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五十嵐 薫
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2012年03月12日(月)
NEW HORIZON

月を見ようと彼が言った。
ダウンを着ていて幸いだった。
彼はバイクで待っていた。

海岸線に浮かぶ江ノ島のシルエット。
その上に浮かぶまん丸の月。
水面は微かに光りを揺らし、ヘルメットを叩く風に微かな波の音が混じる。

寒さに歯がガチガチなって、口の中を少し噛んだ。
彼の身体に回した腕の内側だけが、やけに暖かい。
足の先の冷たさは、随分前から感じなくなっていた。

幾つかの信号を越え、何軒かのコンビニをやり過ごし、彼は24時間営業のマクドナルドでバイクを停めた。
私はギクシャクした動きでヘルメットを外す。
「ねぇ。鼻出てるよ」
「オカシイな、背中で拭いたはずなのに」
二人して小さく笑う。

コーヒーは温かかった。
噛んで出来た傷に少し沁みた。
口内炎にならないようにと祈った。

他愛のない話をした。
友達のこと、学校のこと。
卒業旅行で行くパリのこと。
そこで買おうと思ってるヴィトンの鞄のこと。
辻堂の新しいショッピングセンターや鵠沼海岸のかき氷屋さんのこと。

話はいつしか昔話になった。

「英語の教科書なんだった?」
「え?」
「僕のとこはNEW HORIZONってヤツでさ・・・」
「あ。それ一緒」

「HORIZONってよくわかんなかったんだよ」
「なんで?」
「ほら、僕、長野じゃん?水平線ってピンとこないんだよね」
「地平線だっていいんだよ?」
「尚更駄目だよ。山だらけだって、周り」

彼は二杯目のコーヒーで指先を暖めている。
マクドナルドのコーヒーがお代わりできるなんて知らなかった。


ふいに水平線を見ようと、彼が言った。

ダウンを着ていて幸いだった。
夜明け前が一番寒い。

バイクをマクドナルドに停めたまま、海岸に降りた。
適当な大きさの流木を見つけ、並んで腰を下ろした。
波の音は小さかった。
朝凪の時間なんだって思った。

「昔犬吠崎で水平線みたんだけどさ」
「うん」
「ピンとこなかった」
「何が?」
「地球が丸いこと」

もうすぐ陽が昇る。
今は暗闇の中で曖昧に交じり合っている空と海が、二つに分かれる時間が来る。
朝が来れば、世界はその輪郭を取り戻す。

「ねぇ」
「何?」
「実家帰ることにした」
「そう」
「親父の腰、相当悪くてさ」
「そうなんだ」
「折角、内定もらったのにさ」

唐突に、彼の部屋でアップルパイを焼いたことを思い出す。
毎年冬になると木箱いっぱいの林檎が届くと言っていた。

彼は視線を水平線の彼方に投げる。
急速に広がる光に、世界は見る見る色彩を取り戻す。

膝に手を置き力を込めた。寒さでギクシャクしたけどすんなり立てた。
砂浜に落ちていた細い流木を掴み、砂に突き立てる。
そのまま、海岸を一気に走った。
多分、50メートルは走った。
砂から流木を引き抜き、その勢いで海に向かって放り投げた。

「どうしたの?」
「・・・ホライズン」
「え?」
「ニューホライズン。」

砂浜に引かれた一本の線。

「地平線でも水平線でも、私、どこにだって描ける」

穏やかな海の彼方から、金色に輝く太陽が微かにその顔を覗かせる。

「海、見たくなったら、私を呼べばいいよ」

彼は何か言いかけたまま、口を開けたままこっちを見てる。
たぶん、彼から私は逆光で、表情までは見えないはずだ。
だから私は、言い返されないよう、唇の震えを無理やり押さえつけてから言った。

「ねぇ。鼻出てるよ」


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