祭りの雰囲気です。
出店はまさにこれから始まる準備も真っ最中で、それでもお客さんでごった返している状態。出店の時間は3時から9時までなのだとか。暑い日中を避けて涼しい夕方を楽しもうという作戦のようです。
さて、お目当てのアヴァンティの出店も広場の脇に出ていましたよ。訪れる時間帯が早すぎて、ペンネ・アラビアータなど美味しいイタリア料理にありつけなかったのは残念ですが、次の機会に譲ることにしましょう。
ちなみに、後ろのビルまでそれらしく化粧をしてあったのですが、普段からここにレストランがあるわけではなくて、あくまでもこのイベント限りのことだとか。
過ぎゆく夏を惜しむような、商店街のお祭りです。
2007年08月25日(土) |
070825_人気の商店街 |
今日も晴れの一日。気温は34℃と予想されていますが、それほど厳しい暑さには感じられなくなりつつあります。体が慣れちゃったかな。
暑いけれど今日も都内を巡りましょう。
今日も三軒茶屋で自転車を借りて、目黒川に出たところで川沿いに下流へ向かって走ります。目黒川の両岸は桜が植えられていて、春はきれいなことでしょう。
目黒川は都市の中の貴重な風の通り道として有効な空間ですが、この時期水面はバスクリンのような緑色なのが残念。下水を処理した水で水質浄化している場所もありますが、もっときれいになると良いのにね。
目黒川沿いに走って行くと、賀茂真淵のお墓があるという墓地がありました。賀茂真淵といえば江戸時代に国学を起こした偉大な四人の学者の一人(国学の四大人=しうし、と読みます)ですが、ここにお墓があったとは知りませんでした。まさに犬も歩けば棒に当たる、ですね。
※ ※ ※ ※
今日の商店街は、戸越銀座と武蔵小山商店街。どちらも人手が多くて賑わいあふれる商店街ですが、武蔵小山のご自慢は、東京都内最長の800mのアーケード。これはすごい!
利用客もマナーを心得ていて、混んだ道は自転車を降りて歩きますよ。しかしどこからこんなに人が来るんだろう。さすがは東京ですね。
商店街にお祭りが多いのは夏休み最後の週末だからかな。歩いて楽しい商店街でした。
2007年08月24日(金) |
070824_「集まって住む」幸せ |
こちらの夏休みもあと一週間。見かける子供達の顔は真っ黒です。
数年前に大学教員へ転職して関西へ移っていったかつての同僚のA君が上京のついでに訪ねてきてくれました。二人して北海道の地名のついた飲み屋さんに入りました。北海道の地名を見ると、食べ物が美味しそうに感じるのはなぜでしょう。
A君とはもう5年ぶりくらいでしょうか、つもる話をしながら話題はつきませんが、面白い話満載です。
「最近、俺の家の一軒離れたところの3LDKのマンションが売りに出たんだ」とA君。A君は神戸のマンションに住んでいるのです。
「で、親が離れていていろいろ不安もあったから、そこを買わないか、という話をしたら親もその気になってね。結局そこを買って、今は親の引っ越しの最中なんだ」 「へえ、じゃあ親となんとなく近くに住めるようになったんだ。それはいいなあ。でも地域のコミュニティとか地域づきあいってあるのかい?」
「いや、地域づきあいはないなあ。典型的なマンション暮らしだな。でもこうしておくと、子供が成長して、やがて親が亡くなって家が空いたときには大きな家の方を子供に譲って、俺たち夫婦が小さな家に移るというような世代間の移動もできるんじゃないか、と思ってね。」 近場の家で上手に世代の交代がなされると、地域の年齢構成も安定するかも知れません。
「いいじゃないか」「それがさ…」「え?なんだい」 なにかありそう。
「女房がさ、『なんだか近所づきあいのある場所に移りたかった』みたいなことを言うんだよ。官舎に入っていたときは、『階段掃除をやらない人がいるから自分がやらなくちゃならない』なんて不満を言っていて、だから近所づきあいのいらないマンションにしたのにな」と苦笑い。
「面白いなあ、年齢や経験を重ねていく中でどういう心境の変化があったんだろう。その辺を聞いておいて欲しいなあ」
A君との楽しいひとときでした。
※ ※ ※ ※
「人が集まって住む」そのなかに、幸せを見つけるというのはどういうことなんでしょう。
青い鳥は案外近くにあるのかも知れませんけどね。{/
2007年08月23日(木) |
070823_「日本幽囚記」(ゴロヴニン著 岩波文庫)を読む |
今朝は早くから一雨降って気温も大きく下がりました。窓を開けて涼やかに寝られたのは久しぶりです。
アマゾン・ドット・コムの古本で買った「日本幽囚記」(ゴロヴニン著 井上満訳 岩波文庫〜現在は絶版)全三巻を一気に読みました。
面白い!近世の日露外交史の一ページとも読めれば、運命にもてあそばれるように日本(北海道)に囚われの身となったロシアのディアナ号艦長ゴロヴニンの冒険譚とも読める。 また、その代償として逆にロシアに囚われた日本の商人高田屋嘉兵衛の肝の据わった日露の友情譚でもあり、おまけに19世紀初頭の蝦夷地の市民生活の記録でもあるという、実にいろいろな意味を含んだ極めて優れた書物です。
この物語を理解するには、江戸時代中期の対ロシア外交を概観する必要があります。
ロシアは18世紀末ころから北太平洋の領土経営のために日本との交易を求めるようになります。それはまだ航海技術が発達していないために、近場で交易ができるように希望したものです。
そこで1793年にラクスマンを派遣しますが、江戸幕府では長崎に寄港させた上で交易は認めませんでした。
ロシアでは長崎では遠いので、蝦夷地での交易を希望して1803年にレザノフに政府の訓令をもたせて日本を訪れますが、そのときの対応は十年前のラクスマンのときよりもさらにつっけんどんな対応で、レザノフは頭に来て、武力による政策が必要と思うようになります。
そこでレザノフは部下のフヴォストフらとともに樺太の襲撃に向かいます。事実としてはどうやら途中でレザノフ自身は考えが変わったらしいのですが、命令はそのままにフヴォストフは文化3(1806)年の夏に樺太を襲撃し、住民を殺害して村を焼き払うという事件が起きます。世にいる「フヴォストフ事件」です。
このため日本はロシアを意識した北方に目を向けるようになり、近藤重蔵らを国後島まで派遣して、北方の事情を調べるようになりました。 ちなみに近藤重蔵は、北方の島々と蝦夷地を視察するの旅の途中で蝦夷地を歩くための道をアイヌ人を使って開削します。今の黄金道路の広尾町あたりのビタタヌンケ〜ルベシベツの間の山道で、これが北海道の道路開削の嚆矢と言われています。
このフヴォストフ事件の思いがまださめやらぬ頃に北方の島々の測量のためにやってきたのがこの本の著者のゴロヴニンで、彼と6人の船員が文化8(1811)年に択捉島で日本の守備隊によって捕らえられることになります。 世に言うゴロヴニン事件です。
艦長のゴロヴニンが捕らえられた後、彼らのディアナ号には副館長に相当するリコルドが残されますが、彼は絶望の中にもゴロヴニン奪還に向けて活躍を始めます。
そしてその活動のなかで高田屋嘉兵衛たちがリコルドに捕らえられることになるのです。
囚われたゴロブニンらは松前島(北海道のこと)の松前に連れて行かれ、一時は脱走を試み三日にわたって北海道の山野をさまよいますが最後には再び捕らえられるというドラマもありました。
しかしよくよく観察してみると、日本人が彼らに対する応対は一貫して礼儀にかなったもので決してそれまでオランダ人によってヨーロッパに伝えられた未開で野蛮な国というイメージを全く覆すものでした。 彼らは接触した通詞(通訳)の熊次郎や村上貞助らから日本の文化について様々なことを聞き出し、日本観を改めて行きます。
さて、逆にロシアに囚われた高田屋嘉兵衛はここで男気を発揮し、ゴロヴニンがまだ松前で生きていることをリコルドに伝え、同時に自分の一身に替えてもこの問題を解決しようと決心します。
その態度にリコルドもうたれ、全幅の信頼を高田屋嘉兵衛に寄せるようになります。
