脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 自分では処理しきれないもの

「忘れる」ということを意識的に行うことで、
人は自分の状態を初期化しようとしてるのかもしれない。
周りにあった心を煩わすものを、「忘れる」ということによって
本当に無かったことにしようとしているのかもしれない。
それがたとえ問題解決につながらなかったとしても。

問題解決につながらない悩み方はしたくなかった自分が居た。
それは大抵のことは、考えれば解決する問題ばかりだったからだ。
いや、「考えれば解決する問題」しか解決しようとしなかった、
といった方が正確か。

何かの悩みについて、思う所について人に愚痴ったり、相談したとしても、大抵は何の解決にもなりゃしない。それどころかいつの間にか相手の話が始まっていて、いやぁ別に私は君の話を聞きたいわけじゃないんだけどなぁと思う時もあったりする。
それが自分の悩みと似通っていたりするならまだ救いがあるが、何気に全く関係なさげな話題で流されたりすると、もう貝のように心が閉じてしまう。口だけはだらしなく情けなく、話の調子に合わされていく。

ああ、この人に話した自分が馬鹿だった

そもそも完全に理解してもらう事を求める方が間違っているのかもしれない。人は誰かに物事を相談するとき、既に自分の中で答えを決めていたりするらしい。そも、それ以外の反応が返ってきて落胆するのはかなり相手に失礼かもしれない。自分が納得するのは自分の導き出した答えによってだ。自分が納得しないことには、何を言われても自分の中には入ってこない。
ちょうど、自分という存在を誰が許してくれていても、自分で自分を許せないのと似ている。
答えが自分の中にあるのなら、自分にしかおそらく納得できる答えが出せないのなら、相談すべきは自分自身であって、自分以外の存在ではない。

そんなこんなで、私は悩み事や心配事があっても、(もともと話す方ではなかったのだが)人に話すことは無くなった。
別に自分の心配事を話さなくても、その人たちによって気ならいくらでも紛らわせてもらうことができる。
自分が相談した結果生ぬるい相槌や相手の愚痴大会を聞くのは、余計むなしくなるだけだった。

誰かに話を聞いてもらっただけで気が休まるというのにも、私は随分懐疑的だった。話を聞いてもらったって問題の根本解決には何にもつながらない。ただ話を聞いてもらうだけ、それで一体何になるというのだ。
という、非常に短絡的というか・・・狭い見方をしていた。


けれど、考えたって、何をしたって、見つからない答えだってある。
見つからないままその問題と、厭でも向き合っていかなきゃならない時だってあるのだ。
考えたって解決しないこと。
本人にとっては、永遠に続く心理的ストレスだ。
心の中に答えを持っていても持っていなくても、見つからないときは見つからないし、そもそも「答え」なんて探しようがないような問題だってわんさかあった。
もはや抗えないような問題。
「解決」するとかしないとか、そういうのとは違うのだけれど厭だなぁと思う問題。
そんなのに直面したとき、問題そのものが手に負えないとき、問題そのものに対処できないとき、人は自分の心にどう対処すればいいのだろう。

そんな時に、人は誰でもいいから、理解してくれなくてもいいから、「ただ聞いてもらいたく」なるんじゃないだろうか。
誰かに聞いてもらわないと、自分の中でどんどん腐敗していきそうな、爆発してしまいそうな、そんな気持ち。
自分でもどうしていいかわからない。
そんな時、自分と同じような問題を持っていない→自分と同じ過程をたどって悩んだりしない(坩堝にはまらない)自分以外の存在に話すことによって、自分の状況を自分に聞かせて気持ちの整理をしてみたりするんじゃないだろうか。
あと、これは根拠無しの、自分の勘による推測だが、自分と同じものを全く背負っていない(自分にとっては)一見まっさらに見える全くの他者の存在に、自分の抱えているものを話すことによって、そういう存在と話して情報を共有する位置に二人で立つということになる。それはすなわち、自分のような煩わしい事を持ってない存在と一時的に同じ目線・立場・状況に立てたような気持ちになれるような気がして、「自分の悩み事は(自分がそう思っていたほど)とてつもなく深いところにあるわけじゃない」と思いたい部分があるのかもしれない、と思った。

