脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 存在は「作られる」

「私が月を眺め、月がそこにあることを認識したときにのみ、月の存在は事実となる」コペンハーゲン解釈byボーア

「私が見る前は何も云えない、見えない」と量子力学は云うらしい。
不変の真理と信ずるものすらも、我々が意識して初めて存在すると云うのだ。
真理すらも、私達の意識に依っている。
これにアインシュタインは激しく反論する。
「真理は意識の外にあるはずだ」と。
私がそこにある椅子を意識しなくても、椅子は存在する。
自然は我々の思いに関係なく存在している。
真理は絶対の存在であらねばならぬ。と。
だがそれに、東インドの哲学者タゴールはこう答える。
「だが意識の外にあるはずの物質でも、誰かの意識に必ず存在している」。
我々が椅子と認識しているものでも、我々全てがそれを「椅子ではない」と認識するとそれはもう椅子ではない。
そして更にボーアは、我々が月を「見て」初めて、月が存在することが真実となる、というのだ。
「存在するから認識できる」
ではなくて
「認識するから存在できる」
のだという。
それはもう既に不変ではない。
そう考えると、この世界というか何というかは、実に不思議なもので成り立っている事になる。


とはいえ、私は全くのど素人なので恐ろしい勘違いをしているのかもしれないが。


2003年08月24日(日)



 収納力。

「ねーあれどこにあったっけ?」
「わかんない。ここかな?・・・無いなー」
「こっちにも無い・・・一体どこにしまってるんだろうね?」
「見つかんないよね」
「収納したアノヒトしか判んないよね・・・」
「私達じゃ無理だね・・」


「ねーあれどこにあったっけ?」
「わかんない。ここかな?うわっ、崩れてきた!」
「ゴチャゴチャしすぎてわっかんないよ・・・」
「こんなんで見つかるわけ無いだろー!」
「ちゃんと整理整頓してくれないと・・・ったく」




「どこに何があるか判らない」という点で
収納力が高すぎるのと低すぎるのでは、
大して変わらないんじゃなかろうか。

2003年08月13日(水)



 死に、心は追いつくか

死に、心が追いつくなんてことはあるんだろうか。
死はいつだって、どんなに心の準備をしていると思っていても「突然」やってくるような気がしてならない。
心は死に追いつけるものではなく、また追いつくものでも無いんじゃなかろうか。

それは道を歩いてて知らずに窪みにはまるのに似ている。
落とし穴に落ちるのでもいい。
地雷の埋まった土地を歩いて、踏んでしまうのでもいい。
だがそれらはその存在を確認している限り防ぎ得る事だ。
それが何処にあるか判る限り。
私達は死が「在る」事は判っている。
だが、それが「何処に在る」かという、正確な場所は判らないのだ。
(本当の死に間際に悟るのは別として)
判らないから防ぎようがない。と、いうより、
防ぐべきものではないから判らないのかもしれない。
 
何処にあるか判らないものには、心も追いつきようがない。
だが肉体は着実にそれに向かって不可逆的に進んでいるのだ。
肉体には死が何処にあるか判っているのかもしれない。そこに向かい続ける限り。
だが心は、死が何処にあるか未だ判らない。そこから逸れようとする限り。
どう頑張ったって、死に向かって心が進むなんて事は有り得ないように思う。
留まっている心なら、なおさらだ。


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最近なんだか臆病になってしまって、言葉が書けずにいます。
書いても詮無い事ばかり。今更自分の書いてきたものの無意味さを目の当たりにした感じです。
とか言いながらまたこんなの打ってるし。
久しぶりなのにうざったいテンションですみません。

2003年08月04日(月)
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