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2005年03月01日(火) |
疑似的な人生体験としての文学作品。 |
◆小説は人生の疑似体験になるのです。
私は、単に法学部を卒業しただけであり、修士も博士でもないし、司法試験を受けた訳でもないから、偉そうなことを言えた義理ではないが、法学部を出て良かったなと思うことはしばしば、ある。
◆はじめての「法学概論」の講義で「文学を読め」と云われた。
最初、教養課程で、「法学概論」の講義に出ると、無論「法律とはなにか」「法律の種類」や、法律特有のテクニカルタームを習うわけだが、正直に言うと、それらの細部は忘れてしまった。
しかし、最初の講義で、担当教授が、「法律が扱うのは人間が起こす犯罪や、もめ事、その他諸々である。だから、六法全書だけ丸暗記しても何もならない。世の中には実にいろいろな人生を経験してきた人がいる、ということを理解できなければ、良い法律家にはなれない。だから、諸君、法律を勉強するならば、文学も必ず読みなさい」といわれたのを鮮明に記憶している。
これこそ、最も適切なアドヴァイスであった。
◆人間、いくら頭が良くても分からないことが、沢山ある。
法学部の学生なんてものは、大抵はサラリーマンになり、その中のかなりの人間は、モノやサービスを買ってください、と頼んで回る「営業」という職に就く。
「営業」とは一言で言えば、ただひたすら他人に頭を下げなければならない仕事、である。
この仕事の切なさを経験するのは、実に辛いことだが、同時にいやでも様々な人生に出会う。
営業だけではなく、このような立場で仕事をしている人が、世の中にはごまんといるのだ。
◆他人に頭を下げられるばかりの職業もある。
対照的に、医師・弁護士などは、下手をすると一生他人に頭を下げられるばかりの仕事である。
理由は簡単で、これらの人々は相手の「弱み」を一方的に握るからである。
患者や、クライアントは医師・弁護士の人格を尊敬して頭を下げているのではない。
命や、財産・権利を守ってもらうタメに、嫌な野郎だと思っていても、仕方なく頭を下げるのである。
本当に聡明な人物は、そこまで見通して、常に自戒しているものだが、並の秀才は分からない。
分かっているといいたいだろうが、分かっていない。
このたぐいの専門的職業に就く人は、一時期は、死にものぐるいで、それぞれの分野における専門知識をたたき込む、というプロセスを経なければならない。
それだけ、並はずれた努力をしていることは承知している。
しかし、 願わくば、その後、本来の仕事に就く前に、「ただひたすら、他人に頭を下げなければならない商売」を短期間でもやってみると、良い経験になる(具体的な効果の現れ方としては、「親切」「謙虚」になる、ことなどが挙げられる。ならない奴は、あまり聡明とは言えない。)はずだ。
だが、残念ながら、現実には無理だろう。
そこで、疑似体験として、何でも良い(古典でなくても現代のミステリーでも、本当に何でも良いのだ)から、文学作品に接することを薦めたい。決して無駄にならないはずである。
読み手がバカでなければね。
2004年03月01日(月) 「<ハイチ>多国籍軍派遣、国連安保理が決議 」 ハイチ情勢概論
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