茨木のり子さんの詩集『寸志』を読み、またまた言葉の力に圧倒された。「思うに 言葉の保管所は お互いがお互いに他人のこころのなか」(『花ゲリラ』)などとふんわりやさしい言葉遣いなのに胸にずしずしと響いてくる質量と存在感がある。茨木さんが大学で化学を専攻されていたことは、以前読んだ詩集に記されていたプロフィールで知った。「元素どもの化けるさまには なぜかしらけっぱなし (中略) 言偏に寺のほうへと さまよい出て (中略) 言葉の化けるさま三十年」(『言葉の化学』)とあるが、この人の詩は、言葉が化学変化を起こす面白さをしみじみと味わわせてくれる。
「どこかで 赤ん坊が発声練習をしている」ではじまる表題作の『寸志』は、子育て中の娘が言葉を獲得するさまに興味津々の今のわたしには、とくに響いた。「相続税も払わずに ごくずんべらと我がものにした」「わたしの語彙がいま何千語なのか 何万語なのか計算できないほどなのに どこからも所得税はかかってこない」母国語というものに「しみじみ御礼を言いたいが なすすべもなく せめて手づくりのお歳暮でも贈るつもりで 年に何回かは 詩らしきものを書かなくちゃ」とある。ちょうどこの一週間は間もなく2歳になる娘の語録や、娘に子守唄代わりに聞かせている物語をまとめたりしていて、自分の母国語の面白さと豊かさをあらためて感じていたところ。つきあえばつきあうほど味わい深く、飽きることのない日本語という宝物を自由に使えるありがたさ。この特権を大いに楽しみ、喜び、宝の持ちぐされにしないことが、何よりの御礼になるだろう。「私の祖国と呼べるものは日本語」という詩人石垣りんさんの名言も引用されていて、その感覚にも共鳴する。
母国語の相続、獲得には相続税も所得税もかからないけれど、わたしの場合、その言葉を元手に所得を得ているわけで、寸志を贈るつもりがお返しのほうが大きくなっている状態。そこから所得税を支払っているし、将来著作権を家族に譲る折には相続税も発生することになろうから、その税金がまわりまわって母国語への恩返しに役立つことがあれば帳尻が合う。
2007年05月30日(水) マタニティオレンジ126 ピアスを見たり赤ちゃんを見てもらったり
2005年05月30日(月) 脱力系映画『イン・ザ・プール』
1979年05月30日(水) 4年2組日記 男子べんじょ