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2005年04月02日(土) |
<ローマ法王>死去、84歳 激動の国際政治に深く関与 命がけの功績 |
◆<ローマ法王>死去、84歳 激動の国際政治に深く関与
【ローマ海保真人】全世界10億7000万人以上のカトリック教会信者の頂点に立つローマ法王ヨハネ・パウロ2世(本名カロル・ボイチワ)が2日午後9時37分(日本時間3日午前4時37分)、ローマ法王庁(バチカン)で死去した。84歳だった。後任の新法王は「コンクラーベ」と呼ばれる、枢機卿会の選挙で選出される。
法王は2月1日、インフルエンザによる急性喉頭(こうとう)炎で入院後、体調が悪化し、入退院を繰り返していた。法王庁によると、法王は今月1日、心臓機能が大幅に低下、「極めて深刻」な状態に陥り、臨終間際のカトリック信者のための秘跡の儀式を受けていた。
ポーランド人のヨハネ・パウロ2世は78年10月、急逝したヨハネ・パウロ1世の後を継いで264代の法王に就任。イタリア人以外では456年ぶり、スラブ系では初の法王となった。1980年代には共産主義体制下の祖国における反体制自主管理労組「連帯」運動を支持し、旧ソ連・東欧圏崩壊につながる国際政治の激動に深くかかわった。キリスト生誕2000年を祝う「大聖年」を主宰し、分裂したキリスト教会の和解や異宗教との対話に力を入れていた。
法王は81年5月には、バチカンのサンピエトロ広場でトルコ人の男に狙撃され、重傷を負ったが、4日後に病床で「犯人(の罪)を許す」との声明を発表した。
在位年数がはっきりしない初代ペテロを除けば歴代2位となる26年間余の在位中、精力的に世界中を旅し、日本(81年)を含む130以上の国・地域を訪問、史上例のない「行動する法王」像を打ち立てた。(毎日新聞) - 4月3日6時18分更新
◆コメント:「ローマ・カトリック大司教」の日本人の想像を超えた影響力の大きさ。
ヨハネ・パウロ2世が亡くなくなりました。
宗教的信仰を持たない私には、正直言って、世界中のカトリック信者に与えたショックの大きさが、感覚的に分からない。ピンとこないのです。多くの日本人も同様ではないでしょうか?
しかし、バチカンで法王の死を嘆き悲しむ人々の様子を見ると、改めて、世界的規模で見たときの、影響の大きさ、存在の大きさが分かります。
これは、北朝鮮で、今の金正日のオヤジの金日成が死んだときに北朝鮮国民が大げさに泣き叫んでいたのと違うからね。北朝鮮も悲しくなかったわけではないだろうが、強制された「信仰」だからね。泣かないで平気な顔をしていたら、強制収容所に入れられるかもしれない。
これに対してローマ法王の死を嘆き悲しんでいるカトリック信者は、誰にも信仰を強制されたわけではないし、泣くことを強制されたわけではないのに、あれほどまでに悲嘆に暮れている。次元が違う。
何せ、教義上、ローマ教皇はキリストの弟子の一人ペテロの後継者ですからね。ペテロが亡くなったのがローマだから、ローマにカトリックの総本山が出来たわけです。
話がそれるけれども、観光旅行でローマを訪れて、バチカンに行った人は、多いでしょう。 あの、サン・ピエトロ大聖堂、上ってみましたか?
