脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 How can I keep from singing?

enyaの、How can I keep from singing? の歌にある、
「どうして歌わずにいられようか」(もっと直訳すると、「どうやって私を、歌うということから遠ざけることができようか」というような)と出てくる「歌」は、
まるで人が生きていく上の天命そのものを歌っているように聴こえる。

生まれてきたからには、その人にしか聴けぬ声を聴いて、
その人の聴いた声に従って、「そうせずにはいられない」「そうなってしまう」生き方をしているようにも思う。

別に、リアルに声が聞こえるとかそういうのではなくて、知らず知らずのうちに行われている舵取りというのがある気がする。

その舵が、天命のようなものだと思う。

立派なものとか、そういうのではなくて、
ただそれがその人の生き方だ、というような。


どんな悲壮な状況、とてつもない環境、いろいろなことに遭遇した中で、だからこそ、そこにはまぎれもない「その人」とか「自分」とかが存在していて、それは何であっても、なんぴとであっても、侵しえるものではない。




どうして歌わずにいられようか、というフレーズは、

どうして「自分」として生きずにいられようか、

という言葉に聴こえるのだ。



とてもうつくしい歌だ。
機会があれば、ぜひ聴いてみてほしい。




2012年10月25日(木)



 サウンドオブミュージック

        ”すべての山を登り 
          流れを渡り 
          虹を追って 
         夢を見つけなさい”

Climb every mountain Ford every stream
Follow every rainbow Till you find your dream.
   -------------from movie The Sound of Music

なんとうつくしい言葉だろうか。
すべての軌跡そのものが、夢の体現のようである。
やがて見つかる夢というよりは、もうこの過程そのものが私には夢のように思える。
自然と高いところから落下した水が滝になるように、森におちた一粒の種が木々や空をかきわけて大木になるように、
それらの現象、目の前にやってくる現象どころか、あらたな現象を探して越えていく命の力強さが、
その軌跡が、もうすでに、夢そのものだ。



2012年10月14日(日)



 ようこそ、こんにちは


今日、ちょっといいことがあった。

今日は私の誕生日である。
で、さっき私は深夜勤務を終えて帰ってきたところ。
で、今朝6時ごろ、私は一人の赤ちゃんの入院を終えてきたところ。

その子は早く生まれて、小さかったから、NICU(うち)に入ることが決まっていた。
私は、その子が産まれた瞬間から入院にかかわる処置、看護、ほぼ全部につかせてもらったわけだけど、
なんだかやけに感慨深いのだ。


いつもなら、3人しかいない夜勤、しかも忙しくなる朝方の入院となると、かなりの残業は必至。しかもしんどい。否が応にも気分が沈むものだけど、今日はかなり気分がよかった。

アプガースコアをはかるためのストップウォッチを首からぶら下げて入院の準備をしながら、すこしワクワクさえしていたのだ。後にも先にも、こんな気分ないだろうってくらい。

これから生まれてくる子は、私と同じたんじょうびなのか。
しかも、その子を受け取っていくスタッフ。
その子は、自分と同じたんじょうびの人に、受け取られてエヌに入院するんだ。

なんかちょっと、とくべつのような気分になる。
すごい偶然じゃないか。
ぼくたち、たんじょうび一緒なんだよ。



本当は私は、昨日10/8の日勤帯でその子の入院をとる予定だった。
けれど、なかなかお産にいたらなくて、10/9の日勤帯、つまり、私が帰ったあとに入院になるかなー、なんて、ナースたちで話をしていた。
けど、結局この早朝に産まれることとなり、やっぱり私が入院を受けることになったわけだ。



ようこそ、こんにちは。

いきなり生まれて、きみはいろんな試練を受けているけれど、
私たちはきみを歓迎するよ。

もしかしたら私がかかわるのはこの入院だけかもしれないけど、
袖触れ合うも多生の縁。これも何かの縁だね。
きみの元気ないのち、健闘を祈ろうではないか。

何はともあれ、おめでとう。



2012年10月09日(火)



 ディグニタス


【生に尊厳を、死に尊厳を】をスローガンに掲げる、スイスの合法的自殺幇助組織、ディグニタス。


スイスは自殺幇助が合法で、スイス人の多くは「最期の迎え方は自分で決める権利がある」と考えているらしい。

回復を見込めない末期癌、難病の末期。そういった人たちの尊厳死を行う団体が、ディグニタス、なのだそうだ。




自分の死は、自分で決める、かぁ。




生すら、病すら、老いることすら、自分の意志で来たわけでもないだろうに、だからこそ?
だからこそ、死ぬことくらいは決めたくなる、決めたつもりになる、のだろうか。


この世に生まれてくるとき、それは私たちの意志なんてたぶん関係なかったではないか。

産まれたときに何か先天的な疾患があったとする、それだって、たぶん自分が決定したオプションなどではなかったと思う。



結局のところ、本当はわたしたちの意志なんて、関係ないんじゃないかな。


でも、あれかな、問題はそういうことじゃないのか。




2012年10月02日(火)
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