ゆれるゆれる
てんのー



 大人について、野蛮についての平成15年1月の感想

 ローカルの英字紙をたまに読んでも、今ひとつぴんと来ないので何週遅れかで日本の新聞を読むのが常になっている。
 英語力の問題をさておいても、あまりにぱっとしないのは、おそらくマレーシアという国や社会の有りようについて、僕が無関心であるせいだろう。
 自分では関心があると思っているのだが、印象や感想というものはどうにもならない。状況証拠は僕が無関心だとあからさまに語っている。


 難しく書き連ねる技術だけで飯を食ってきた人たちが、何を勘違いしたのか、あるいは何を思い上がったのか、平易な表現なるものに心を砕くようになった結果、読書感想文の市長賞受賞作みたいな悪文が毎日、彼らの一番言いたい意見として世の中に出回るようになった。朝日新聞の社説のことだ。

 あれだけの巨大組織が毎日よくもまあ「俺たちの意見」をひとつの文章にまとめられるものだ、と今まで半ば感心して眺めていたがあたりまえのことである。意見なんてあの欄のどこにもないのだから。

 朝日も下手を打ったもので、やはり今までどおり、漢字ばかり多くてつかみ所のない小悪文を垂れ流しておいたほうがよかったようだ。
 思考停止が常態化すると傍からは思慮深く映るとでも深読みしたのだろうか。
 あいにく読むほうはこの不景気、貧乏暇なしで斜め読みだからしようがない。

 なんにしても、生徒会長の選挙演説みたいな社説を読むのは時間の無駄だから、朝日新聞の具体的な主張は、読者の実名を借りての「声」欄に見るのが一番てっとりばやい。

 じっさい、決して無駄ではないのだ。僕たちは何が本質か、なんてかわいらしい論争をしたいわけではない。そこにあるのは日本という社会を形而下で実際に動かしている、一番力のある文字なんだから。


 大人とは自分のことしか考えない人だ。

 自分の利害で常に決断を下せるようになれば大人だ。もちろん文字通りの意味だ。

 僕が決め付ける定義ではなく、こう考えれば日本語の「おとな」という語がよく納得できる。

 だから「あなたのためを思って言うけど」とか「困るのは自分なんだからね」なんて、絶対に大人しか言わない。そう言えば子供は心を入れ替えると本気で信じているからだ。

「たとえ自分が困ろうが、そのときはそのときで、大事なのは今の感情とプライドと、かけがえのない時間なのだ」と、誰しも子供のときに反発した「歴史」に学べる人は少ない。


 雄の飼い猫は去勢される。
 そこにあるのは、猫エイズ蔓延に対処する人道と正義か。出産調整による飼い主の「生命への責任」の姿勢か。ちがう、飼い主が無責任と言われないための予防措置でしかない。

 どちらにしても無責任なのだ、ただし去勢手術によって矛先は、彼らに生殖器をつけて世界に送り込んだ造物主に向けられる。

 造物主がオプションでつけておいた生命の自由にも、矛先は向けられている。飼い主は言う、「もう何年も家族の一員で」。


 野蛮とは知識がないことではなく、知識を消化しない態度のことだ。
 あるがままの世界に生きている限り、知識がない人というのはありえない。まして知識の内容について、進化論的線状グラフ的に説明されるわけもない。近代文明が馬鹿を量産したというのはその意味だ。

 だから野蛮人と野生児は根本的に異なる。Kasper Hauserのような野生児は環境に最高度に適応した知識を消化して、生き抜けるからだ。

 けれど野蛮人はいくら生まれつき清潔ななりをしていても、いくら最先端の携帯情報端末を使いこなしていても、いくら地球環境問題について憂慮していても、野蛮人でしかない。

(僕は偏見から自由になろうとは思わない。もちろん、なれるとも思わないからだが、平等主義、博愛主義を語って飽きない人たちの視線からは自由になりたいと思っている。)


 マレーシアで暮らすうちに感じているのはまさしくこのことだ。
 はじめは、そうは思わなかった。ただ単純に、日本がかつて疑いもなく驀進した「豊かさ」への道を嬉々として歩むこの社会について、「今おれたちは、かなりの確かさをもって、君たちが目指すゴールはそこじゃないんじゃないかと意見できるよ」と、先輩風を吹かすように言ってやりたい程度のものだった。


 抜きがたい未開性・・・。繰り返して言うが僕は偏見、差別主義者と言われることを恐れない。

 そんなあいまいなことを言わず、あいつは偏見と差別に満ち満ちていると言ってほしい。これでも歴史学を専攻したのでね。そう言われるのは光栄と言えなくもない。

 抜きがたい未開。彼らを覆っているatmosphereについての、偽らざる印象だ。

 別に、TPOを問わず奇声を上げるからとか、公私の区別がどうだとか、デリカシーとか、個々の社会的行動についてありがちな比較文化論を繰り広げるわけではない(もちろん非常に驚かされるのだが)。

 ただ、ここには文化が、何一つない。彼らは――さすがにすこしためらうが――Windowsを操る野蛮人。エレベータがあるから使う。携帯電話というものが売っているから買う。使う。物質的豊かさに(特に日本人には)巧妙に隠されているが、精神的豊かさはゼロといっていい。

 目先の利益に顔色が変わる彼ら、哲学を持たない、必要としない彼ら。必要なものは技術や商品と同様、香港やニューヨーク、ロンドンから空路運び込めば万事OK。ソフトウェアならコピー一発だ。いや、ことによると、哲学だってコピペでいいのかな。


 きっとこれからもこのことについて書くことがあるだろうと思う。


2003年01月22日(水)
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