脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 電車小噺

私がまだ電車で大学に行っていたころ、帰りにほぼ必ずおなじ人が隣に座っていた。

そのころはまだ旧型の車両で、心配性でめんどくさがりな私はトイレのすぐ横の席を陣取っていたのだ。
そしてその隣に「すみません」だか「いいですか」だか言ってサラリーマンみたいな壮年の同じおじさんが座ってくる。
上の網に仕事用の鞄を置いて、新聞をばさっと広げる。
そして30分くらい読んだあと、おもむろに新聞をとじて網棚に置き、眠るのだ。

毎日同じ座席に、
同じ人が、
毎日同じことをしながら座っていた。
この人も遠いところから頑張って通勤しているんだなぁ、
などと毎日思っていたら、なんだか親近感が湧いてきた。

髪は白髪というか銀髪が混じってきていて、
みたところなんとなく40〜50代のような雰囲気。
ということは私と同じくらいのお子さんがいたりするのかな、
会社で毎日仕事をしてるんだな、こんな年を重ねても長距離通勤なんて大変だな、
自家用車を使わないのは橋代が高いからかな(瀬戸大橋は往復一万くらい)、
だから頑張って(快速だけど特急でもない)電車で通ってるんだな、
家庭の中でこの人はどんな感じなんだろう、この人の人生や生活って・・


などと色んな考えが浮かんでくる。


たまに居ない時があると、何かあったのかな、大丈夫かな
なんて思い、次の日の「いいですか」を聞いてちょっとほっとする。


だがある日その電車が新型のものに変わり、
座席数が少なくなったので以前のような贅沢な場所取りはできなくなり、
空いてるとこならとにかくどこでも、といった具合に色んなところに座りだしたときから、
その人の姿を見ることはできなくなった。



何か話しかけてみようかな、なんて思っていたけれど、
結局お話などしないまま、未だにその人を見かけることもない。





私は細かく枝分かれしたものの上を歩いていて、
たまにほかの人の枝道とものすごくニアミスするように見える、
もしくは立ち止まってその道に立ってる人をずっと見ていて、
そちらに歩いていこうか迷う。
そうこうしているうちにその枝道はすうっとどこかへ紛れていき、
自分も歩き始めている。
あの時あちらのほうにちょっと寄り道していたら、道端の花ぐらい発見できてたのだろうかと思いながら。




そんなことが、結構ある。

2005年01月21日(金)



 互いに理解できない哀しさ

お互いに理解するのが不可能なことだってあるだろう
口ではどんなに言ったって、嫌なものは嫌だろうし
気持ち悪いものは気持ち悪いんだろう

だから、嫌だと思う人に嫌じゃないという気持ちの理解を強制させることは無理だ。
けど、
嫌だと思わない人に嫌だという気持ちを理解させるのだって困難なことなんだ。

考えてみれば当たり前のことなのに、
結構失念しがちなことだ。


だから「理解できない」からって批難されることほど理不尽なことはないんだと思う。


いつかその考えが変わってくれるんじゃないかなんて考えも、
砂糖みたいに甘すぎて涙が出てくる。
思い出みたいに綺麗すぎて儚くて、追いかける気力も起こらない。


別に理解しろなんて言ってない
けど、嫌だとも言ってない

だから傷は拡がるばかり

どっちに転んだって痛ぇじゃねぇかよ

2005年01月16日(日)



 自分のものになるということ


私達は、モノを本当の意味で自分のものにすることはできないような気がする。
お金だって財的価値があるとされているようなものだって、
一時、私達はそれらを預かっているに過ぎないのだ。
やがて私達がこの世から消えれば別のところへと渡っていく代物だ。
それらを私達は、
有り難がって手に入れようとする。
そして手に入れると、やっと自分のものになったとひどく喜んだりする。
一時預かる役目をさも栄誉であるかのように受け入れる。
私達がモノに特別な想いを抱くのに対し、
モノからは目に見えるような反応は返ってくるはずもない。
永遠の片思いだ。
それなのに、自分のものになったと喜べる私達は、


なんて謙虚で愚かしくて幸せなのだろう。




でももしかしたら、
私達はそんなものいわぬモノの後ろにある誰かの想いに惚れこんでいるのかもしれない。

2005年01月15日(土)
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