2014年09月13日(土)  模擬裁判員裁判の4時間で得たものとは

弁護士ドラマ(「そこをなんとか2」放送中!)の脚本を書いておいて、なんですが、「裁判員候補になったら厄介だな」と思っていた。

時間を取られるし、背負わされるものが大きすぎる。

でも、今日、模擬裁判員裁判を体験して、だいぶ考えが変わった。

声をかけてくれたのは、法教育の派遣授業を行うリーガルパークを率いる今井秀智弁護士。
「そこをなんとか」の脚本を書いていた2年前に知り合った。
「弁護士の今井さん」「脚本家の今井さん」と呼び合い、二人で「今井BK会」を名乗っている仲。なんだけど、お互いの仕事ぶりを見たことはなくて、「今度模擬裁判やるんですよ」「じゃあ見学させてください」ということでお邪魔させてもらった。

就職情報サイトのマイナビとリーガルパークの共催イベントなので、参加者は大学生や高校生。
片隅でひっそり傍聴のはずが「裁判員として評議に参加して」と言われ、日向へ担ぎ出されることに。



評議に入る前に、審理。
冒頭手続(人定質問、起訴状朗読、権利告知、罪状認否)。
証拠調べ手続(検察側立証=検察官の冒頭陳述、証人尋問・被告人の兄 弁護人立証=証人尋問 被害者の友人、被告人質問・被告人)
論告・弁論(検察官の論告求刑、弁護人の弁論、被告人の最終意見陳述)

……と本番さながらに進行する模擬裁判。
これが、舞台劇を見ているような、いやそれ以上に本物の裁判に立ち会っているような臨場感で驚いた。
会場は國學院法科大学院の法廷教室。傍聴席との間の柵も、ちゃんとある。
検察官や弁護士を演じるのは、法科大学院の学生さんたち。
被告人や証言者は今井弁護士関係の年相応の方々が演じているのだけど、いきなり投げられた質問に、「被告人として」「証人として」答えを返すアドリブ力がただものではなく、役者さんなのかと思ったほど。

「家って外からは鍵をかけられますけど、中からは、すっと出られるんですよね。変な言い方ですけど、中から閉じ込めることはできないんです」(被害者の徘徊について被告人回答)
「雨の日は傘を差し、今日みたいに寒い日には、子どもがお母さんの手を取るみたいに、仲のいい親子という感じでした」(被告人と被害者の様子を聞かれて被害者の友人回答)

などなど、人間臭くて現実味のある回答が咄嗟に出て来る。
これまでにも何度も模擬裁判をされているそうで、場数を踏むうちにキャラクターが出来上がったのかもしれない。

案件は、痴呆の母親を、介護していた息子が足蹴りして死なせた傷害致死事件。
(「ケガをさせる目的はなくても暴力をふるった結果であれば傷害は成立する」と今井弁護士が評議の際に補足。)
夜中にトイレに起きた母が間に合わずに床を汚し、息子がタオルを取りに行っている間に、さらに汚れを拡大。さらに母が息子をなじったため、息子は逆上。母をどかせるつもりで足蹴りをしたところ、母が倒れて起き上がらなくなってしまった。

死なせるつもりもケガをさせるつもりもなかったが、日頃から母をたたくことはあった。
また、施設入りをすすめる兄の申し出を断り、ヘルパーにも頼らず、かたくなに一人で介護を続けた。
被告人は3年前にリストラに遭い、収入はなかった。そのため、母の年金をあてにしていたのではと兄は思っている。

検察側の求刑は5年。
「暴力を続け」「自らをストレスのたまる状況下に置いた」結果、起こるべくして起きた事件であり、「昨今は介護の制度が充実しており、十分に防げた」事件であったというのがその根拠。

これに対して被告人側は、執行猶予を求めた。
「有罪であることは認める」ものの「突発的なもの」であり、「再犯の可能性は低い」。
また「自分への怒り、深い自責の念」は十分にあり、「刑務を無理強いするよりも、自分の過ちと一生向き合う」よう促したい、と主張。
「被告人は加害者であると同時に被害者遺族でもある」という言葉が印象に残った。