嘉兵衛は囚われている最中にロシア語を勉強して意思疎通を図れるようになると、日露の仲介役として活躍し、ついにフヴォストフ事件はロシア政府の知らない、個人の独断であるという公式文書を渡すことで双方の人質を交換するという策に出てこれを日露両国が了承し、函館にてゴロブニンを引き渡すという、この事件のクライマックスを迎えることができたのでした。 この本は、捕らえられたゴロヴニンの手記と、残された艦長代理のリコルドによる補足的手記、ならびに訳者が日本側の公式文書を注としてつけることで、三つの視点でこの事件を俯瞰することができるようになっています。
下手をすると武力衝突しかねない、緊張した状況の中でも信頼を寄せることで円満な解決を迎える最後のシーンは、よもや小説でもこれほど上手には描けまいと思うほど感動的です。
※ ※ ※ ※
最後の喜びに満ちた別れのシーンでは「タイショウ」と呼ばれた高田屋嘉兵衛の見送りに対してロシア艦の全員が万歳にあたる「ウラー!」を三唱します。 「タイショウ、ウラー!」
そして嘉兵衛は見送る船の一番高いところに立って拳を突き上げて「ウラー!ディアナ!」と叫ぶのでした。
これは日露間の信頼と友情の物語でもあるのです。
2007年08月22日(水) |
コミュニケーションで人を変える |
甲子園は佐賀北高校が満塁ホームランで逆転して初優勝したのだそう。おめでとう。新しい伝統がまた一つできました。
※ ※ ※ ※
私は医療系メルマガの、MRIC(エムリック)というところから記事を配信してもらっています。ここは医療を取り巻く様々な話題や情報をより深い視点から送ってくれて楽しみにしているのです。
今回はここから、「これから月1回程度、医療とコミュニケーションに関する連載を始めます」という記事が送られてきました。著者は林 英恵(はやし はなえ)さんという方です。
コミュニケーションはなんのためか考えさせられましたのでご紹介したいと思いました。
ではまずこの記事をご一読ください。
*******【以下記事内容】*******
●二つのきっかけと連載の目的
インドで、HIV/AIDS 分野の予防啓発活動の一環として、CM づくりに携わっていた時のこと。
「日本語にHealth Communication やBehavior Change Communicationという言葉はあるのかい?」当時の上司からの質問だった。
それぞれ「ヘルスコミュニケーション、行動変容のためのコミュニケーション」という訳語が頭に浮かんだ。※
※ちなみに「ヘルスコミュニケーション」については、MRIC の掲載記事(2006 年 2月6日号)で別府文隆さんがとてもわかりやすく解説されている。 「Behavior Change Communication(BCC)」は、「保健分野のプロジェクトに必要不可欠な、健康教育・広報コミュニケーション活動のこと。(これらの活動においては、)必ず最終目標である、人びとの健康に結びつくような個人の行動変容が起きなければならない」 ( http://www.joicfp.or.jp/jpn/problem/bcc.shtmlJOICFP より) とある。
「それぞれに相当する訳語はある。でも、日本語に訳されたHealth Communication やBehavior Change Communication という言葉が、医療や公衆衛生に従事する人の中でも十分に共有されているとは言いにくいことを踏まえると、確実に"言葉が存在している"とは言えないのかもしれない」と答えた。
「だったら、そういう概念が伝わるように君がこれから何とかすればいいんだよ。」茶目っ気たっぷりの上司は、ウィンクしながらそう言った。
* *
そしてもう一つは、全く別の機会でのこと。
友人でもある医師(英語も堪能)に、日本語に訳されたヘルスコミュニケーション分野の資料を見せていた。
すると、一通り目を通した後で、彼が一言。
「これって、(カタカナばっかりで)英語で読んだほうが絶対わかりやすいね!」
日本語になっていて、これなら理解してもらいやすいだろうと思って差し出した資料のはずだったのだが、予想外の反応だったのだ。
* *
この二つの出来事が、今回、連載の目的を決めたきっかけです。
アメリカを中心に、ヘルスコミュニケーションという分野が確立され、医療と公衆衛生の分野で政府や、国際機関、研究機関、企業など含めた様々なレベルの組織がこの分野の概念を盛り込んだプロジェクトを遂行しています。従来の広報を中心とした「業務内容を知らせる」ためのコミュニケーションではなく、ターゲットの行動変容を目的にした戦略的なコミュニケーションという考えは、日本においても、この国の社会に合った形で普及されれば、医療と公衆衛生分野において新しい風を吹き込むものになると考えます。しかし、現状は、日本語でこれらについて書かれた文献や資料は限られており、訳語としてではなく、言葉としてこの分野の概念を共有しやすいとはいえない状況にあると感じています。
本連載では、「医療/公衆衛生・コミュニケーション・メディア」を柱に、ヘルスコミュニケーションに対するイメージを皆様と共有させて頂くことを目的としました。様々な形で医療や公衆衛生に携わっていらっしゃる皆様に、ヘルスコミュニケーションという世界の存在を知って頂くこと、そして必要な時が来たときに、その扉を開いて頂ければ幸いです。
私の尊敬する人はいつも言います。
「Obstacle means chance! 」(障害はチャンスである!)。
これから、日本の医療と公衆衛生に貢献できる大きな可能性を秘めているこの分野の将来に期待して、連載を始めたいと思います。
*******【記事内容おわり】*******
つまり、コミュニケーションというのは、大切なことを伝えた結果、相手がそれを理解した上で状況を改善するように行動をうつすところまでいって初めて目的を達するのだ、ということ。ただ「話をした」「私は伝えた」ということだけではだめ、ということです。
じつはまちづくりも同じで、いくら良いことを言ってもその結果として関係者が行動を起こしてくれなくては成果は出ないのです。
ブログを読んだだけで読者が行動を変える…そんなことができるものでしょうか。
そういう意味で、今後送られてくるメルマガがなおいっそう楽しみになりました。
2007年08月21日(火) |
070821_ピンチはチャンス |
夜に蝉がベランダに止まって大きな鳴き声を発し始めました。ただでさえ暑いのに、よけいに暑苦しくてタオルをもって追い払いました。かわいそうだけど許してね。
北海道から知人が尋ねてきてくれたので職場の近くで軽く飲みました。知人は建築と土木の建設業の若手専務です。
景気は相変わらず悪いようですが、そんな事ばかりも言ってはいられない、というので新たな分野に挑戦しているのだそうです。その一つがホテルのリニューアルという分野なのだとか。
「ホテルのリニューアルって、そんなに需要があるんですか」 「外資などに経営母体が変わって、チェーンのホテル全体がイメージを一新するということがありますね」
「北海道でですか?」 「そういう場合は全国チェーンですから、関西や北陸まで呼ばれていきますよ。でもリニューアルというのは、それまでの施設があるわけですから、壁紙をはがしながら次に張る壁紙を用意する…というように工程がどんどんかぶってきて苦労も多いです」
「工期だって短いのでしょう?」 「ある物件では、月曜から金曜日の五日間で仕上げて欲しいという施主からの要望で、二名の現場監督を昼夜交代で担当させて仕上げました。でもそれだと結構な金額の契約になるので、やりがいもありますね」
「でも厳しい条件の仕事をこなして行くと、実力もついてくるのじゃないですか」 「そうなんです。内地で民間の仕事を受ける建築の部隊は厳しい条件をクリアして当たり前という感覚が身に付いてきているのですが、道内で公共事業しかないという土木の部隊はどうしてもその辺の意識がついていかないみたいですね」
苦しい状況を一歩ずつ超えてみると、苦しかった条件を当たり前にこなしている自分に気づくのだそうです。
ピンチはチャンスなんですね。
北海道にも志のある建設業者さんはいるものです。
2007年08月20日(月) |
070820_宮本常一著「日本の村・海を開いた人々」を読む |
暑い暑い。こんなときは食事の前に炭酸飲料が良いそうです。胃の中に炭酸が入ると胃のぜん動運動が盛んになり食物を効率的に腸に送り込んでくれるのだそう。
夏の夕食前のビールにはそういう意味があったんだ!