あと、「ただ聞く」というのには「一時的に受け止める」という役割もあるのかもしれないと思った。
たとえばお母さんに子どもが抱きつくように、こちらのメッセージをただ受け止めてもらう、そうして涙を流したりして一時的に(どこかに狂ったように飛び出していきそうな)自分の気持ちをふわりと止めてほしい、そんな気持ちが起こるのではないかとも思った。
だけどこれは自分がいっとう信頼した相手に限られる。
「受け止めてくれる」と確信のある者にしか、こわくて飛び込んでいけない。
そんな存在が欲しいと思ったときには、既に手遅れなのだ。きっと。
そうしてそんな存在を作ることは、やさしいようで案外むずかしい。
一度不信感を抱いてしまった相手には、無防備になって飛び込むほうが危険だ。
そしてそんな「不信のタネ」が、そこらじゅうに一体どれだけ転がっていることか。
1つの不信によって、10の信頼が不信に塗り替えられていく。
人を信じさせてくれよと叫ぶには、人の心はあまりに奥深すぎた。
どれだけ沢山の心があふれていることだろう。
どうして皆普通に仲良くできないんだろう。
どうしてそんなに余計なことを考えるんだろう。
どうして幸福なところばかりに目を向けさせてくれないのだろう。
どうして平和な見方をさせてくれないのだろう。
もっと良いこと、もっと有益なこと、もっと明るいことに注意を向けるより、
人はその反対のものにばかり向き合っていたいように見えて仕方が無い。
向き合わざるをえないのだろうか。
こういうバランスのとりかたは、少々きつすぎるように思います、神様。
だけど本当は、
良い面しか見たがらない自分が一番罪深いような気がしました。
自分の中を良いもので満たそうとしているだけで安全だと思っていた時点で、既に堕ちていたなぁという事に気がつきました。
でもさ、
そういうどろどろしたものにムリに合わせる必要も、無いんだよねぇ。

ただ私は私で居たかっただけなのにと
一体どれほどの叫びが聞こえることだろう



自分では処理しきれないものに遭ったとき、
ただ一人ではいられないときがある人もいる、ということだ。
そしてそれは非難されるべきでも、否定されるべきものでも、理解不能のレッテルを貼られるべきものでも無いのだ。

そして、自分では処理しきれないものに遭ったときのもうひとつの手段。
それは、「忘れること」なのかもしれない。
もともと解決できない問題というのは、自分の心がその問題をつかんで離さないからだ。前ならカンタンに離せた、いや掴みすらしなかった問題を、どういうわけか今がっちりとつかんじゃってるから、解決策も浮かばずどうしたらいいか判らなくなるのだ。
解決なんかする必要の無い問題だってある。
自分の中だけで肥大化していった心の問題だってある。
心の中で問題を掴んでる手を離してしまったって大丈夫な事だってあるはずなのだ。
そういうものは、手を離してしまってかまわない。忘れてしまってかまわない。
でもどうしてその問題をつかんでしまったのか、それについて自分で考えて、原因がわかれば、自分で対処策も浮かぶかもしれない。
でもそれは、余裕のあるときにやるので十分だ。
ひとまず上手に忘れてみる。待てば巡ってくるものもある。
それまでは忘れるための当座の「こじつけ的理由」でも軽くあてておけばいいんだ。

要は自分が納得するか、しないかだ。
自分の心は、納得してくれるだろうか?
それは自分の心と話してみないとわからない。




こんな暗めの文章や気持ちは好きじゃないのですが(思考回路単純にできてるんで、すぱっと割り切れない感情とか複雑な人間関係についてとか、考える事自体が苦手なんです・・。なんでもっとすっぱり爽やかにいかないかなぁ。悪意ってのとかについて考えるのは、どうも苦手です。苦手科目だからずっと避けて通ってきてしまいました。もっと他にさぁ、考えることないのかなぁ?楽しいことや興味深いことは一杯あふれているのに、それでも人のことについてアレコレ考えるのは・・・人であるゆえ、なんですかねぇ。何だかなぁ。)、ちょっと色々たまってきたのでガス抜きのように抜いてみました。これも一つの、対処法。




2004年05月19日(水)
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