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■ 気が利くと言うこと。
自分は子供の頃から、 自分の家族のもの達に対してさえ、 彼らがどんなに苦しく、 またどんなことを考えて生きているのか、 まるでちっとも見当がつかず、 ただ恐ろしく、 その気まずさに耐えることができず、 すでに道化のようになっていました。 つまり、自分は、いつの間にやら、 一言も本当のことを言わない子になっていたのです
〜同時に人から与えられるものを、 どんなに自分の好みに合わなくても、 それを拒むこともできませんでした。 イヤなことをイヤと言えず、 また、好きなことも、おずおずと盗むように、 きわめて苦く味わい、 そうして言いしれぬ恐怖感にもだえるのでした つまり、自分には二者選一の力さえなかったのです
自分は、どういうものか、 女の身の上話というものには、 少しも興味がもてないたちで、 それは女の語り方の下手なせいか、 つまり、話の重点の置き方を 間違っているせいなのか、とにかく、 自分には常に馬耳東風なのでした。
世の中の全部の人の話し方には ややこしく、どこか朦朧として、 逃げ腰とでも言ったみたいな微妙な複雑さがあり そのほとんど無益と思われるくらいの厳重な警戒と 無数と言っていいくらいの小うるさい駆け引きとに 自分はいつも当惑し、 どうでもいいやという気分になって、 おどけて茶化したり、無言の首肯で 一切お任せという、いわば敗北の態度を とってしまうのでした
〜どうせばれるに決まっているのに その通りに言うのがおそろしくて、 必ずなんかしらの「飾り」をつけ加えるのが 自分の哀しい性癖の一つで それは世間の人が「嘘つき」と呼んで 卑しめてる性格に似ていながら、 しかし自分は自分に利益をもたらそうとして その飾り付けを行ったことはほとんど無く ただ雰囲気の興ざめた一変が 窒息するくらいに恐ろしくて、 あとで自分に不利益になると言うことが分かって いても、例の自分の「必死の奉仕」それは例え 歪められ微弱で、馬鹿らしいものであろうと その奉仕の気持ちから、 つい一言飾りを付けてしまう〜
世渡りの才能。 ・・・自分には本当に苦笑の他はありませんでした 自分に、世渡りの才能! しかし自分のように人間を恐れ、避け、 ごまかしているのは、例の俗諺の 「触らぬ神にたたりなし」とか言う 怜悧狡猾の処世訓を遵奉しているのと、同じ形だ、 ということになるのでしょうか。 ああ、人間は、お互い何も相手のことをわからない まるっきり間違ってみていながら、無二の親友の ようなつもりでいて、一生それに気づかずにいて 相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを 読んでいるのではないでしょうか。
してその明くる日も同じことを繰り返して、 昨日に変わらぬしきたりに従えばよい。 すなわち大きな喜びを避けていれば、 自然また大きな悲しみもやってこないのだ。 行く手を塞ぐ邪魔な石を ヒキガエルは廻って通る。
この世には様々な不幸な人が、 いや、不幸な人ばかり、と言っても 過言ではないでしょうが、しかし、その人たちの 不幸は、いわゆる世間に対して堂々と抗議でき、 また世間もその人たちの不幸を容易に理解し、 同情します。しかし、自分の不幸は、 全て自分の罪悪からなので、誰にも 抗議のしようがないし、また口ごもりながらでも 一言でも抗議めいたことを言いかけると 世間の人達全部、良くもまあそんな口がきけた ものだと呆れかえるに違いないし、 自分はいったい俗に言う「わがままもの」なのか またはその反対に、気が弱すぎるのか、 自分でもわけが分からないけれども、 とにかく罪悪の固まりらしいので、どこまでも 自ずからどんどん不幸になるばかりで、 防ぎ止める具体策など無いのです。
自分の不幸は拒否能力の無い者の不幸でした。 勧められて拒否すると、相手の心にも自分の心にも 永遠に修繕し得ない白々しいひび割れができる ような恐怖におびやかされているのでした。
今は自分には、幸福も不幸もありません。 ただ、一切は過ぎて行きます。 自分が今まで阿鼻叫喚で生きてきた いわゆる「人間」の世界において、たった一つ、 真理らしく思われたのは、それだけでした。 ただ、一切は過ぎて行きます。
2001年10月29日(月)
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