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2004年09月03日(金) |
「私見では、我々にとって最も不愉快な人種は、相手を見境なく分類して、レッテルを貼る人達である。」(B・ラッセル、英哲学者) |
◆引用:ラッセル:[人間を分類することについて]
私見では、我々にとって最も不愉快な人種は、相手を見境なく分類して、レッテルを貼る人達である。この不幸な習性の持ち主は、自分が相手にピッタシと思われる付箋を貼り付けた時に、その対象たる人間について完全な知識が得られたと空想する。・・・。
しかし、この種の分類をする側と分類される当人の感情の間には、根本的対立がある。自分が特定の一つの形容詞で要約された人は、誰でも自分の人格がそれほど単純化されたことの不快感をおのずと経験する。
当人は神秘的で窺いがたい人格的深遠さを持つのに、自分以外は皆簡単に理解されうるなどという考えは、統計上ほとんど可能性はないにもかかわらず、たいていの人がもっている自己の優越性の信念の一部をなしている。
他の全ての独善的見解の例に漏れず、それは世界をあるがままの興味深いものとして見ない。他人を理解することは容易ではないが、それの困難さを理解しえぬ人間によってこれが達成されえぬことだけは確かである。・・・。
◆コメント:バートランド・ラッセルは懐かしいのですよ。
ラッセルは、比較的最近まで存命であった英国の哲学者で、世界的な知性と言っても過言ではなく、アインシュタインと親交があり、共に平和運動に邁進したことで知られる。
上に引用した文章は、私が付け焼き刃で調べたものではない。
私の学校には、日本におけるラッセル研究の第1人者で、ラッセルの著作を数多く翻訳したことでも知られる、故・市井三郎教授がおられて、市井先生から直接ラッセル哲学の講義を受けたのである。
私は、たびたび、市井先生の講義で、非常な感銘を受けたので、20年以上を経ても、まだ手元に本があるのだ。
「碩学」とは、このラッセル博士のように、私たちが日頃言いたくても、なかなか、簡潔明瞭に言語で表現出来ないことを、快刀乱麻を断つがごとく、これ以上適切ではあり得ないほど、見事に述べることが出来る人のことをいうのであろう。
私が言いたいことは、もう、すべて引用した文章に含まれている。
昨日、物理的な面での「デジタル志向」について書いた。
その後、思いついたのは、昨今の人間の思考も、「デジタル形式」になっているという一般的傾向である。
デジタルとはすなわち0か1ということである。つまり、「デジタル思考」とは何でも、物事を「白か黒」、「全か無」、の2つに1つに決めつけてしまうという心的態度に他ならない。
ところが、ラッセルが言っているように、また、我々の経験則からも明らかなとおり、人間はそれほど単純な存在ではない。
私が学生の頃横溝正史の小説が、次々に市川昆監督により映画化された。
そこで、毎回、名脇役として登場するのが、加藤武さんという役者さんの扮する刑事である。
全然考えないで、すぐに大げさな身振りを交えて、「よし、(真犯人が)分かった!」と叫ぶのだが、全然分かっていないところが可笑しかった。演出の妙である。
その警部が、「悪魔の手毬歌」だったか、「八ッ墓村」で、言ったセリフが、また、実に傑作だった。
「いいか?人間には2種類しかいない。『悪い奴』か『いい奴』だ」
確信に満ちて言う、加藤氏の演技がまた絶妙で、私は全ての横溝映画の中で、このセリフが一番好きだ。
勿論、コミカルな演出が好きなのである。
映画ならば、冗談で済むけれども、昨今の世の中の人々の思考パターンはこれが冗談でなく、デジタル方式=二分法になっているように思われる。
もっとも、ラッセルが上の文章を書いたのは数十年前だから、何時の時代にも、似たような輩(やから)はいたのだろう。
私も、というと、口はばったいが、ラッセル氏と同様に、そういう人には違和感を覚えざるを得ない。
この世の中に「完全な善人」もいなければ、「完全な悪人」も多分いないだろう。
同様に、「完全な正常な人間」と「完全に異常な人間」しかこの世にはいない、と本気で考える人がいるとすれば、それこそ、失礼ながら、その本人が、かなり異常なのではないだろうか(完全に、とは言わない)。
人間は黒か白かではなく、「連続的に濃度が変化するグレー」の部分のどこかにいる、というのが、多分、真理なのであろう。
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