さて、ネタのない日は読書感想文と参りましょう。
今日は宮本常一さんの「日本の村・海をひらいた人々」(ちくま文庫)をご紹介。庶民の日々の営みとその変遷を、常に暖かい目で見つめる宮本民俗学の名著です。
宮本さんという方は実に旅をした方ですが、列車の窓から見える風景を写真に撮り貯めたりスケッチを描きためるのが好きでした。そんな中、民家の屋根を見つめ続けて気づいたことがありました。
それは、屋根の形の違いなのですが、なかには比較的大きな棟とそれより小さな棟が二棟並んで建っている家があるのでした。中には二棟がくっついて建っているものもみかけます。
そうした家に入ってみると、大きな棟は座敷になっていて、小さい家の方はカマドがあって煮炊きするようになっているものが多いのです。 大きい方は大家などと言い、小さい方はカマヤなどと言っていたそうです。
このとき大きい家の方では寝たり起きたりお客を迎えたり神仏を祀ったりしていて、小さい方ではご飯を炊いたり食事をすることが主な役割になっています。
しかし家が二棟あるのは不便なので、だんだんにくっつけてきたのでしょう、一番下の絵の家では茅葺き屋根は二つあるのにその下の瓦屋根はもう一体になっている、そんな家も見かけます。
※ ※ ※ ※
それがさらに進んでくると、こちらの絵の上の図ではもう完全に屋根はほぼ一体化してしまっています。しかしよくよく見ると、入り口が二つあるのだそうで、玄関と勝手口とを区別しているのです。
少し前までは、家が一棟でも玄関と勝手口が二つあるというのが多かったのです。漫画のサザエさんの家もそうなっていましたね。
実はそれはこうした家が、元々は二棟からなっていたのが一棟になった名残だからなのではないか、というのが宮本先生の考えです。
ではなぜ二棟の家が必要だったのでしょうか。宮本先生はこれを、「今ではもうよく分からなくなっています。しかし、大きな家の方はもともと神様を祀るための家で、そのために地面からできるだけ上げるように作られたのではないでしょうか。そして小さな方は火をたいて日常生活をするためだったのではないか、そんな風に思うのです」と想像しています。
先生は「もちろん違う考えがあっても良いのです。そこから先は皆さんで考えてくださいね」とも言っています。
ひたすら屋根の形を見続けて記録をし続ける。そしてその違いから祖先が進んできた道を想像する…。
宮本先生はそうした祖先のよりよい生活を目指して改良を加えた努力を「とうとい」と表現します。常に優しいまなざしで日本中を歩いて回った知の巨人の足跡がここにはありました。
日本人なら読んでおきたい一冊です。
2007年08月19日(日) |
070819_暑い夏には冷製揚げ出しナス |
今日は再び気温が30℃を超えて、熱い一日。さすがに今日は外へ出るのはよして、家の中の整理や掃除、夏休みの読書で一日を過ごしました。
今日の夏の涼は、冷製揚げ出しナス。先日札幌で行ったおそば屋さん「こはし」さんのところで食べた京都賀茂ナスの冷やかけが美味しかったので、見よう見まねで作ってみたものです。
賀茂ナスが売っていないので、米ナスで代用。これのお尻とへたの部分を切り取って、真っ二つにし、ちょいと多めの油で揚げ焼きします。
本当はたくさんの油で揚げた方が良いのでしょうが、油の後始末を考えると素人なら焼けば十分。上と下をひっくり返しながら油で焼いて行きます。
ほどよく油を吸収して焼けたら、市販の出しつゆを暖めて煮て行きます。じっくり煮て味がしみたな、と思ったところで火から下ろし、そのまま冷えるのを待って冷蔵庫へ。
この冷製揚げ出しナスを一昨日のうちに作っておいて、冷えたところを今日いただきました。
冷たいナスに鰹節、みょうが、しょうがを加えると、うーん、薬味の香りが食用をそそる、暑い夏も幸せ。{/hiyo_cock/}
しかし写真は、鰹節が散らばってしまい美味しく写りませんでした。くそー、素人だから仕方ないかな。
2007年08月18日(土) |
070818_目指せ普門館! |
夕べは気温がぐっと下がって、久しぶりにエアコンをかけずに夜寝ることができました。
今日はそれほど暑くならないようなので、またまた自転車巡りのツアーに出ることにしました。今日は世田谷から杉並区方面を巡ろうと思います。今日は最後に「普門館」というところまで行こうと思うのです。
いつも通り、東京の西側を巡るなら三軒茶屋がスタートです。ここで自転車を借りると今日はそのまま首都高3号線の高架を眺めながら国道246号線沿いに西へ向かいます。
駒沢あたりで右に太い通りが出てきたのでそちらへ進路変更。と、曇りだった空から細かな雨が降ってきました。(ううむ、雨が降らなきゃいいがなあ)と思った頃に、真っ赤な鳥居を過ぎました。
赤い鳥居といえばお稲荷さん、お稲荷さんといえば自然神のシンボルみたいなものですから、ちょっとご挨拶を。
こちらにあるのは久富稲荷という神社ですが、もうこちらには400年も鎮座されているとのことです。古いんだなあ。
こちらは参道が随分と長いのが特徴で、なんと250mもあるのですが、鳥居がある参道に面して家が建っているのはちょっと不思議な感覚。東電の方はスクーターで回っていました。だって車は通れなさそうですもんね。
※ ※ ※ ※
続いて今日の目的地の一つである環状八号線沿いの砧公園へ。
この砧公園は、昭和15(1940)年に紀元2600年記念事業の一環として「防空を名目として」事業化が決定された6カ所の大規模公園のうちの一つです。
太平洋戦争が昭和16年に始まると本土空襲は現実味を帯びた問題となり、防空緑地としてこの公園が土地を取得され整備されたのでした。
しかし敗戦と同時にこの緑地は農地解放の対象とされて失われてしまいます。それは戦争末期に食糧増産のためにイモ畑にしていた緑地を実質的に農地と見なされてしまったからで、その後の緑地行政にとってはこの誤った農地改革は大打撃であったと言わざるを得ません。
当初の都市計画では86haだったものも、今では46haの公園になってしまいました。残念!
※ ※ ※ ※
続いて自転車は環八を北上して、神田川の支流である善福寺川の両岸に細く広がる善福寺川緑地と和田堀公園へ向かいました。
この二つの公園は、先の防災緑地に先立つ昭和14(1939)年の東京緑地計画の中で、河川に沿って公害からくさび上に市街地に入り込むように計画された緑地です。
今では貴重な緑のネットワークを形成しています。実際に善福寺川沿いのサイクリングロードを自転車で走ってみるとこれが実に長い!戦前の内務官僚は考えることのスケールが大きかったですね。
そしてこの河川沿いにどんどんと下って行くと見えてくるのが「普門館」という巨大なホールです。
このホールは立正佼成会という宗教法人のホールなのですが、もう一つの顔は、毎年秋にここで全国吹奏楽コンクール大会が開催される、その会場、つまり吹奏楽の甲子園というわけ。
なぜここが全国コンクールの会場なのか、には諸説あるようですが、一度に約5千人を収容できるホール施設というのはそう多くはなく、しかも今では吹奏楽関係者の間で「目指せ!普門館!」がもう合い言葉になってしまっているから、ということのようです。
実は金曜日に東京都の地図を見ていて、普門館の場所を見つけたので今日のまち巡りはこちらにしたのです。娘が志しながらついに来ることのなかった会場を、せめて代わりに見ておこうと思ってはるばるやって来たというわけ。
「目指せ普門館」ということがなければ単なる大きなホールでしかないのですが、夢と希望と憧れという、多くの人たちの思いのこもった場所かと思うとまた違って見えてきます。
別に娘の恨みを晴らそうという思いはありませんが、(そうか、娘が夢に見た場所がここなのか…)とある意味で感慨もひとしお。これも親バカなんでしょうね。
おーい、娘よ!代わりに来てやったぞー!はっはっはー!
