初日 最新 目次 HOME


短編小説のページ
風太
HOME

2004年05月17日(月)
……Call My Name 1






その瞬間。
心臓が止まったかと思った。




常々、オレの心臓は、たとえばこの身から誰かの手によって引き出されようと。
止まることなんぞありゃしねえと、半ば本気でそう思っていた。
この肉体が朽ち果てても、心臓だけはとくとくと、その呪わしい刻を刻みつづけるだろうと。


そう。
その呪わしき。
血族。血。出生。そして名――。


特に名は、その最たるものだ。
誰が好んで”蛮”などと。
全く以て、忌まわしい名。
どうせ、ろくな意味合いを含んじゃいねぇだろうが。

まあ、それでも。
そんな名でも、無いよりはましだと思っていた。




醜くへしゃげた血まみれの顔を靴底で踏みつけ、ドスを効かせた声で吐き捨て、にやりと嗤う。
恐怖におののく顔を見下ろすのは、ある種快感だった。



「美堂蛮だ。テメエのからっぽの頭に、この名をしっかりと刻み込んでおきやがれ――」

もっとも、忘れたくても、もう忘れられやしねーだろうけどよ?




…まあ、使い道としちゃ、こんな風だ。


つまりは、オレにとって名前なんてぇのは、その程度のモンで。
好きも嫌いも、気に入るも入らねぇもねえ。
無いと不便だ。そんなくらいだ。


ある者は舌打ちしながら忌々しげにその名を吐き捨て、またある者は、脅えて顔を歪ませ身震いしながらその名を口中で呟いた。
歯をガチガチと打ち鳴らしてよ。

どちらにしてもまあ、当然好意的なモンじゃねえ。

たまに甘ったるい声でその名を囁かれることもあったが、その猫撫で声は下心に満ち満ちて、オレに吐き気をもよおさせた。
反吐が出る。
そう思いつつも、その細い首を右手でへし折らなかったのは、こちらにもそれなりの事情があったためで。
まあ、いわば取引だ。
名を呼ばれ、動くものは心ではなく、金だけだった。あの頃は。


オレにとっちゃソッチが常で、それにすっかり慣れきっていた。




自分の名を、愛情を込めて呼ぶ人間など、この世に居るはずもなく。

幼い頃の記憶にあるのも、ババアの尖った叱責の声と、マリーアの溜息混じりの困惑気味の口調。
奪い屋をやっていた頃の兄妹からは、ちょっと違ったトーンで呼ばれもしたが。
それを懐かしく思い出すことは、もうない。
兄は死に、妹の方はオレを恨んでいる。
2度とオレをあんな風に、親しみを込めて呼ぶことはねえだろう。


だから――。
自分の名を呼ばれて、心が揺さぶられることがあるなどとは、当然考えもしなかった。







裏新宿の麻薬女王フォックスに、失われた時間を奪還してやることで、ファーストミッションはまあとりあえずは無事終了した。
まあ、ざっとこんなもんよ。
あの女がこれで満足しやがるかどうかは、まあ別問題だがよ。

そんな女を遠目で見つめ、しばし沈黙していたアイツがふいに、オレに背を向けたまま呟いた。



「やっぱ、やさしいね。蛮ちゃん」



「サービスだよ! 俺様はどーでもいいケド、一番テメーがうるせえから…」
言いかけて、固まった。


…おい。
 ちょっと待て。


「…… 今、何つった?」
「やさしいね?」

やさしいワケなぞ、あるかっての。
本来なら、そこでも既にアホ抜かすなとツッコミてえところだが。
問題は、そんなもんじゃねえ。そこじゃねえ。


「その後」

聞き間違いであってくれと、どこかで願うオレをよそに、背を向けたままのアイツが僅かに覗く頬で笑むのが見えた。
決意を固めたような笑み。
うん、そう決めた。そう呼ぶ。
そんな風に。

「蛮ちゃん!」


は…?
だが驚愕の余り、オレは完全に怒りのタイミングを外した。
出遅れた。そしてヤロウは素早かった。



――心臓がとまったかと思ったのは、まさしくこの次の瞬間だ。





「蛮ちゃん!」





もしも、この瞬間にオレの命を狙う者がいたとしたら、オレは完全にイチコロだったろう。
いや、別の意味でも、結果的にゃイチコロだったんだろうが。

そしてオレは、自分がそんなに簡単な人種とは、この時まではこれっぽちも思ってやしなかった。


振り向きざま、まさに花の咲きこぼれるような(ヤロウに使う表現じゃねえってことは重々承知している。だがこの時、オレの目には、空恐ろしいことにマジでそう映った)満開の笑顔で、ヤツはその呼称をオレに放った。







ば…




ば、ば…




蛮ちゃん――だとおおぉぉおおぉお??!!!




