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■ ひみつの時間
この部署にいる赤ちゃんたちは、 主に、ふつうより早く生まれてきちゃったり、小さく生まれてきちゃったりした子たちである。
早く生まれれば生まれるほど、個人差はあるが、体重は小さい。 だが、状態が落ちつけば、1800g台の赤ちゃんでも、閉鎖式のカプセルみたいなベッドから、かんたんなベッドにうつって、哺乳瓶とかでふつうにお乳を飲んだりする。 2000g以下の子は、片手で体を支えたときの軽さが違う、気がする。 かるい。 だが2000gを超えてくると、すでになんか、ずっしり腕にクる。
でもよく考えてみたら、赤ちゃんが生まれるときって通常は3000g前後。 しかも週数を見ても、この子はまだ予定日にきていないのだ。
本当だったら、お母さんのお腹のなかにいるはずの子。 外で抱っこなんてできないはずの子。 いわば、この世に出てくるまでの、お母さんのお腹の中の「ひみつの時間」のはずだったのだ。
その「ひみつの時間」を、どういうわけか、まあいろいろな理由から、このちょっと薄暗いNICUの中で過ごすことになっている。
私はこの赤ちゃんの、ひみつの時間を、抱っこさせてもらっているのだ。 本当だったら、無いはずの時間。 いうなれば、奇跡の時間、みたいなものだ。 この軽さは、このあたりの週数、この体重でしか、体験しえない軽さ。 赤ちゃんは大きくなっていく。このときは、過ぎ去ってしまうと戻りはしない。
はやく生まれたりしたら大変なこともあると思うけれど、この奇跡の時間を赤ちゃんと過ごすお母さんたちは、じつはとても特別な、そして得がたく、意義深い体験をしているのではないかと思ってしまう。
乳首を吸うことはできるけれど、うまく息とごっくんができない。 これも、この週数じゃないと目の当たりにしない経過。
これがどんどん、色んなものを獲得していくのだ。
前は、生まれたら、生きるために必要最低限の機能は、学習しなくても出現してくるものだと思っていた。 もう生まれた状態は、先天的な形態異常とかが無ければ、すでに「生きるのにこまらない状態」なのだと思っていた。 けれど実際は、お腹の中でできていく器官やできることには段階があって、はやく生まれた子は皮膚はぷるぷるのゼリーみたいだったりするし、まだ眼裂がないために目が開かなかったりする。 呼吸と嚥下の協調運動が確立してくるのには週数がいるし、それがなければうまく授乳ができない。ごはんが、たべられない。
それらの機能、形態は、おかあさんのお腹の中でだいたい準備万端になって出てきているから、「すでに出現しているもの」と思ってしまっていたのだ。
ほんとうだったら舞台裏で準備しているはずの時間、そしてその準備を、私たちは目の当たりにしている。
ひそかなこの世の舞台裏。しずかな奇跡の時間。 このひみつの時を経て、赤ちゃんたちはもっと大きな「そと」に出ていくのだ。
じんわりとその「ひみつ」を、だっこする。
「ひみつ」は、ミルクが終わって満足そうに口の端からミルクをたらして寝ていて、ちょっと笑ってしまった。
2011年12月11日(日)
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