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JIROの独断的日記
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2006年01月03日(火) ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート、所感。「泣けました」

◆聴いていて、胸が苦しくなるほど、良かった。

 

 1日の生中継ときょうの再放送、さらにDVDに録画したもの、と3回聴いてしまった(3回目は途中だが)。

 聴いていて、こみ上げる感動で胸が苦しくなった。それぐらい良かった。

 私は日本ではウィーン・フィルを生で聴いたことがない。コネでもないとチケットが手に入らないのだ。

 ものすごく傲慢な云い方だが、聴いても良く分からないような人が大勢チケットを手にしているように思われる

(勿論、本当の愛好家のほうが多いだろうけど)。



 ロンドン駐在時には、簡単にチケットが買えた。

 日本では信じられないが、コンサートの1週間前でも日本で云うところのS席が5000円ぐらいで買えるのだ。

 ヨーロッパ人は各国とも自国に誇りがあり、ウィーンフィルを特別扱いしないのだ。

 ベルリン・フィルに対しても同様である。イギリス人は得にその傾向が顕著だ。

 そもそもイギリス人は英国は「ヨーロッパの一部ではない」、と思っている。本気で思っている。

 それでは、何かというと、“Great Britain”(「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」

 =United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland、略すときには、Theがつく。

 “The United Kingdom”。更に省略するときは、単に“U.K.”)なのである。

 大英帝国なのである。

 仕事場で同じ部署のイギリス人がヨーロッパ諸国のお客さんを往訪するときに、

 「来週、ヨーロッパに行ってくる。」という表現を用いるのが普通だった。


◆ヤンソンス氏は良いですね。

 

 話がそれた。

 “ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2006”を聴いていて、

 「ああ、ウィーンフィル!」という初歩的な感動に身が震えた。

 あの響きは、厳密には楽友協会ホール(Wiener Musikverein )で聴いてこそ

 「本物」のウィーンフィルの音になるはずである。ホールは楽器の一部である。



 ああ、ウィーンで、ウィーンフィルを聴いてみたいなあ・・・。もう無理だけど。



 ヤンソンス氏の評価が高いのが分かるような気がする。

 決して奇を衒わず、しかし、ワルツとポルカ(二拍子の早い曲)の組み合わせ。

 珍しいワルツを取り上げることなど、プログラムがかなり工夫してあった。

 ヤンソンス氏を見ていると実に音楽をしていることが楽しそうで、

 音楽の「楽しさ」を素直に感じることができる。それが聴く者を幸せにする。



 ウィーンフィルともなれば、ニューイヤーコンサートの全曲目を、指揮者がいなくても演奏できる。

 それは間違いが無い。

 そこで、何かの存在意義を示すのは指揮者とっては大変重い課題である。

 だからといって、何か変ったことをしようとして、

 ウィーンフィルに、音楽的な常識に反する注文をしてもバカにされるだけである。

 指揮者にとって一番大切な能力は、オーケストラが能動的に演奏する意欲(俗な云い方をすれば「ノリ」であろうか)、

 を引き出すことである。


◆指揮者にとって大事なこと。

 

