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2013年08月21日(水) |
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Venus |
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岸壁に腰を降ろす。 目の前には巨大な積乱雲。まるで熱帯の海みたいだ。 その輪郭をオレンジの光が染める。
時刻は18時半。 あれは、夕日だ。 積乱雲の向こうで海に沈もうとしている太陽の色だ。
フラスコのスコッチをタンブラーに移す。 タンブラーにはたっぷり氷を詰めてきた。 風が強い。波が高い。 積乱雲は激しくその形を変える。
メガホンを持った警備員が巡回してきた。 「今日の江ノ島花火大会は、10メートルを超える強風のため中止となりました。」 仕方ない。あんな事故の後だ。主催者も慎重になるだろう。
風はいよいよ強い。 積乱雲は場所を動かし、太陽の光が再度空を明るくした。
この風は、先島諸島に迫った台風のもたらしたものだ。 熱帯の湿度をたっぷり含んでいる。 ふいに、PNGの夜の猛烈な生命の気配を思い出す。
冷たいスコッチを口に運びながら、風に身を委ねる。 目の前は海だから、風が運ぶものは湿度と潮の匂いだけ。 砂に顔を伏せることも、日差しに目を細めることもない。 まとわりつく湿度すら、今は少し心地いい。
「花火大会中止だって。」 「マジ?晴れてんじゃん。」 浴衣のカップルが警備員に口を尖らせる。 が、強風に文句が続かない。
「今日の江ノ島花火大会は、10メートルを超える強風のため中止となりました。」 警備員と目があった。 「足元の明るいうちに御帰り下さい。」 メガホンを上に向けたまま、警備員は僕の顔を見ながら言った。
僕は黙って空を指さす。 さっきまで積乱雲があった場所だ。
「あれ。」 「はい?」 「あれ、たぶん金星だと思うんだ。」
警備員は僕の指さす方向を眺め、曖昧な笑顔を浮かべた。 太陽と入れ替わるように姿を見せた宵の明星は、思いの他明るくキレイだった。
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2013年08月19日(月) |
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エレファント |
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女の左手が肩に乗る。 PCの画面を覗き込む。
「あら、その絵。」 「樹花鳥獣図屏風。静岡県立美術館にある。」
反対側の肩に顎が乗る。 女の湿った髪が耳に触れ、少しくすぐったい。
「昨日見に行った画だよね?。」 「それはこっち。鳥獣花木図屏風の方。」
女の右手がマウスに伸びる。 二枚の画像を交互に開く。 その度に女の顎が肩の骨に当たる。 ドライヤーをかける前の女の髪から、滴がぽとりと落ちる。
「殆ど一緒だね。」 「専門家が見ると大分違うみたいだよ。真贋の論争もある。」
女の手がマウスから離れ、僕の右手の甲に重なる。
「どっちが偽物って言われてるの?」 「どっちも。どっちかがどっちかのコピーだって話だよ。」
女の口が動くたびに、髪が揺れる。 冷えた髪の内側で女の頬が動く。 女が重ねた掌が熱い。
「あなたはどう思うの?見てきたんでしょ?」 「いや、画は見てない。」
女の顔が肩から離れる。僕の横顔を見ている。 僕は画面いっぱいに鳥獣花木図屏風の画像を広げる。
プライス夫妻が東日本大震災の支援の一環として貸してくれたプライスコレクション。 仙台、岩手と巡回し、今は福島県立美術館で開催中だ。
僕が行ったのはお盆休み最後の日曜日。 昼前には駐車場が満員になるほど盛況だった。 人混みの中、それでも東博の企画展よりはゆったりと眺めることが出来た。 子供が楽しめるようにと、展示や解説に工夫を凝らしていたのが印象的だった。
「花も木も動物もみんな生きている」 この展覧会にあわせ、鳥獣花木図屏風にはこんな名前がついていた。 展覧会のポスターにも使われたこの絵の前にだけは人だかりができ、列が途切れることがなかった。
画の前の絶好の場所に、ロングソファーが据えられていた。 平日の午前中などはここに腰かけてのんびり鑑賞することもできただろう。
ソファーに座ってみる。 人の肩越しに時々象や犬や鳥の姿が覗く。 なんだか、象の顔が笑って見えた。
「じゃ人垣越しに眺めてたの?」 「うん。」
女の顔がもう一度、近づく。 今度は正面から。 重なった女の右手に力が入ったのが判った。
左手で女の髪を撫でながら、右手でマウスをクリックし鳥獣花木図屏風の画像を閉じる。 その下で開いていた放射線量マップもそっと閉じる。
手を繋いだカップル。 ノートをもった中学生のグループ。 車いすの母親とそれを押す娘。 若い男、女、それに親に手を引かれた小さな子供。 鳥獣花木図屏風の前には人がいた。
真贋はともかく、人がいて初めて完成する画なんじゃないかと思った。
画を眺める人垣の向こうで、覗く若冲の象は確かに笑った。
だからさ、僕もつられて笑ったんだよ。
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2013年08月01日(木) |
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蝉 |
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低い雲が、湾岸線より向こうの風景の輪郭をぼかす。 窓を開けるまでもない。除湿中の室内でも今日の湿気の高さは判る。
にも関わらず、ミンミンゼミの合唱が聞こえる。 羽化した日から僅か数日の命。 その数日が雨か、晴れか。 セミの生涯は、潔いほど、運任せだ。
だからこそ、この程度の曇天でセミの声が止むことはない。
最近はミンミンゼミの声に、クマゼミの声も混じる。 昔はこの辺りじゃ聴かなかった声だ。 クマゼミの鳴声を聴くとどうしても、京都の夏を思い出す。
テレビでは昨日録画したNHKアーカイブスが流れている。 アムール豹の生体を追ったドキュメンタリーだ。 ふと、シベリアにもセミはいるのだろうか?なんて思う。
凍てつく川や雪の森を行く、画面の中のリンクスやアムール豹。 セミの声。 そして、窓の向こうに霞む湾岸線。
旅に出たくなるのは、決まってこんな日だ。
長く付き合った男の子と酷い別れ方をした。 いや、彼は酷い別れ方とは思ってないだろう。 飲み込んだ数々の言葉を溶かすのには、まだ当分アルコールの世話が必要だろう。 二日酔いの不快で上書きした方が、今の気分のままよりまだマシだと思う。
洗顔し歯を磨き、冷たい水をコップで二杯。 二日酔いの鈍い頭痛はだいぶ治まった。
懲りない。こめかみを揉みながら一人苦笑いを浮かべる。 何度も恋をし、何度も傷つき、そしてまた恋をする。
夏ごとに求愛の大合唱を繰り返すセミみたいだと思う。
羽化した日から僅か数日の命。 その数日が雨か、晴れか。 セミの生涯は、潔いほど、運任せだ。
それはそうなんだけどさ。 その鳴声、二日酔いの頭にはちょっと響きすぎなんだよね。
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