2007年08月17日(金) |
070817_小さな古書店の心意気 |
石屋製菓の社長が辞任を発表。これまでの対応を社長も知っていたということではもう世間にいいわけはできませんね。 旧弊を断ち切り、質の高い製品を世に送ることで立ち直って欲しいものです。
※ ※ ※ ※
さて、我が家の近くの小さな駅前商店街のビルには「●ニマ書房」という古本屋の看板が掛かっています。ビルの二階へ案内するその看板は、どう見てもちょっと怪しげな雑誌ばかりが置いてありそうな名前で、いままでは無視して入らずにいました。
しかし今日はどういう弾みか、少し覗いてみようと思い暗い階段を上がってみました。
「いらっしゃいませ〜」姿の見えないおじさんの声。
すると、「…ん?」並んでいるのは古書や全集もの、岩波文庫、平凡社ライブラリーなど質の高い古本が多いではありませんか。一般の推理小説や売れ筋の軽い読み物などがほとんどなくて、これで売れるのかなと逆に心配になるほど。
本棚を物色するうちに、宮本常一さんの全集の一部など普段はなかなかお目にかかれない本が並んでいるのに感動して、思わずお店のご主人に声をかけました。
「並んでいる本の質が高いですね。店構えがビルの奥なので変なお店かと思っていたのですが、すみません、感心しました」
するとご主人は「そうですかねえ」と言いながらちょっとうれしそう。 「うちは神奈川古書組合に加盟していて、そこと神田の市から本を仕入れているんですよ」 「私は探せない古本をネットで探して買ったりしています。中には送料が340円で、本は1円というものもあるんですよ」
「古本をネットで売っている古書店は全体の2割にも満たないのではないでしょうか。1円の本というのはどんなものかよく分かりませんが、配送業者と契約をすればその値段で元が取れるんでしょうね」
「こちらの本には値段がついていませんけど…」 「本の裏にとれるような値段表が折り込んであるはずです。本はどんな形でも汚すべきではないと思うので、値段のシールを貼ることもしないようにしているんです」
ううむ、本に感動したところにはガシガシと鉛筆で印を付ける私のような読み方は本には申し訳ないのかもしれません。
「作家順に並んでいるということもないんですね」 「本は出会いだから、少しお客さんも苦労して探した方がいいんですよ、ははは」
こんなに店は小さくても、こんなに本に対する思い入れのある古書店が身近にあったとは。やはり都会ゆえなのかな。
古書店で塩野七生さんのローマ人の物語の文庫版が1巻から28巻までそろっているのは初めて見ましたよ。
2007年08月16日(木) |
070816_ゴロブニン著「日本幽囚記」が届きました |
夏休み中に函館旅行をして知った高田屋嘉兵衛の物語。そこで知ったのがゴローニン事件と当のゴローニンの筆による「日本幽囚記」です。
江戸時代半ばの、黒船が来るまだ50年も前の日本対ロシアによる国境付近での小競り合いがゴローニン事件。江戸幕府によって松前に捕らえられたゴローニンによる日本での記録は、そのまま当時の西洋人の目による日本の生活記録であり、また西洋人から見た日本人感が生き生きと描かれています。
この本、函館の資料館では岩波文庫から出版されているものと思いこみ、札幌の書店で探したところなんとすでに絶版になっていたのです。
困ったと思いましたが、古本でも良いと言うことに気づき、早速Amazon.comにアクセスしてみたところ、おお、上中下の三巻セットで2500円という価格で入手可能ということが分かり、札幌を出る直前に注文をしておいたのでした。
それが今日の夕方に届きました。状態は悪くありません。この3冊は、1996年秋の岩波文庫リクエスト復刊として復刻したものですが現在の目録にはもう載っていない今や幻の文庫本です。手に入って良かった〜。
中身はこれから読むところですが、漢字が旧字体なのと訳文が古めかしいために、慣れないと少し読みづらいかも知れません。
高田屋嘉兵衛を主人公とした小説「菜の花の沖」の著者である司馬遼太郎さんは雑誌のインタビューに答えて、「日本幽囚記は当時のヨーロッパの日本人感がよく表されていて大変に優れた書物です。今の日本人はこういう本を読まなくなりましたが、大変残念なことです」と嘆かれておりました。 北海道に縁のあるものとして楽しみな本です。
ちなみにこの3冊、定価の合計が2220円で、入手した費用は2500円+送料340円。古本なのでカードでしか購入できませんが、高い?それとも安い?
※ ※ ※ ※
改めて、インターネットがあればこうした埋もれた蔵書にも巡り会い入手することができる社会になったのだなあ、と感心しました。 同時にまた「なんだ、本に関する限り、都会も田舎も関係ないじゃないか」という思い。道路さえつながっていて日本語が読めさえすれば、すぐれた知恵にたどりつくことは可能なのです。 本や知識への出会いの連鎖を前向きに捕らえましょう。
2007年08月15日(水) |
070815_信用という財産〜お土産は「●い恋人」 |
久しぶりの職場も今はお盆と言うことで半分以上は夏休み。パソコンのメールがたまりにたまっていました。
職場の同僚たちには、北海道からのおみやげを配ろうと汗をかきながらおみやげ袋を通勤電車で持ってきたのは私です。
新千歳空港ではおみやげをいろいろと探しながらも、一番無難なところで北海道の定番である「●い恋人」を買い求めました。ところが今朝ネットを見ていたら、なんとこの超有名商品に賞味期限のごまかしがあったのだとか!
