|
|
■■■
■■
■ 文芸的な、あまりに文芸的な
芥川龍之介『文芸的な、あまりに文芸的な』読了。いや我ながらブンガクセーネンぶりにびっくりする。ちょっと前までなら鼻で笑っていただろう。
象に向かって、鼻がちと長すぎるぞと注意するなんて気の利いたことができればなあと思う。素晴らしい造形物を前にして、ねえゾウさん、君は灰色なの? 紫色なの? じゃ質問にもならない。 おのれの意見もない者が、他人の意見を読んでも害になるばかり。『坂の上の雲』の一巻で唯一うならされた箇所だが(しかも推測好きの司馬遼太郎がいっそうぼんやりと推測した秋山好古の気持ちに過ぎないが)、まるで僕が諭されたように、つっと下を向いて考え込んでしまった。 意見ばかりがあふれて、しかもどいつもこいつも雁首揃えて他人の意見を振り回す滑稽を見飽きたけれども、だからといって僕は自分で考える習慣を身に着けただろうか。元気のいいあの人もこの人も「民主主義教育」の哀れな犠牲なのだろうけれど、僕は何か違うところにたどり着いたといえるのだろうか。
三島由紀夫はただ単に「完成したときに自殺する機会を逸した」間の悪い天才だったような気がした。その意味で未完だったのかもしれないし、はじめからそれだけの器だったかもしれない。川端康成という自然現象しかり。いや、川端を「同じ系列」と見なす僕の感覚のほうに敏感であるべきなのかもしれない。思い上がっている僕と同じ象限にいると感じる人たちの系列について。
この数十年で日本には社会学がはびこり、馬鹿ばかりがしたり顔できる世の中になりました。うんこ。
2003年01月09日(木)
|
|
|