これら法廷で提示された情報を手がかりに、裁判員は2チームに分かれて評議をすることに。

わたしが入ったBチームは、大学生3人、高校生3人、わたしの7人。
「裁判長やりたい人?」と今井弁護士に聞かれて、はいっと手を挙げた理系大学生男子が裁判長になり、彼の司会進行で判決をまとめていった。

「まず、実刑か、執行猶予つきか、どっちだと思いますか?」
「実刑、執行猶予、それぞれのメリット、デメリットは?」
今どきの大学生や高校生は議論に慣れているのか、自分の言葉で自分の考えを語る姿がとても自然。

審理のときも「裁判員席に座りたい人?」と聞かれると、次々と手が挙がり、証人や被告人への質問も矢継ぎ早に飛んだ。

「お母さんにおむつをするという発想はなかったんですか?」
「お母さんと二人で楽しく過ごせていましたか?」
「自治体や支援グループの活用は考えなかったのですか?」
「執行猶予になったとして、お母さんはいません。どうやって生計を立てていくのですか?」
「もともとスポーツはしてましたか? 足を使ったスポーツをされたことは?」

わたしが高校生や大学生の頃は、十人いたら一人か二人は物怖じしない子がいたけれど、今の子は、物怖じしないのが普通なのか。
それとも、休日に自分から学びに来ようという向学心にあふれたこの子たちが特別なのだろうか。

被告人役の方が何度か質問を聞き返す場面があった。それを見て、
「耳が遠いようですが、お母様の要望が聞こえていなかった可能性はありますか?」と質問した学生もいた。

わたしがあのいちばん高い椅子に座っていても、あんな気のきいた質問できなかっただろうな、と感心した。

さて、話を評議に戻して。
最初は「再犯の可能性は低そうだし、執行猶予つきで決まり」と思っていた、わたし。
でも、検察官の論告求刑を聞いて、「この判決が社会に与える意味」に想いを馳せた。
介護制度が充実したとはいえ、手続きやコストにハードルの高さを感じて、あるいは人手を借りることへの遠慮から、自力で乗り切ろうと背負い込んでいる人は、まだまだいる。
同じような事件は、また起こりうる。
「頼れるものに頼らず、自分を追いつめる」ことも罪なのだと知らしめる意味は大きいのではないか。

その意見を言うと、実刑に賛成という意見が相次いだ。
「執行猶予つきになっても生活の糧はない。ならば、刑務所で手に職をつける間に年金受給開始時期を迎えるほうが再出発しやすいのではないか」
「母と暮らし、母を殺してしまった家に戻るのは精神的に辛いのでは。環境を変えるクールダウン期間を持つことは被告人のためでもあるのでは」
「刑務所で、自分の罪と向き合い、母との思い出を振り返る時間を持ってほしい」
「刑務所で否応なく他人と関わることも、社会に対して閉ざされた被告人の生活を変え、社会復帰を促すことになるのではないか」

ただ、実刑にすると「前科持ち」になってしまう……と懸念の声。
これに対して「執行猶予であっても前科持ちにはなるので、刑務所に行ったかどうかの違いになる」と今井弁護士。

逆に「母の年金に頼っていた被告人は、刑務所暮らしに味をしめてしまうかも」という意見もあった。

他に「刑務所内の雰囲気は? カウンセリングとか受けられるんですか?」(受けられます)「刑務労働でどんなものを作っているんですか?」(昔はデパートの紙袋など。最近は携帯の基盤など)といった質問もあった。

また、被告人と兄との関係を考える人も多かった。
「被告人の兄の気持ちを考えると、実刑にして罪を償ったほうが、兄との関係も修復できるのではないか」という意見に対して、「介護を弟まかせにしていた兄にも責任はあるのではないか」と、わたし。施設に入れろとは言っていたものの、具体的な問い合わせなどはしておらず、もっと親身に相談に乗っていれば、事件は防げたかもしれない、と。

実刑か執行猶予では、実刑に決定。
では刑期は?
「法定刑は懲役3年以上20年以下。下限は情状により減刑して1年6月以上」となっている。

殺意はなくとも傷害致死事件は実刑に値することをメッセージするのが目的であれば、下限の1年6か月でいいのでは、とわたし。

これに対して「それでは短すぎる」という声が相次いだ。
被害者の命の重さ、母を奪われた兄の気持ちを考えると、求刑通り5年でいいのでは?
でも、すでに十分反省している被告人にとって、それは長過ぎるのでは?