返品された品をまだ大丈夫だからと再度包装して売ったのだそうですが、なんとも情けないことです。
「賞味期限が改ざんされた商品には賞味期限が『平成19年8月31日』『平成19年9月30日 』と記載されている」とのことで、まさか私の買った品はそういうことはないよね、と思いながら賞味期限の表示を見ると、11月になっていたので問題の品とは違うことが確認できました。
職場で配るときも「今話題のお土産です」というのが洒落にならなくて、皆苦笑いです。
それにしても、数あるおみやげの中からわざわざこの品を選んだのにという、残念な気持ちも。信用は作り上げるのには時間がかかるけれど、失うのは一瞬で事足りてしまうから恐ろしいものです。
この商品、返品のために空港からは一斉に姿を消しているという報道も。せっかく北海道が生み育てた有名ブランドなのですから、【反省すべきところは反省して】再び良い品作りで信用を回復して欲しいものですね。
…ん?つい最近も聞いたようなセリフだなあ
2007年08月14日(火) |
070814_夏休みの終わりに |
お昼頃に見知らぬ電話番号から携帯に電話がかかってきました。
「誰だろう?」と思いながら電話に出ると、「あのう、こままささんでしょうか…?」とおずおずとした声。「私は、札幌に住んでいるSと申します…」 「ああ、あの落とし物の…」
実は日曜日にまちなかに出かけた際に、本屋さんの前で財布を拾ったのでした。相手が分かればすぐに連絡してあげようと思って中身を見ましたが、銀行のキャッシュカードや保険証なども入っていて落とし主の名前は分かったのですが、連絡先を示すものがありません。そのため自分で連絡することをあきらめて交番に届けたのでした。
交番では私の住所や電話番号などを連絡し、「持ち主にこの電話番号を教えてもよろしいですか?」と言われたときに「まあ、連絡くらいでしたら」と答えたので、お礼の電話というわけです。
「いや、もう本当になんと言ったらよいか…」 「大変でしたね。財布の中にはいろいろ大事なものが入っていたのでさぞ困ったことでしょう。特にお礼はいりませんし、お互いに落とし物には気をつけましょう」 「はい、ありがとうございました」
大事なものを落としたときのことを考えると、明日は我が身。社会が信頼できるということは良いことです。
※ ※ ※ ※
夕方の飛行機で東京へ。夏休みも終わりです。
降り立った羽田空港からは富士山がくっきりと見えました。明日からは仕事に復帰。まだ暑い夏が続きそうです。
2007年08月13日(月) |
070813_洞爺湖〜羊蹄山〜美しい日本 |
今日の札幌の最高気温は34℃!暑さがニュースになるほどです。
こういう日はエアコンの効いた車の中にいるのが一番、というわけでもありませんが、この夏休み最後のイベントはやっぱり墓参り。今日は洞爺湖町にある母方のお墓に手を合わせてきました。
来年サミットが開かれる会場のウィンザーホテルを右に見ながら洞爺湖畔へ。湖畔からは、有珠山噴火で通行不能となった旧道の切り替えによる三豊トンネルと青葉トンネルを使えば、以前よりも格段に早く海側の国道37号線に抜けることが出来ます。 開通の噂だけは聞いていたのですが、今日やっと通行することが出来ました。
有珠山噴火の特徴は火口が一定していなくて、そのたびに新しい火口ができるということなのですが、今回のトンネルは旧道からさらに西側に離れる位置に造られていて、次回の噴火にも耐えられるものになっています。
高速道路の洞爺湖インターチェンジもこの二つのトンネルの中間に移される予定とのことで、高速道路から洞爺湖温泉へのアクセスも改善されることでしょう。インフラ整備は地道なところで行われているのです。
インフラというのはほんの少し前を知っているものにとってはあるのとないのとの差がよくわかるのですが、ひとたびできあがってしまうとそこにあるのが当たり前に思われがちです。
それは後世をより良い時代にしようという人間の営みの結晶です。宮本常一先生の言葉を借りれば「尊い営み」ということになるのでしょうけれど。 美しい日本を支えている努力と叡知のかけらを見せてもらいました。
* * * * *
墓参りのあとは、羊蹄山から湧き出る水を汲みに行きました。羊蹄山のわき水は京極町が有名ですが、坂を下りるのがなかなか大変なので最近は真狩村にある水汲み場を利用しています。こちらのほうが駐車場の近くでくめるので便利なのです。
羊蹄山も今日はくっきり見えたのですが、写真を撮って改めてみると風景を電線が邪魔しています。景観のポイントとなる地点から少しずつでも、電線の姿を消してゆくことは次の時代へのわれわれの責任ではないかとつくづく思いました。
美しい日本はどこへゆくのでしょうか。
2007年08月12日(日) |
070812_狸小路のディスプレイ |
北海道もいよいよ夏本番。最高気温が30℃を越すようになり、エアコンのない我が家は大変です。
北海道では、暑いといってもあと一週間のこと。おまけに夜は窓を開ければ暑くて寝られないということもありません。 せいぜい日中はふうふう言いながら暑さを楽しみましょう。
夜知人と会いに札幌のまちなかへ出かけました。通りかかった狸小路は夏のイベント狸祭りの真っ最中。
賑やかな飾り付けとともに大きな狸のビニール風船が登場していました。狸小路のアイデンティティを活かして、目を引くこうしたディスプレイは良いですね。
すすきのも人が多かったなあ。夏は暑い方が景気が良くなるのです。
2007年08月11日(土) |
070811_函館二日目〜高田屋嘉兵衛に出会う |
函館の二日目です。今日は暑くなりそうです。
朝ご飯がてら、函館朝市をぶらぶら。最初の角で気っぷの良いカニ屋の奥さんから「カニの選び方知ってるかい?知らないしょ?知らないとだまされるよ、損するよ!」と声を掛けられ思わず足を止めてしまいました。上手だな〜。
「まずオスとメス、どっちの値段が高いか知ってる?」 「・・・メス・・・かな?」 「ブッブー。反対!メスは卵に栄養をとられるから身が入らないの!オスでなくちゃだめ。これ第一ね」
「『茹でたて』にも気をつけてね。ちょっと前に死んで鮮度の落ちたやつを【茹でたて】にすることもあるし、地方発送のときは、目の前で見た良いやつを本当に送ってくれるかという信用もあるのよ。店に茹で釜がちゃんとあるかどうかも見極めて。うちじゃ、買ってもらった良い品にタグをつけて、それを食べるという日の直前に茹でて送るからね。お店はちゃんと選んでよ」とのこと。
確かにカニなんて、あまり知識も持たないままに結構高い買い物をしているのだなあ。ほうほう、これからは信用がおけるかどうかを第一にお店を選ぶことにいたしましょう。発送料はサービス、などという、『安けりゃよい』というのには、やはり安い理由があるようで。
* * * * *
そのお店で教えてもらった朝ご飯の店が、どんぶり横町の「茶夢」。「ご主人がイカ釣りの漁師だからとにかくイカが美味しいよ」とのこと。
そこでイカ入りの三色丼を頼んだところ、ご主人が現れて「それだけでいいのかい・・・」と話しかけてきます。 「・・・ど、どうすれと・・・」 「イカソーメン食べてみない?絶対旨いから」 「なるほど、ではいただきましょう」ということで、お勧めのイカソーメンをいただくことに。
出てきた三色丼は新鮮なイカ、ホタテ、イクラで美味しかったけれど、併せて小鉢の付け合わせがぞろぞろと出てきます。そのうち「旦那さん、旦那さん」と声がかかり、「イカソーメンの切り方を見せてあげる」とのこと。
その様子は、まず一枚のイカを薄く切り、それぞれをさらに薄く斜めに包丁を入れれておきます。そしてその二枚を重ねて今度は蕎麦よりもさらに細く引き切りで切ってゆきます。これは細い!
