2007年02月22日(木)  マタニティオレンジ81 母になっても女心はある

朝から、つまらないことで不機嫌になった。近所にできた予約がなかなか取れないレストランに、ダンナが仕事先の人と行くことを知った。それに対して、「わたしと行くんじゃなかったの?」となじった。「行きたいねって言ってたけど、約束してたわけじゃないじゃないか」とダンナが反論した。それはそうだ。「それに、思い出の店ってわけじゃないし」。それもそうだ。「だけど、わたしと行く前に、他の人と行くわけ?」「いいじゃないか。下見だよ」「その人たちと行く前に、わたしと行けないの?」「無理だよ」。そんな不毛なやりとりをしているうちに、どんどん面倒くさい女になっていって、「何だよ、うるさいな!」とダンナを怒らせてしまったので、わたしは黙り込んだ。

客観的に自分の言い分を聞きながら、「こういう女とは、予約が取れても食事したくないなあ」と思う。だけど、言わずにはいられなかったのだ。一体何が気に入らないんだろう。ダンナを送り出し、一人になって考えてみた。妊娠・出産するまでは「子どもができたら、おいしい店でお酒飲んだりできなくなる」というのは、わたしがおそれていたことのひとつだった。だけど、いざ産んでみると、おしゃれして、いい店に行って、いいワイン空けて、という欲求がうまい具合に子育ての面白さに置き換わった。子連れで出かけられるところも案外あるものだし、週末は出かける代わりに友人たちが来てくれるようになったし、何かを我慢したり犠牲にしたりしているという不満はなかった。

でも、不満はなかったのではなく、表面化してなかっただけかもしれない。自分が家で子どもと二人で向き合っているときに、すぐ近くの店でダンナがおいしいものを食べることにケチをつける。これは嫉妬だ。風邪を引いた娘と数日間家に引きこもっていた閉塞感も追い討ちをかけたわけだが、ダンナにはわたしが駄々をこねているようにしか聞こえない。だけど、何とも説明がつかないこのもやもやした気持ちは、何なのだろう。何かがズレている。ズレが生まれたのだ、と思い当たる。二人の行動範囲に極端な差ができて、バランスが悪くなっているのではないか。毎晩のように外食しているダンナにとって、その店は数ある選択肢の一つでしかないのだが、外で食べる機会が激減したわたしの中では、子どもを預けてその店で食事する楽しみの比重が異様に膨らんでしまっていた。そして、産んで以来、すっかり乳母化して、二人で食事をするというデートの対象に見られなくなっているという現実を突きつけられた淋しさも手伝って、ねちねちと食い下がってしまったのだ。そんな風に今朝の自分の言動を分析した。こういう些細なことを掘り下げてみるのも、いつか飯の種になるかもしれない。

じゃあ、どうして欲しかったのか。ダンナがその店に行くのはかまわないし、順序だってどうだっていい。夫の楽しみを喜べないつまらない妻にはなりたくない。ただ、気持ちを察して欲しかったのだ。休日、ダンナに子どもを見てもらって映画や芝居を見に行っても、わたしは用が済んだら食事もせずに飛んで帰る。だけど、ダンナはいつ帰ってくるか告げずに出かけられる。わたしは心配だから、早く会いたいから急いで帰るわけだし、それを損だとか不公平だとかは思わない。けれど、それぞれが好き勝手やっていた二人に子どもができて、片方の時間の過ごし方ががらりと変わってアンバランスが生じている。そのことをわかっていて欲しかったのだと思う。わたしのまわりにも「子育ての大変さに不満はないけど、夫がそれを『母親なんだから当然』と思っていることが不満」と訴える人は多い。妻という字はわかりやすく下半分が女になっているのだが、母という字に隠された女は目を凝らさないとも見落としてしまう。母になっても女心はあることを世の中の夫たちは忘れがちなのではないか。女心を察して態度で示すためには、店へ連れて行くより高度な繊細さが要求される。ダンナにはしっかり下見をしてもらって、いつかあらためて誘ってもらおう。その日はちゃんとおしゃれして、マスカラも塗って、一緒に食事をして楽しい妻でありたい、と思う。

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