脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 待つことは、待たせること



そのドクターは、多くの患者を囲い込みすぎた。


そのドクターにオペしてもらわなくても、助かりそうな疾患の子。
けれど両親は、万全を期したいから、と、そのドクターの元へいく。
それは一人二人なんてかわいい数字ではない。

その子たちのオペをし、経過を診ている間に、症状が悪化する術前の患児がいる。
悪化した状態でオペをする。術後なかなか早く回復しない。
そしてまた手術を待つ子ども達が増える。

ほかの病院やドクターだってできる、はやくに処置できたかもしれない児を、囲い込んで待たせる。両親もそのドクターを望んで、さらにその後にオペを待っている児を、ドクターのオペから遠ざける位置に入り込む。

息苦しい連鎖がやまない。


何が悪いとか、いいとか言っているのではないが、
ただそこには、
そういう事実がある。



2010年07月30日(金)



 祖国を失うわれわれ

こんなこと、誰が予想し得ただろうか。


※これはノンフィクションですよ


CCUでいろいろ問題が起こってナースが中途退職するのが何人か出て、スタッフが足りないからということで、PICUの私たちの3人がCCUに緊急異動させられる事になった。
当初の予定ではCCUの問題が落ち着いたらPICUに戻してもらえるという話だった。


だが話は二転三転し、今は
「CCUを存続させるためにPICUを一時的に閉鎖する方向にし、将来的にCCUを現在の8床から10床に増やして稼動させる。そのためPICUスタッフのほとんどはCCUの増員要員とし、残るスタッフは一般病棟で働いてもらうが、病院内で欠員が生じる部署があればそちらに異動してもらう」
という状況となった。
院内で欠員て、要するに募集かけても人が寄り付かないような部署って事だろうが。
私たちのことを一体何だと思ってるんだろう。
と、この何日間の間で何回思った事だろうか。

これ何ていう惑星間戦争?

え? ここ病院だよね? 戦場とかじゃないよね?


「なぜ私たちの部署からしかCCUに補充しないのか。今現在CCUがまわらなくて緊急的にスタッフを補充するという目的であるなら、ほかの集中治療部署からも、それこそ習熟したスタッフを補充すべきである」
という我々の問いに対し、ナースのトップは
「どこから補充したら(その人が)辞めないのかわからない」

は?

そもそも今ギリギリの状態で働いている、もともといるCCUスタッフが潰れないなんて保証はないし、私たちが潰れない保証もどこにも無いんだが。
様々な問題を内包しているこの大きすぎる問題に対して、正直病院全体を巻き込んでも解決するかわからないのに、右から左にナースを動かして、欠員が出ればどっかの部署をつぶしてでもスタッフを補充するって。
そういう使い捨てな人間の使い方してると、近いうちにCCUも閉鎖せざるをえなくなっちゃうよ。


ああ。まだ、できて2年くらいしか経ってなかったのにね。PICU。
みんな頑張って立ち上げたのにね。
変な上のスタッフも辞めて、今最高なひとたちしか残ってなくて、このスタッフだから、何が起こっても皆頑張ってこれたのに。
いいときっていうのは、続いてはくれないものだね。


後輩「一家離散ですよ」
先輩「ほんとだね、ファミリーPは崩壊だ」

私「師長さんに来年度別の病院に異動する旨を話したら、”こういったことでうちの病院に魅力を感じなくなって、優秀なスタッフが辞めていくのは、せつないね。つらいね、お互い”って言われたよ。
本当につらいのは、皆がせっかく作り上げたこの部署がなくなってしまう事だと思うけどな」
同期「そうだよね! 私なんて立ち上げのときからいるのに…、ほんと切ないよ…」

祖国が失われたわれわれは、ちりぢりになってどこへ行くのだろうか。


あの設備をそのまま遊ばせておくわけがないだろうから、落ち着いたらなんらかの形でまたPICUを稼動させるだろうって師長さんは言ってたけど。
けれど、完全にもとどおりになるわけじゃない病気と一緒で、かつて動いていたようなPICUは決して戻ってこないだろう。

私「何年かしたらさ、”○○病院に一瞬だけPICUっていう部署があったらしいよ”って言われるようになるのかなあ。私たちはその幻の部署で、今働いてるんだね」
同期「ほんとだね!!(笑)ちょっと絶対写真撮っとかんと」
私「そうだね。PICUの遺影を今後部屋に飾ってがんばろう」



そもそもトップの教授だって、まぁいつまでこの病院でやるのかもわからない。
小児の臓器移植が認可された今、様々な問題はあるかもしれないけれど、そのうち心臓の修復術ではなく心臓移植の方向に進んでいくだろう。
この病院では今現在、大人では心臓移植を進めようとトライしている段階だ。
だが修復術にこだわる教授が果たしてその流れに乗ろうとしているこの病院でいつまでやるのかも不明だ。

いろいろなものが変わろうとしている。
空高く上がってしまった風船がどこに終着するのかは誰にもわからなくて、ただその行く先を見上げて私達は右往左往している。
ただひとつ感じるのは、今まで走ってきた道をあともどりすることなんて出来ないだろうという事だ。

後ろの道はどんどん崩れている。
前に進まなければ、ああ、落ちてしまうよ。
みんな、ころばないように、がんばろうね。
もう風船なんて気にする必要、無いんだよ。



2010年07月29日(木)



 



見通しは自分で作るしかない。


自分の身を守れるのは自分しかいない。




2010年07月26日(月)



 CCU異動

がんばれって言われる事が、こんなに絶望的な気持ちになるなんて知らなかった。
私はあなたではない。


「疲れたら帰って英気を養って、またいけばいいじゃん」
みたいな事言われても、そんなところに帰りたくない。
そんなところに帰っても、さらに心が疲弊するだけだ。
「つらいとは思うけど、これはチャンスなんよ」
つらさに耐えられなくて自分で結論を出して相談の電話をしたのに、もうまるで話にならない。何もかもが打ち砕かれて、涙がとまらない。


「さらに上を目指すためのチャンスと思えばいい」って何?