出てきたいかソーメンを特性つゆでいただくと、おお!これはイカが甘い!細く切ることでイカの甘みが強調されるのです。これは絶品。なるほどこれからは私も包丁をよく研いで、練習してみたくなりました。 しかしご主人この腕前を見せたくて仕方なかった風。ともかく、美味しかった。ごちそうさまでした。
* * * * *
さて、今日のメインは高田屋嘉兵衛の資料館。地図で調べてたどり着いてみたら、なんと昨日も来た金森倉庫群の一角でした。なんだ〜、昨日来れば良かった。
高田屋嘉兵衛をWikipediaで調べると、『高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ、明和6年1月1日(1769年2月7日) - 文政10年4月5日(1827年4月30日))は、江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥』と出てきました。
高田屋嘉兵衛は淡路島生まれで、江戸末期に函館を中心に活躍した廻船問屋です。しかし単なる商人でなかったのは、鎖国時代に北方領土を巡って対ロシアとの間の国際紛争になりかけたゴローニン事件に関わって、ロシアの捕虜になりながら、これを無事解決に導いた立役者でありました。
先に訪れたのは高田屋嘉兵衛資料館。こちらは昔の蔵を利用して、高田屋嘉兵衛の生涯を通じた関連資料が展示されています。
次に向かったのは北方歴史資料館で、こちらや資料館から徒歩数分のところにあり、高田屋嘉兵衛の七代目の子孫が経営する資料館なのだそう。高田屋嘉兵衛に関するビデオ映像を見せてくれたり、古文書や資料が所蔵されています。
作家司馬遼太郎さんは高田屋嘉兵衛を主人公にして「菜の花の沖」という小説を書いています。また彼をして「当時の日本で世界に通用するただ一人の実業家で、江戸時代で一番偉かった人」という賛辞を送っています。
残念ながらまだ私はこの小説を読んでいないので、早速読んでみなくてはなりません。また、松前藩に捕らえられたゴローニンは帰国した後に、『日本幽囚記』を執筆し、これは各国語に翻訳されて当時の日本人観を変えさせるのに役立ったと言われています。今では岩波文庫にも収められているので、この本も読んでおかなくてはなりますまい。
司馬さんは週刊朝日の記事の中で、「この日本幽囚記を読んで、この高田屋嘉兵衛に会いたいと言ってはるばるロシアからやってきたのが神田ニコライ堂のニコライ神父なんですよ」というエピソードも紹介していました。
また人と書物に出会った感じです。
* * * * *
帰り道は駒沢苫小牧の甲子園初戦を聴きながらのドライブでしたが、9回に悪夢のような逆転をされて、初戦突破ならず。残念ながらこの夏の北海道勢は早々と姿を消しました。惜しかったなあ。
2007年08月10日(金) |
070810_函館の旅その1〜五稜郭、金森倉庫、啄木 |
まだ天気がぐずつき気味の金曜日。今日から明日はキャンプの代わりの函館ツアー。 朝七時半に家を出発。ドライブの途中も雨が降ったりやんだりですが、気温は高くてムシムシ。北海道らしくない夏ですねえ。
昼過ぎに函館に到着。まずは昨年新装オープンした新五稜郭タワーへ。私は開館お披露目の時に行ったのですが、家族はまだ見ていないのです。
夏休みということもあって、たくさんの人が訪れていました。タワーの最上階は五稜郭の展望を楽しめますが、なぜこんな星形の平城を造ったのかという背景を教えてくれる函館戦争のミニ資料館にもなっています。
榎本武揚は、明治維新で敵方に回った旧幕府軍を率いて当時の幕軍最強の開陽丸(かいようまる)で蝦夷へ進軍、そこで松前城を陥落させ、五稜郭への無血入城、そして蝦夷共和国を作ります。
しかし新政府の反撃と、開陽丸を江差沖で座礁させて失うなど次第に戦況は悪化してゆくことになります。
明治2年3月25日(新暦1869年5月6日)には宮古湾海戦を挑んだものの敗れ、新政府軍の蝦夷地上陸がはじまり、5月18日(同6月27日)、一本木関門付近で敵の銃弾を受けて土方歳三が戦死。榎本武揚らは新政府軍に降伏し、これにより函館戦争並びに明治維新に伴う内戦であった戊辰戦争が終結したのでした。
このような歴史を自分たちの財産として語れるというのはうらやましい限り。作ったり見つけようとしてもこれだけのものはなかなかありませんからね。
* * * * *
続いてはレンガ倉庫群を一大観光拠点にした金森倉庫へ向かい、こちらの「Cafe & Dining かねもり」で遅い昼食を取ることに。
家族全員バラバラに注文をしましたが、私はワタリガニのクリームスパゲティ。なかなか濃厚な味わいで満足。
同時に注文したイカめしもちょっと洋風で上品な味わいで登場。そうか、こういうイカめしも良いかもね。
* * * * *
夕方になるころ、大森海岸で石川啄木小公園を散策。ここには記念写真を撮るための台がもうけられていて親切でした。観光地にはこういう気配りがおもてなしとしてよろしいようで。
午後の函館は晴れてきて良かった。
2007年08月09日(木) |
070809_この夏一番の暑さ |
暑い!札幌の今日の最高気温は31.2℃だったとか。東京では珍しくもない気温ですが、札幌では厳しい暑さ。エアコンのない我が家では涼しいところを求めて板の間をごろごろともがいていました。
今日からは岩内町へキャンプを行くことにしてキャンプ場の予約もしていたのですが、雨に雷と天気が思わしくなかったこともあって、残念ながらキャンセルをしました。ちょっと軟弱ですが、だんだん無理をしなくなりました。
若いときならば「これも経験!」と言って、雨のキャンプ体験を積んだものですが、もう『無理して楽しくない時間を過ごすこともないなあ』と思うようになりました。歳ですかね。
キャンプの代わりに、明日から一泊で函館にミニ旅行に行くことにしました。天気は悪そうですが、まあなんとかなるでしょう。
安い宿は「じゃらんnet」で予約。一泊でどこまでゆけるかわかりませんが、こう暑くてはとにかくエアコンの効いた車の中にいるのが一番かもしれません。
雨が降らないと良いですがねえ。
2007年08月08日(水) |
070808_旭川への墓参り |
朝は晴天かと思いきや、日中には激しいにわか雨が降るという、安定しない天気の北海道です。夜には東部を中心に大雨洪水警報まで出るほど。
どうやら夏の高気圧の力が弱くて、北海道までその勢力が上がりきらないのが今年の夏のよう。すっきりしないなあ。
今日は朝から旭川方面へ親類の墓参りへと出かけました。ついでに旭川に住む娘をピックアップして札幌へつれてくるというわけ。
旭川では親戚の家に顔を出し、一緒にお墓まで連れて行ってもらい、しばし歓談。ほぼ年に一度の顔合わせですが、お互いの無事を確かめ合うことができました。
お参りの最中は雨に降られませんでしたが、車に乗り込んだところからにわか雨に降られながら、やっとの思いで帰ってきました。ご先祖さんが雨を止めていてくれたのでしょうか。
明日から北海道西海岸の岩内町でキャンプをする予定にしていたのですが、どうも天気が思わしくありません。軟弱だけどキャンセルするかも・・・。
2007年08月07日(火) |
070807_最後の吹奏楽コンクール |
札幌も北海道の割にはムシムシする一日。これで暑いと言うようでは東京ではどうなる?というところなのですが、地域には地域なりの不平不満があるものです。 あるがままを幸せに受け止めるというのは難しいんですねえ。
今日は下の娘の吹奏楽コンクール札幌地区大会でした。この大会、札幌中島公演コンサートホールKitaraで行われ、会場周辺は参加者や関係者でごった返すのが常。 札幌では昨年まで四日間に亘って行われていたのですが、今年からは五日間に拡大されました。コンクール参加団体が増えていることは望ましいことですが、運営側は日程や会場のやりくりが大変なようです。
娘の高校は、人数が35人までのB編成での登録ですが、札幌地区での高校B編成は全部で16校がエントリーして、日頃の練習の成果を披露しました。 今年は娘も高校三年生で、中学一年生から続けてきた吹奏楽生活6年間の最後の大会です。演目は自由曲が一曲だけ。6年間の成果がたった一曲にこめられるのを聴くのはこちらも緊張するものです。
曲目には各校のカラーが出るもので、リズムもとれないような現代音楽から、吹奏楽でありながら楽団員のコーラスが加わるものまで実に幅広い演奏を聴けました。