オレの頭の中で、天地がひっくり返るほどの大騒動が起きていたことなど、誰も想像できねえだろうが。
大混乱した。

同時に、カッと頭に血が昇った。
いや正式にゃ、頭に昇るはずだった血は、なぜかとんでもねえことに顔面で止まっちまいやがったんだが…!

有り得ねぇ!
このオレ様が、赤面だと!?
冗談じゃねえ!!


オレは、冷酷非情の邪眼の男と噂される美堂蛮様で、このトシにして、裏新宿じゃちったあ名の知れた悪名高き男で、そんじょそこいらのチンピラの親玉ぐれぇの野郎共なら、その名を耳にしただけで畏れの余り失禁しちまうようなそんな凶悪な、ヒトの命なんざ屁とも思わねえようなワルで……!



それが、それが、
なんてぇザマだっての!!



つーか、テメエ!
どこにそんな最終兵器を隠してやがった!?
しかもそれを、テメエの相方であるオレに放ってどうすんだよ!?



「美堂蛮様と呼べエ!!」



赤面したままの怒声は、過去16年間の中で一番迫力に欠けた…。


その証拠に…・。
「蛮ちゃん蛮ちゃん蛮ちゃん蛮ちゃん」
このバカ!
連呼すな――!
「うるせ――カミナリ小僧!」
「蛮ちゃん、オレは小僧じゃなくて、天野銀次だって!」
知ってる! 
それがどうしたってえんだ!!
それより、何より!
「また言いやがったな!! 小僧小僧小僧〜〜〜〜!!」


――まったくよ。



ジャリの口喧嘩じゃあるめーし。

頼むぜ…。

”おまえのかーさん、でーべーそ”と、レベル的にゃ、ちっとも変わらねえんじゃなかろうか。
それでもオレは、一声呼ばれる度にかっと熱くなる顔をヤツに気取られまいとして、ヤローをボカスカ殴りながら怒鳴り続けた。
カミナリ小僧は、なぜかオレが怒鳴って殴ったり蹴ったりするのを、妙に嬉しそうに見ていた気がする。
楽しげに、嬉しげに、どこか安堵したような顔で。
いくら殴っても蹴っても、声をたてて笑いながら――。
そして尚のこと、しつこく呼びやがるのだ。その名を。


後から思えば。
あれが、アイツがオレに見せた、初めての無防備な笑顔――だったかもしれねえ。

まあ、そん時ゃ、こっちもソレどころじゃなかったから気にも止めなかったけどよ。







2004年05月16日(日)
……Call My Name 2



結局。オレらは、スバルに戻るまで、ずっとそんな風だった。
未払いの奪還料のことなど、これっぽちも思い出しもしねぇで。

じゃれあいに疲れたのか(じゃれあったつもりはねえ!)、初めての奪還の仕事に神経を使って少々疲労したのか。
アシ兼、塒でもあるスバルをいつもの公園の隅に停車させ、シートを倒して横になるなり、カミナリ小僧はいともあっさりと寝入ってしまった。


お互いに背中を向けて、顔をドアに向けているから、その顔までは覗くことは出来ないが。
ずいぶんと安らかな寝息が、背後から聞こえる。


――ったく!

いい気なもんだ。
こちとら、目が冴えて寝付けやしねぇってのによ。


何だか、まったく。


チョーシ狂いっぱなしだな。
コイツと組んでから。




…それでも。

あの時は。



頬を伝うヤロウの涙を見るなり、胸苦しくなった。
震えている頼りない肩。
ぎゅっと握りしめられた拳。



やれやれ。
とんだお人好しだ。
コンビを組んだばっかの、オレの相棒はよ。
なんでまた、ヒトの昔話だけでそう簡単に泣けるかねえ。
どこにでも落っこちてそうな話じゃねえか。
そんなのに、いちいちほだされてちゃキリがねえ。


シビアに考えつつも。
何とかしてやるかという気になったのは、いったいどういう風の吹き回しだろうか?


