文章には性格が出る。
性格、てのとは違うかもしれないけど、人となりと言うか、どんなものに影響受けてきたかとか。
そういうのが見えてしまうものだと思う。
ケータイメールも、この日記(もどき)も然り。
高校のときに私がお勧めした本を読んだ友達が一言「××(私の名前。)が、影響受けたのがすごいわかる。」と言ったのを急に思い出したり。
「清廉」
友達が、ヒトの文章を表現するときにそんな言葉をしらっと使ってしまうあたり、やるなあ・・とか思ったりするようになった。
しばらく新聞読まない時期が続いててなぜか「天声人語」総集編とか読み始めた。
そしたら、すごいきれいな文章なのですよ。
新聞とか現代文の問題集で読み流していたころには気がつかなかったのだが。
まとめて読むとわかる。
なるほど、小論文の見本にもなるわけだ。といまさら。
思ったり。
小学生くらいのころは産経抄読んでたんだけど、その時は皮肉った文章が面白くて読んでただけだった。
言葉で表すなら清廉。もしくは、洗練ってやつだ。
「国語は才能だ」とかつての兄の高校の担任(担当・数学)は言ったそうだが、文章は才能と言うか、環境なのだろうな。
ううう・・・だったらもっとまじめに文学小説読んどけば良かったかも。
ちゃらけた小説なんか読んでないで。
それはそれで面白かったけど、「あんた、話すのへたになったよね。」とか指摘されないように、いまから読もうかな。
最近いろんなやつに言われるんだ・・・これが。
激陳腐な言葉じゃなしに、自分の中から言いたい言葉をまっすぐに出せるようになりたいもんだ。
多分、文章だけじゃなくて会話もそうなんだろうな。
ちゃんと自分のことを「ぬるい」と喝破してくれる楽しい友達がいることが幸せよ、とまるで告白みたいなことを言いたいがためにこんなことを書いてみました。
メールの文が好きな友達(大概文だけにとどまらず好きな場合が多い。)が何人もいるんで、さらに昨日話をしていてやっぱり思ったのですよ。
好みの問題か。
私がすごい変なヒトみたいだからこの辺で切り上げ。
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