* * * * *
演奏の審査発表は、金、銀、銅の三種類で行われ、金と銀は紛らわしいので、金の場合は「ゴールド、金」と読み上げられます。
「○番、××高校、・・・ゴールド、金!」と発表があると、会場で発表を待ち望んでいた団員たちからは嬌声と歓喜の声が上がります。これも例年のことながら感動ものです。
さて、娘の高校は思うような評価を得られず、残念な結果に終わりました。しかし、チーム全員で力を合わせての評価ですからこれもまた致し方ない現実。
世の中は、努力も時として報われない。これもまた人生です。
これでまた子育ての一つの節目が過ぎてゆきました。行事が一つ終わるたびにだんだん寂しくなってゆくんだなあ。
2007年08月06日(月) |
070806_ご先祖さんを偲びましょう |
今日は実家巡り。実家の仏壇に手を合わせてご先祖さんにご挨拶です。
父との話題は父の幼いときの話。私の祖父、つまり父の父親の話。
断片的なエピソードは何回も聞かされたものの、今回は時系列に沿って年表や家系図を描きながら、話を整理して聞きました。これは今までで初めて。
祖父は登川町(現在の夕張市)で和菓子屋をやっていました。昭和8年に材木切り出しなどで好景気に沸く樺太へを見学して、ここへ移り住むことを決意し、その年に父を含む子供5人を引き連れて樺太へ渡りました。
しかし翌年娘一人を亡くし、体調を崩して北見で療養中の10月に奥さん(私の祖母)が心臓麻痺で急逝、そして祖父本人も11月に失意にうちに亡くなり、なんとこの年には1年に三人のお葬式を出すという悲劇に見舞われました。
その後父を含む残された子供たちは親戚に割り振られるように引き取られたのですが、私の父はまだあまりに幼かったため全くそのことは覚えておらず、育ててくれた母親が養母だったということは旧制中学に入るときに初めて教えてもらったのだとか。
物心ついたときにすんでいたのは札幌の狸小路の一角のお菓子屋さんだったそうで、フルヤキャラメルを売って生計を立てていたのだそう。
5人兄弟姉妹も、姉妹はみな若くして病気で死に、今は兄(私の伯父)が一人残るばかりです。
父の話からは時代をリードした北炭夕張炭坑が栄えた往年の夕張の姿が目に浮かびます。しかし今はもう現地を訪れても往時をしのぶものはほとんど残っていません。
昭和初期の北海道の話を聞きながら、ご先祖さんたちを偲びました。こうして今の私たちに繋がる先祖をときどき思い出しましょう。
お盆はお墓参りにゆきましょう。
2007年08月05日(日) |
070805_地域の友達 |
昨日の約束通り、午後におやじの会の友達がやってきて蕎麦打ちに参加。
熨して切るところをわたしがやりましたが、やや薄く熨してしまったのと細く切りすぎてしまいました。粉を売ってくれた「こはし」さんのホームページには「数十秒茹でて・・・」とありましたが、麺がお湯から浮き始めてから50秒では茹でが入りすぎ。
水加減もほんの少し多めになってしまい、なかなかビシッとはいかないものです。もう少しこの粉と格闘してみます。
* * * * *
夕方からはおやじの会の仲間が集まって、夏休みに帰ってきた私の歓迎会の意味の野外パーティを開きました。ところが歓迎会のはずが、今日の会場の家を貸してくれたおやじさんが盆明けから来年3月まで内地に期間限定の単身赴任をすることになり、その壮行会もかねることとなりました。
ビール片手に炭をおこして、焼き鳥からホルモン、ホッケ、サンマ、野菜、そしてトウモロコシまで焼いて焼いて焼きまくり。 ほんのり醤油で味と香りをつけた焼きトウモロコシのなんと美味しいこと!北海道の幸せを感じました。
酔っぱらっての話題は、パークゴルフのこと。これまでの戦いやコースの良し悪し、年寄りの上手なこと、道具のこと・・・。もうゴルフよりもパークゴルフの方が話題としては盛り上がる歳になりました。
職場以外の地域のともだちこそが、これからの財産です。人生が充実するかどうかの分かれ目がそこにありますね
2007年08月04日(土) |
070804_「手打ち蕎麦 こはし」との出会い |
「明日の午後に蕎麦をゴチになりたいな〜」というおやじの会のメンバーからメールをもらいました。
「それじゃあ蕎麦を打つことにしてそば粉を入手しなくては」と、何軒かの蕎麦やさんに電話。ところが3軒ほど掛けたもののどこも電話に出てくれません。
仕方がなく札幌市内の蕎麦屋さんを食べ物系のネットで調べてみたところ、中央区の卸売市場の近くに「こはし」というお蕎麦屋さんを見つけました。
(卸売市場の小橋さん・・・)と、ある種の予感があったのですが、電話をしてみると「粉は今から挽くのに一時間かかりますが、1kgを1500円でお売りしますよ」とのこと。そこでうちの奥さんと粉を買いに行くついでにお昼を食べに行きました。
着いたお店は一軒家を改装した風で、靴を脱いで上がるときれいな庭を見晴らすことのできる洒落た室内です。
かき揚げ蕎麦と京都賀茂なす冷やがけ蕎麦を注文してから、「ご主人はどういう方ですか?」と店の方に伺うと、「元々はサラリーマンですけど、手打ち蕎麦愛好会で蕎麦打ちを練習して、素人蕎麦打ちで4段を取りまして・・・」とのこと。
やっぱり!
実はこのご主人の小橋さんという方は、北海道蕎麦研究会や札幌手打ち蕎麦愛好会で何年も一緒に蕎麦を打ち、いろいろとご指導を受けた方だったのです。ついに独立してプロとして蕎麦屋さんを始められていたのでした。
ぶしつけにも厨房をお訪ねしたところ「あれ、こままささん!」 ちゃんと覚えていてくれました。 「まあ食べてみてくださいよ」とちょっと恥ずかしそうです。
* * * * *
さて、かき揚げ蕎麦はかき揚げが柔らかくてほたてとエビなど具も豊富。蕎麦は粉は道東の清里町から、今は幻となりつつある牡丹種の蕎麦を仕入れてこれで挽きたて、打ち立てを提供してくれています。
蕎麦の細さはかつての腕そのままですが、蕎麦も細いのに実にしっかりとしたコシ。味わいも豊かです。
私の注文した夏季限定メニューの、京都賀茂なす冷やがけ蕎麦のほうは柔らかななすとだしつゆの相性が抜群。蕎麦も最高です。私の中では札幌で一番のお蕎麦屋さんの発見です。
お蕎麦をいただいた後、お客さんも切れた頃に頼んであったそば粉もできあがり。粉はお店の中に自家製粉の部屋を設けてそこで必要なだけ挽いているのです。やっぱり真面目ですねえ。
「このお店はやっぱり小橋さんでしたか。そんなに多い名前じゃないからもしかしたら、と思いながら来たんですよ」 「懐かしいね。こままささんもまだ打ってるんだね」 「なかなか上手くなりませんけどね」
そこからはお店と転職にまつわる四方山話。「一年くらい前に仕事を辞めて、そこから準備を始めましてね」 「いや、ほんとうに美味しかったですよ」 「お恥ずかしい、まだまだだけど粉だけは良いよ。新蕎麦の頃には弟子屈の粉も限定で提供しますよ。また来てください」 「はい、もちろんですよ」
小橋さんは蕎麦仲間と言うには恐れ多いし、技術的には圧倒的に差がついてしまいましたが、北海道に手打ち蕎麦のブームが起きる前からその流れを作った兄弟子のような存在で、実際いろいろなイベントで何度も手ほどきを受けた方でした。
お世辞抜きで札幌で本当に美味しい手打ち蕎麦を食べたければ、ここ「手打ち蕎麦 こはし」が絶対にお勧めです。 私もこれからそば粉が欲しいときには頼れる調達先が見つかって心強い限り。
電話した先の蕎麦屋さんの電話が出なかった訳がわかりました。世の中は必然に満ちています。
【お蕎麦屋さんメモ】 「手打ち蕎麦 こはし」 札幌市中央区北10条西21丁目1-2 TEL(011)621-8482 駐車場 3台
ご主人のブログ http://plaza.rakuten.co.jp/sobakohasi/
2007年08月03日(金) |
070803_景観行政と同窓会 |
いよいよ暑くなりそうな東京。午前中のお仕事を終えれば午後からは札幌です。
午前中のお仕事は東京都との景観に関する意見交換会。まずは東京都の景観行政の説明を受けてから、われわれキコウのお仕事について説明をし、それから意見交換です。
われわれのお仕事の代表的なものとしては、晴海のトリトンスクウェアや豊洲などが挙げられますが、面的な整備に関して景観誘導をどうしてゆくのか、ということは大きなテーマです。
最近はキコウ自らが建物を建てるという事例は少なくなったので、民間デベロッパーへの土地譲渡の際に景観を始めいろいろな条件付けをすることで景観の良い面整備を行おうというのが事業の主流となっています。