いや。
ヤローの涙なんざ、いつまでも見ていたかねえ。
みっともねー。
とっとと、泣きやませねえとよ。
格好悪いったらねえぜ。
って…それだけだ。


心中で毒づく。




「・・・・・・・チッ」

舌打ちしたのは、オレ自身のその言葉に対してだった。
あの時と同じ溜息が、ふいにオレの唇からこぼれる。
心にも無いそんな台詞が、何だかヤツを傷つけるような気がしたからだ。
別に聞こえやしねえのによ。


それでも、なぜか急に。
ヤツが悲しそうな顔でもしてるんじゃねえかと不安が過ぎり、肩越しにサイドシートを振り返る。



「…う…ん……」



振り向くと同時に身じろぎされて、慌ててその背中から視線を外した。
バツが悪そうに、再びヤツに背中を向ける。


チッ。
ったく。
…何やってんだかよ。





思いつつ、溜息と同時に自然と口元が綻ぶ。

カミナリ小僧は、少し身体の位置を変えて落ち着くと、また軽い寝息を立て始めた。
オレは、肩から順に慎重にサイドシート側に身体を振り向かせ、こちらに向けられているヤツの背中を見つめる。
安らかな寝息が、耳に心地よい。
呼吸とともにゆったりと上下する肩を見つめているオレの目は、いつのまにか細められていた。


”蛮ちゃん!”


思ってもみなかった呼称。
一番驚愕したのは、その響きの甘ったるさだ。
そりゃあ、赤面もするっての。
あんな顔して、あんな声で、あんなトーンで呼ばれちゃよ。




しかしなあ。
この美堂蛮さまが。
”ちゃん”づけたぁな…。

カタナシだぜ。ったく。




もっとも、それがこいつじゃなかったら、間違いなく血ィ見てるとこだがよ。
いーい度胸じゃねえか。フザケロよ?と嗤った瞬間、呼んだ野郎の顔の方が、赤面どころか血みどろに真っ赤に染まっていることだろうぜ。


オメーだから!
大目に見てやってんだ。
わかってんのか?! 
ええ?!



考えつつ、規則正しく静かな呼吸に合わせて上下しているヤロウの肩を眺めているうち。
自然と、瞼は重くなっていった。
仕事の疲れはねえが、チガウ意味じゃ確かに疲れた。
妙に心地よい睡魔が襲ってくる。
ゆっくりと瞼を閉ざしていきながら、オレはふいにその背中を見つつ、ぼんやりと考えた。


…とは、いえ。
コイツ。
意外とトリ頭だからなー。
明日の朝になりゃあ、オレをどう呼んだかなんてぇことは、きれいさっぱり忘れているかもしれねえな。
また、しれっとした顔で”おはよう、美堂君”なんて言いやがるんじゃねえか。

そう思うと。
わけもなく、ちょっと物足りない気がしないでもない。



”蛮ちゃん!”



霞がかっていく頭の中で、はちきれそうな笑顔が浮かんで消えた。
口元が、フ…と笑む。
そしてオレは。
眠っているヤツの背中に、心の中でこっそりと呟いた。



…よお。



もう、呼ばねーか?



さっき聞いたのがもし、最後ならよ。

別に、それはそれで構わねえから。



本当の最後に、聞かせろや。
もう一回だけ。



お前の声で、もう一回だけ、聞かせろや――。
夢見がちっとでもよくなるように。

もう一度だけ…。





…なんてぇ、聞こえるわきゃねーか。




自嘲の笑みを浮かべつつ、静かに目を伏せる。



もーいい。
…寝るか。





――が、ふいに。



ヤローの気配が動いて、オレはうっすらと瞳を開いた。

ほぼ同時にころんと、ヤツがこちらに寝返りを打ってくる。
顔には出さず、かなり、ぎょっとなったオレをよそにヤツは――。
むにゃむにゃと何か寝言を呟いた後。



眠りにつく前よりも、さらに甘く。
寝入ったまま。
口元に、やわらかな幸福げな微笑みさえ浮かべながら。
その呼称を、声にのせたのだ。



「…蛮…ちゃん……」



刹那。
胸全体に、あたたかいものが、一瞬にして広がった。



その瞬間だけ目を見張るように瞳を開いたオレは、眠りの闇に誘われながら、少しばかりの抵抗を試みた。
だが、急激に襲いつつある睡魔にはかなわず、再びゆっくりと睫を落とす。



眠りに落ちていくオレは、いったいどんな顔をしていただろう。

もしかすると。
生まれ落ちてこのかた、一度もしたことのないような、誰にも決して見せられねえような。



そんな、とんでもなく締まりのねえ、にやついた笑みを。
その顔に張り付かせていたことだろう。


きっと、たぶん、な――






END