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五十嵐 薫
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2012年02月14日(火)
bitter

「よろしければ、これどうぞ」

文庫本から顔を上げると、若い女の笑顔があった。

女が差し出したトレイには、一口大にカットしピックを刺したザッハトルテが乗っていた。

会釈して手を伸ばす。
口の中に、ローストされたチョコの薫りが広がる。
「こちらは、バレンタインの期間限定商品になっております。よろしければお試し下さい」

女の肩越しには、キレイに磨かれた大きな窓。
窓の向こうはオリーブの鉢が置かれたテラス席で、さらに向こうは海だ。
海自の護衛艦、潜水艦、タグボート。その合間を、軍港巡りの遊覧船が縫うように進む。

女は隣のテーブルの客に、ザッハトルテを勧めている。
うなじの後れ毛が、逆光の中、揺れている。



また。
忘れそこなった。
今年もまた。
君はひとつ、歳をとる。


ザッハトルテの苦さが消えないうちに、コーヒーを一口。
子供の頃は、この世に心地好い苦さがあるなんて、思いもしなかった。



ねぇ。
いつか君のいないこの苦さが、心地好い想い出に代わる日も、来るのかな?



2012年02月05日(日)
Pearl

窓際のテーブルがいっぱいだと言われて案内された席だったが、海岸を眺めることはできた。
冬型の気圧配置が作る不安定な大気。荒天を予感させる雲の色。
それでも、日曜の午後らしく、海辺にはそれなりの人影がある。
砂浜に置かれたウィンドサーフィンのセール。
行き交うノースフェイスやパタゴニアのウィンドブレイカー。犬を連れたダウンジャケットの家族。
濡れた砂に点在するそれらの色彩は、遠目からはまるでビーズをばら撒いたかのようだ。

運ばれてきたコーヒーのカップで、かじかんだ指先を温める。
一口口に含み、鼻を啜る。
あわててペーパーナフキンに手を伸ばす。
さすがに、バイク向きの陽気じゃなかった。

リュックから取り出した文庫本をめくっていると、テーブルの上の携帯が震えた。
ディスプレイに表示された名前を見て、脱いであったダウンを掴んだ。
袖を通しながら、テラス席につながるドアに向かって歩く。

テラス席には人がいなかった。
夏なら真っ先に埋まる特等席だが、二月の今じゃ仕方ない、

他愛のない会話を重ねながら景色を眺める。
西の空に広がる雲。そのしっとりとした重さを感じさせる黒がいい。
夕凪の海は、まるで大河のように、穏やかに水面をたゆらせている。

携帯をポケットにしまいながら、席に戻る。
凍えた指先を温めようとカップに手を伸ばす。
ほんの数分でコーヒーはすっかり冷めていた。



134を西に向けて走る。
対向車線の混雑と裏腹に、江ノ島方面に向かう車はない。
重たい雲の隙間から時折降り注ぐ、光の筋が美しい。
一瞬輝く空は、金糸、銀糸をふんだんに使った重厚なタペストリーのようだ。



漆黒の雲の後ろに透けて見える太陽。
その輪郭が真珠のように、滑らかに輝いている。


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