そういう場合、条件付けを厳しくしすぎると「そんなに条件があるのでは土地の値段を下げてもらわなくては」と言ってくるし、かといって緩くすると出来るだけ儲かるように好き勝手にやろうとするのが民間の常。
そこで最近の流れは、一定の条件を示しつつ細かいところは協議をしながら進めましょう、というものなのですが、協議というのもどこまでやるものかが見えないと業者さんとしては不安なもの。このあたりの加減が難しいのです。
* * * * *
東京都の景観条例では、一般の土地で集合住宅を建てる場合は高さ60m(20階相当)までは届け出がいらないことになっています。最近ではそういう建て方をしようとするデベロッパーが多く、そういう開発の仕方では、土地に対して建物面積を最大にするような建坪率(けんぺいりつ)の使い方をするものです。
そうなると、「板状」と呼ばれるようなただ単に20階建ての建物が林立するだけのエリアができあがります。
実は最近の研究では風の流れを見た場合、都市の稠密な土地利用がなされる場合は、高さを制限することよりも、どれだけ建物がスカスカかということが風の流れを良好にするということがわかってきたのだとか。
高層住宅にして容積のボーナスを与え、建物敷地に対する建築面積は小さくすることが効果的な場所条件のところもあるということ。
景観に関しての取り組みはこれからも大きなテーマです。{/kaeru_en3/}
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午前中の打ち合わせを終えてからは羽田空港へ向かい新千歳へ。台風の影響も避けられて良かった〜。
夜には3月までの職場の同窓会が札幌で開かれて、10人が集まって昔話に花を咲かせました。皆私のブログを読んでくれていて「あまり遠くへ行ったような気がしませんね」とも。
しかし「ブログでは難しい話より、美味しいお店へ行った話の方になるとしっかりと見ますね」という声を聞くと、東京B級グルメ情報の方が受けるのかもしれませんね。
まあ皆元気な様子がうかがえて良かったです。
夏の札幌は雨模様でちょっと蒸してます。
2007年08月02日(木) |
070802_危機管理と撤退戦の常道 |
梅雨は明けたものの、台風の影響ですっきりしない曇り空。台風が抜ければ本格的な夏でしょうね。
参議院選挙の総括を各新聞が行い、週刊誌も大衆の興味を引くようなネタ満載の様子。電車の中吊りは今でも選挙一色です。
大惨敗を受けて、与党としてはこうなると撤退戦も同様です。世間の避難や罵倒、嘲笑に耐えて、まずは安全なところへ逃げるのが第一。 徳川家康は一生に一度だけ大敗をしましたが、それは武田信玄との三方原の合戦。このときばかりは逃げに逃げて、途中で恐怖のあまりウ●コをもらしたという逸話が伝わっているくらいの大敗でした。 しかし家康が偉いのは、逃げ帰ったその情けない姿を絵師に描かせて反省の象徴としたことです。人生負けることはある。その負けから何を学び、何を得るかが問題なのです。
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撤退戦で大変なのは一番しんがりで、追ってくる敵の攻撃をかわしながら本体を逃がすという役回り。つまり自分は悪役として犠牲になる覚悟で、大事なところは守る役目ということで、今回で言うと、中川幹事長と青木参議院議員会長あたりがしんがりということになったわけでしょう。
それにしても、一度は収まったかに見えた赤城農水大臣をこのタイミングで辞職させるのではまた混乱を呼び起こしそう。 危機管理の常套手段で言えば、危機発生はその初期に一気に戦力を投入してぐうの音も出ないほどにつぶしてしまい、批判的勢力に「何もそこまでやらなくても…」と言わせるくらいに対応するのが正しいあり方。 中曽根総理の時代に
「これくらいで収まるかな…」「ありゃ、まずいな、それじゃこれで収めよう…」といったやり方を「戦力の逐次投入」と言いますが、戦争では完全に負け戦のパターン。やはりこれはまずかったですね。
「政策論争にさせてもらえなかった」という恨み節も聞かれますが、政策を比較できる前提には少なくとも一定の「信頼」という資産が形成されていることが条件のはず。
今回はその信頼を得るところで年金問題、政治と金の問題、赤城農水大臣問題などにつまづいてしまい、その先の勝負にさせてもらえなかったということでしょう。 信頼を得るには時間がかかるけれど、失うのは一瞬でできるもの。いや、恐ろしいものですね。
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当面は与党内部から安倍さんとその周辺への批判が沸き起こることでしょうが、ここでは野党よりももっときつく批判されておくことが大事。 野党よりも批判が弱ければ、身内をかばう意識としてそれがまた世間からの批判の材料になるからです。
それにしてもトップとは孤独なもの。一敗地にまみれたときは家康の心境を思い出して捲土重来と行きたいものです。
さて、明日からは北海道へ帰省することにしています。暑い東京を離れて、鋭気を養うことにいたしますよ。
2007年08月01日(水) |
070801_東京をとにかく緑に! |
今日から八月。やっと関東甲信越地方の梅雨が明けたのだそうな。これからは暑くなりそうですぞ〜。
職場で上司から「東京をもっと緑にするプロジェクトについて考えて欲しい」というオファーがありました。
我が組織ではニュータウンなどを始め、賃貸住宅を数多く持っていますが、これまでも屋上緑化や壁面での緑化、空き地の緑化などにはずいぶん努めてきたつもり。
「まだなおやれ、というのはどういうことでしょうか」というあたりで関係者を集めて上司とともに意見交換を行いました。
上司の気持ちは、「今は知事を先頭にして、とにかく東京を緑にしよう、と言っているけれど、無理筋な緑化案が出たり、風の道と言ったりして感覚的には分かるけれど、実行が伴わない感情論が横行しているような気がしませんか」 「確かにそうかも知れませんが…」
「緑にした方がよい、なんていうような努力目標ではなくて、ここは緑にしなくてはならない、という義務や強制力が働くようなやり方と、それを裏付ける理論武装が必要だと思うんです。理論がなくて世間の支持を得ないことを強制はできないからね」 「そうですね。しかしこと屋上緑化に関しては、あまり大がかりにやると天井にかかる重さを支えるためにワンランク上の荷重に耐える規格にせざるを得なくなって、全体のコストも上がります。ですからこのあたりが現実的、という標準を決めて、それに従って淡々と進めているというのが現状です」
「壁面緑化は進んでいるのですか?」 「まだそこが進んでいません。植物は正直で、水や栄養を吸い上げる根を支える土壌基盤がしっかりしさえすればそれなりの高さまで伸ばすことができます。しかし今は建築が主体になってしまって、土の基盤は添え物としか考えられていなくて、なかなか決まり事まで作り上げられてはいません」
「風の道などは、緑がどういう条件だと上空の冷たい風が地表に降りてくるのか、というような科学的根拠をもう少しつめて、『だから必要だ』という立論をしたいものだけどね」 「住宅地の緑は今は上から見た緑地率だけが数値的な設定条件になっています。それは建築で言えば建坪率(けんぺいりつ)という面積での割合と同じです。ところが建築ならば上空をどれくらい使うかという容積率という基準もあるのです。緑にも容積率に相当するような、一定のボリュームを求めたり条件として提示するような考え方があっても良いのかもしれません」
「分かりました。いずれにしても、今の東京はあらゆる緑化を求めるというマインドに立って、やる気満々なのだから、それを現実に実施する機関として我々としてなにができるのか、どういう緑の誘導施策があるのかをもうすこし考えてくれませんか」
東京を徹底的に緑にする。これまでの発想を超えるような大きなビジョンを提示して、馬鹿な話だとしても、それが次の時代のスタンダードになるということもあるのです。いや、それに向けてどういう理論を立て、ロードマップを描いてみようと思います。
なかなか思いミッションですが、大東京を相手にどこまでできるでしょうか。
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