 岩城宏之さんが30年も前に書いたが、ずっと絶版で、最近復刊された、

 岩城音楽教室は専門的なことばなど、全く使われていないが、

 音楽の本質に関わることが沢山述べられていて、大変面白い本である。



 この中で、岩城さんがかつてカラヤンに指揮のレッスンを受けたとき、

 カラヤンが「君は、もの凄く表現しているが、君が振る(注:指揮する)と、

 ときどき、オーケストラから汚い音が出る。力を抜きなさい。」

 さらに、「オーケストラを『ドライブ』するのではなく『キャリー』(carry)するのだ。」と言われた、とある。



 つまり、指揮者はオーケストラに命ずるのではなく、やる気を引き出させて、

 しかも気が付くと指揮者の欲する音楽になっている、というのが理想的な形なのだということで、

 これはいろいろなところで、色々な人が述べている。

 カラヤンは自分でジェット機を操縦したが、初めて自分で飛ばすとき、

 教官から「貴方にとって一番大切なのは、飛行機が飛ぼうとするのをじゃましないことだ」と云われたという。

 私は乗馬の練習に行ったことはないが、乗馬を教わると、同じようなことを云われるらしい。



 オーケストラを馬になぞらえるのは失礼だが、飛行機の操縦に関しては、

 ベルリンフィルのコンサートマスター、安永徹さんがある対談で(安永さんは飛行機を操縦するわけではないが)、

 「それは、核心をついていますね。神髄ですね」と大いに同意していた。

 云うのは簡単だが、なかなかそういう境地にたどり着ける指揮者はいない。

 ヤンソンス氏は多分、その境地に達しているのであろう。

 私のごとき凡人には、「だろう」としか云えない。

 プロの音楽家や、専門的な訓練を受けた方、オーケストラで弾いておられる方でなければ、本当には分からない筈だ。



 但し、素人目にもわかることがあった。ヤンソンス氏は見栄を張らない真面目な人だと言うことだ。

 全部、スコア(総譜=オーケストラ全てのパートが書き込まれた楽譜。各楽器の奏者の譜面台にはパート譜、

 つまり自分のパートだけをスコアから抽出した楽譜が置いてあるのだ)を見ていたでしょう?

 ニューイヤーコンサートというと、大抵暗譜で振るものだが、実は音楽にとって暗譜かどうかはさほど重要ではない。



 そもそも、昔の大指揮者・トスカニーニという人が非常な近視で、

 譜面を置いたとしても、3センチぐらいまで顔を近づけないと見えず、

 それでは、ステージ上で不便だし、あまりにかっこ悪いので、やむを得ず暗譜するようになり、

 それがカッコいいというので、次第に世界中の指揮者が暗譜をするようになったのだ。

 暗譜は、音楽演奏上の決まりでも何でもない。

 むしろ、暗譜に費やす時間を、音楽の解釈に時間をかけるべきだと考える人は、今でも楽譜を見ながら指揮をする。



 それにしても、ヤンソンス氏は、今まで何百回も振ったに違いない「フィガロの結婚」序曲

(今年はモーツァルト(1756〜1791)の生誕250年なので、ニューイヤーコンサートでも「フィガロの結婚」序曲

 が演奏されたのだろうが、これは大変珍しい)まで、忠実にスコアを見て、ページをめくりながら演奏していた。

 オペラを演るときならともかく、ステージ上でベテラン指揮者が振る光景としては、非常に稀である。

 しかし、その「フィガロ」の演奏が終わるやいなや、ブラボーが飛んだ。私も全く同じ気持ちだった。


◆音楽のすばらしさを思い出させてくれた。

 ヤンソンス氏とウィーンフィルの演奏は、エネルギーと躍動感に満ちあふれ、

 一方、優雅な場面ではあくまでも美しく、要するに「これぞ、音楽のすばらしさだ」と叫びたくなる、「血湧き肉躍る」演奏だった。

 私はこれまでに、ニューイヤーコンサートをテレビを通じて、或いはCDで、何十回聴いたか分からない。

 毎年聴いていて、もう飽きたと思っていたような曲で、しかも、無類に明るく楽しい音楽なのだが、

 「ああ。これこそ音楽だ。私が30年憧れ続けている音楽だ。」という気持ちが身体じゅうを貫いた。

 知らぬ間にボロボロ泣いてしまった。

 書きたいことはいくらでもあるが、きりがないので、ひとまず、筆を置くことにする。


2005年01月03日(月) 「アジア南部で感染症発生のおそれ」 サマワよりも津波被災地に「給水」してくれ。
2004年01月03日(土) 「謙譲の美徳」
2003年01月03日(金) 「アメリカを査察する計画」に登録した。

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