「上とか、さっぱりわからない」
「お父さんもわからんけど…、教える側になるとか、それこそ海外とか」

馬鹿じゃないの?海外だから何でもいいと思ってんじゃねえよ。

あそこ以上の上って何? どうして上を目指さなくちゃならないの?
どうして、それでも働き続けるために出した選択に、次元の違うタスクを課したがるの?
何が優秀とか、上とか下とか、そんなんどうだっていいじゃない。
今すら私は保てそうにないのに。


母はいったん仕事をやめて帰っておいでとは言ってくれたけど、その人がいるところには帰れない。
そんなことを思う人のところに帰れない。
実家で安らげないって、実家がないのと一緒だ。
私の居場所は見えないほどにない。


居場所と逃げ場所がないことが、こんなにも自分を追い詰めるとは思わなかった。
そして追い詰められると、極端なことしか頭に残らなくなることが怖いと思った。


もうなにも取り繕えない。
私の理性を越えてしまった。




「死ぬ気になれば、何だってできるんよ」
って言ってたね。
そうかもしれないね。何もかもどうでもよくなるからね。


2010年07月20日(火)



 沈みゆく船

船が沈む前、船にいるネズミ達はそれを察知して逃げ出すのだそうだ。

警鐘が止まない。はやく、はやく船から逃げなければ。


けど、逃げたって外は海だけど?

溺れ死んでもいいから、
ネズミ達は船から逃げようとするのかしら。

溺れたくないのに? 
逃げたら生きることができると思うのかしら。


そんなことも構わず逃げようとしなければならない状況の、
目も当てられぬほどの悲惨さよ。


骨折をしても、船から逃げなければ。
肉が削れても、火事から逃げなければ。


それがたとえ溺れるのに繋がったとしても、
逃げるのをやめることはできないだろう。


船が沈まないかもなんて気休めは、たくさんだ。

舵取りはとっくに舵を放棄している。

船長は見当違いの指示を出して、
満足げにしている。

船員は嵐が吹き荒れる空ばかり見て、
船が沈みかけているのに気付いていない。

船員のリーダーは、
早く帆を張れと見当違いな事を言っては怒っている。

既に逃げるためのボートはなくなりつつある。気配に聡い船員はとっくに逃げ出した。

あの船の端が濡れているのは、
嵐による雨のせいではなくて、
浸水してきているためだと気付いている人は何人いるだろうか?

沈没への秒読みは、既に始まっている。

気付かないうちに誰か沈んで、
自分の番がくるまで気付かないんだ。


ひとり、またひとり、いなくなっていく。





**********

ゴーリーの本に出てきそうな、不気味な絵本が書けそうだ 
滑稽でちょっと笑える
風刺がどうして使われたのかよくわかる
直接的に表現できないから、比喩を使うんだよね


2010年07月19日(月)



 私の手にするもの

多くのものを手に入れ、
そして同じほど多くのものを失う中で、
人は生きている。

失いたくないもの、手に入れたいもの、
たくさんある中で、引き算しながら生きている。

けれど、何を手に入れても、失っても、

自分自身がなくならなければ、

またいくらでも手に入れたり放したりする事ができる。


私の居場所は、
私の手にするものは、
私の居る場所に在る。

私の居ようとする場所に、在る。


心が向かおうとしている。

私が居ようとする場所に。



2010年07月18日(日)



 昇らせぬ願い

口にしてしまった「おねがいごと」「叶えたいこと」は、叶わなくなるような気がする。そういう類のねがいごとというのは、あるような気がする。

それは勿論、口にしたほうが周りの協力や動きを得られて叶えられる時期とか、そういうたぐいのねがいごとというのもあると思う。
けれどここで言うのは、そういう具体的なものではなくて、もっとぼんやりした、けれどゆずれないもの。


ねがいごと というのは、一体どの時点で現実視されてしまうのか?
どの時点で、「目標」の認識を強制的に受けてしまうのか?

頭の中にあるうち、こっそり自分ひとりで呟くうちは、まだ自分以外の誰にも現実のものとして認識されていない。
なにごとも、話さなければ、あったことにはならない「考え」というのがある。

誰にも悟られなければ、自分だけでその「ねがいごと」は、「ねがいごと」のままあたためておける。
ひとたび自分以外の存在に認識させてしまうと、途端にその「ねがいごと」は現実味を帯びなければならない様相を呈してくる。

「こどもの持つ夢」でなく、「大人の目指す目標」に置き換えられてしまう。


けれど、何も具体的に叶う方策がないままに「ねがいごと」をただ口にしても、叶わずに終わる気がする。宣言だけで気が済んでしまって、終わる事がある気がする。
ある程度対策を固めて、具体的に見据えられるようになって初めて口にしたら、叶う射程距離内に入る事ができるように思うけれど。


けれど、「ねがいごと」というのは、そう簡単に叶うものばかりでもないもので。
でもだからこそ、自分の中だけで握り続けた「ねがい」への想いは、確かなものになっていく気がするので。
そして、不要な「ねがい」はそのうち消えていって、本当に大切な「ねがい」だけが残るような気もするので。


祈るように自分のなかで、「ねがい」を握りしめ続ける。

なにが本当に大事か、静かに問いを繰り返しながら。



「ねがいごと」を口にするのは、本当は、叶ったあとぐらいでちょうどいい。


2010年07月05日(月)
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