刑務労働の作業報奨金がひと月4000円ちょっとぐらい出ると聞いて、「それが年金ひと月分、約15万円たまったら出るというのは?」というユニークな計算をしたのは高校生。
でも、何年がかりでためたのと同額を年金であっさり受け取れてしまうと、刑務労働が空しく思えてしまうかもしれないから、報奨金を刑期の根拠にはしないほうがいいのでは、となる。

では、5年の半分で、2年6か月はどうでしょう、とわたし。
被告人の母が痴呆を発症したのが2〜3年前。
被告人が痴呆の母の面倒を見ていた時間を、刑の長さとすることで、被告人にも、被告人の兄にも、被告人が背負ったものに想いを馳せて欲しい。そんなメッセージをこめられないか、と。

こうしてBチームの判決は「実刑2年6か月」となった。

Bチームは「この判決に3方向のメッセージを込めたいと思います」と、社会に向けて「同じ事件が起こらないようにする努力」を促し、被告人には刑務所で再出発の準備をと訴え、被告人の兄には被告人が刑期を終えたら一緒にお母さんのお墓参りをと呼びかけた。

もうひとつのAチームは懲役3年、執行猶予3年。再犯の可能性が低く、反省もしており、実刑を科す意味は低いという理由で、堂々とした判決文だった。

「人が変われば、裁判が変わる」と今井弁護士。
評議するメンバーが変われば、実刑か執行猶予つきかが分かれてしまう。
結果は違うけれど、両チームとも、被告人がこれからどう生きていくのかに思いを馳せ、期待を託して導いた判決。

人との関わりを避ける被告人の人生を、家族以上に親身になって考え、悩んだ人たちがいる。
その事実が、被告人の更正の後押しにならないだろうか。
なってほしい、と願う。
なるにちがいない、と思うのは性善説すぎるだろうか。

並べて比べるのは無理があるのは承知の上で、自分がシナリオコンクールに応募していた頃のことを重ねた。
賞が取れるかどうかで、デビューできるかどうかが決まる。人生が懸かっている。
もちろん賞を取りたい。結果は大事。
でも、それと同じくらい、自分の作品がどのように審査されたかに一喜一憂した。
隅々まで読んで、何度も読み返して、この人は書き続けられる人だろうかと想像し、書き続けてほしいという願いを込めて賞を贈ってくれたんだな、と感じられるのは、賞状よりも賞金よりもうれしかった。
賞を逃しても、わたしの作品から何かを受け取ってくれた審査員の方の言葉や励ましは、やはり賞状や賞金よりも光っていた。

判決という結果を導くまでに、どんな議論があったか、それは直接被告人に伝わらなくても判決からにじむものかもしれないし、その議論そのものを知る機会があれば、判決以上に被告人の胸に響くことがあるかもしれない。そんなことも思った。

最後に、参加者が一人ずつ感想を述べ、出演者の皆さんが紹介された。
自分のワークショップでもそうだけど、感想を分かち合う時間を持つことで、数時間の体験がぎゅっと凝縮される。味をまとめる仕上げの調味料のような役割を担っていて、この時間があるかどうかで後味が大違いだと思う。

今日はとくに、若い皆さんがどんな思いで模擬裁判に臨んだか、何を得たかを聞けて、一人一人が持ち帰ったものの大きさと意味を受け止めて、すごくいい話を聞かせてもらったなとうれしくなった。

判決とは被告人だけでなく、その家族や社会へのメッセージなのだ。
罪を犯した人の抱えているものや、そのまわりにあるものに想いを馳せて、自分だったら……と想像して、その人のために、そのまわりの人のために、そして社会のために、これからどんな未来が続けばいいのかを考え抜いて、その未来へ歩みだす道すじを示すことなのだ。
裁判員に関する本や資料もずいぶん読んだけれど、この実感は、模擬裁判を体験した4時間があって得られたものだと思う。

実際の裁判員を体験したら、もっと重く深く感じ入ることがありそう。

「起きてしまった物語は変えられない。でも、物語の続きは、あなたの手の中にある」
(朝ドラ「つばさ」玉木加乃子)

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