大変ですよね。あのドーム状の部分の内側に階段があるのだが、これが狭くて、人一人しか通れず、天上があのドームそのままなので、やや斜めに身体を傾けて上らなくてはならない。しかも、階段は結構急な角度なので、しんどい。
しかし、狭くて、自分が立ち止まると後ろが渋滞してしまうので、登り続けなければ行けない。
私は、当時、子供がまだ幼かったので、途中から抱き上げてやらねばならず、実に辛かったのを思い出します。
とにかく、あの大聖堂の下にペテロのご遺体があるわけですよ。
話を戻しますが、、今、世界で他にこんな存在は無いでしょう。どこの国の政治家が死のうが、元首が死のうが、他国の人はおろか、自国民だってシレっとしているはずです。
◆就任したときのことを良く覚えている。
ヨハネ・パウロ2世は1世が急死した後、急に選ばれたのですよ。
前法王は、ヨハネ・パウロ1世だが、就任後、わずか33日で亡くなってしまった。
そうだ。当時高校生だった私は、「え?もう死んじゃったの?」という単純な驚きと、次の法王(正式には、ローマ・カトリック大司教です)を選出する枢機卿の会議(?)を日本語で表記すると「コンクラーベ」といい、自ずと「根比べ」を連想させるのが、可笑しかった、という程度の認識で、子供だった。
◆「赦す」ということと、「平和を希求する」ということを体現した人物。
引用した記事にもあるが、ヨハネ・パウロ2世は、就任後3年ほどたって、狙撃されたのです。
「ローマ法王が撃たれた」というのは、当時世界的超緊急大ニュースとして世界中にあっという間に伝わったのも覚えている。
このとき、命は取り留めたのだが、私はNewsweekで読んで覚えているが、お尻に弾丸が命中して、人工肛門の使用を余儀なくされた。 だから、身体はこれ以来、ずっと不便で大変だったはずです。
それはともかく、このとき、法王は「犯人を赦す」と言ったのですよ。これが大事ですよ。
キリスト教の特徴は、聖書の言葉は神の言葉なのだ、と信じるところで、これが、他の宗教と違うところです。他は神の啓示を受けた教祖の言葉を教典としています。新約聖書はキリストが話したことを綴った本と思われているけれど、実際にはそうなんでしょうけど、これは、イコール神の言葉なのだ、といいきってしまうのが、キリスト教の特徴です。
そして、新約聖書の初めの方、マタイによる福音書第5章の有名な一節は、誰でも知っている。
「されど、我、汝らに告ぐ。汝らの仇を愛し、汝らを責むる者の為に祈れ、と。」
私はいつも思うだが、聖書の言葉でこれ以上のものはないでしょう。
小難しい神学論争なんて、意味がない。
だから、わたしは、欧米人は信仰が篤いというが、ちっとも篤くないと思う。
この一節だけ知っていて、本当に信仰しているのならば、戦争なんかこの世からとっくに無くなっているはずです。
聖書には、異教徒は殺して良いなんて書いてない。
「汝の敵を赦し、汝らを責むる者のために祈っ」ていたら、絶対、戦争なんて出来ないですね。
ヨハネ・パウロ2世は、自分が狙撃されて、一生治らない傷を負わされながらも、犯人を赦すと言って範を垂れたのでしょう。
◆いろいろな歴史的功績がありますね。
普段は、ローマ教皇が何をしているかなどと、考えないけれども、ヨハネ・パウロ2世はいろいろと世界の宥和に努力していますね。
キリスト教はカトリックが一番信者が多いけれども、他に、ご存じの通りプロテスタントがいて、ギリシャから東、つまり地中海からロシアでのキリスト教は「東方正教会」というのですね。信者数はカトリック11億、プロテスタント5億、東方正教会3億(そんなにいるのですね)となります。
この、宗教上の解釈で喧嘩して分裂する、というところが、すでに「神の意志」に反していると思うのですが、そう思わないところが人間のバカなところですね。
バカ、と思ったかどうかは分からないけれども、ヨハネ・パウロ2世は、2001年には使徒パウロの布教の足跡をたどる巡礼訪問として、ギリシャ、シリア、マルタの3カ国を歴訪したのです。
ローマ教皇がギリシャ正教会の縄張りであるギリシャに行って、ギリシャ正教会の大主教と会談し、1204年に起きた、カトリック十字軍によるコンスタンティノープル(当時の東方正教会の総本山)占領・略奪事件を謝罪して、1000年近く対立が続いている東西教会(東方正教会とカトリック)の和解の必要性を訴えました。画期的です。
このあと、シリアへ赴き、ダマスカスにある世界最古のイスラム・モスクを訪れたのです。ローマ教皇でイスラム教のモスクで祈りを捧げたのは、ヨハネ・パウロ2世が史上初めてです。これもすごいことです。
2001年6月にはウクライナを訪問して、ロシア正教会に東西分裂の修復を訴えました。ロシアでは少数派となるカトリック信者は600万人程度で、ウクライナ西部に集中しているからですが、旧ソ連領にローマ教皇が入ったのも初めてのことです。
◆命がけで大司教の仕事をした人だったということです。
狙撃されたのは就任直後(3年目)の一回だけだったけれども、異教徒の地をカトリックの、言い方は悪いけれども、「大親分」が訪れるというのは、生命を狙われる危険が有るわけです。
それは、勿論護衛は付くけれども、アメリカ合衆国大統領のシークレットサービスみたいなのはいないでしょう。
殺されるのを覚悟で、これらの地を訪れているわけです。
本来なら、ローマ教皇ともなれば、滅多なことでは人前に姿を現さないで、当たり障りのないことを言って、部下に声明を代理で発表させて、自分は、じっとしていてもいいのに、あえて、高齢・病弱の身にもかかわらず、精力的に活動して、イラク戦争の時などは自らはっきり「反対だ」と述べたりしたのは、立派です。
私は信仰はないけど、ヨハネ・パウロ2世の名と功績は、人類が存続する間は、歴史から消えることは無いでしょう。
2004年04月02日(金) 「個人情報保護で事業者が取り組む基本方針、閣議決定」←こんなことを国が決めても、客が騒がないと、企業は動かないよ。