マキュキュのからくり日記
マキュキュ


 (日記) 重兼芳子さんのこと (追記)


重兼芳子さんの3冊目の本をさっき読み終えた。
「さよならを言う前に」と言う本で、これは彼女の講演録を書籍にしたものだ。

重兼さんの事を、「彼女」などと書くのは大変おこがましいのだが、生前彼女は先生とか重兼女史とかの堅苦しい呼ばれ方を大変嫌い、おばちゃんとか、お母ちゃんとかと呼ばれる事をとても好んだ人だというので、あえて彼女という言葉を使わせていただいている。
ほんとうなら亡き母と同じ年なのでアタシも「重兼ママ」とか、「芳子カアチャン」と呼びたいくらいだ。

彼女を知れば知るほど、アタシの感覚や経験や思いと似通った部分があり、あぁ・・・この人が今でも生きていたら、どんなに話がしたかったことだろうか・・・とシミジミ思う。
多分、アタシは蹴られようが引っこ抜かれようが、土下座をしてでも、文章と人生との両面で、弟子入りをさせてもらっていたと思う。

今アタシは人生最大で最後の崖っ淵に立ち(今に始まって事ではないのだが)アタシが心の底から求めて止まないものがある。
それは、アタシが魂で共感でき、心から尊敬でき、教えに素直に従えるホンモノの師匠みたいな存在だ。
例えば、中村天風とか、フジコヘミングもアタシの理想の師なのだが、天風先生はもうとうの昔にこの世にアバヨをしてしまっている人だし、フジコヘミングはご健在であるし、魂で会いたいと願えばあってくれそうな人だという気持ちもあるのだが、あまりに多忙そうで遠い雲の上の存在だし、彼女を探し当てるだけの経済余裕も無い。

もしも重兼さんが生きていて、彼女がアタシの話を聴いてくれたなら、きっとこんな事を言ってくれそうな気がする。

「わたしは生まれた家も結婚した後も、経済的には不自由をしたことがあまりなかったけれど、あなたは子供の頃からずっとずっと苦しいおもいを散々してきたのね・・・・・・。その分あなたはきっといずれ、か弱い人たちの魂を揺さぶるような、素晴らしいものが書けるとわたしは思うわ。」
そう言ってきっとアタシを抱きしめ、身体をゆさぶってくれるだろう。

翻訳家である重兼さんの娘さん(裕子さん)が書かれた、後書き?(お母様の性分)で、たった数ページの中でこれほど多くの共感できる部分や似ているところを見つけた。
アタシが深く共感する部分や、同じ経験や、アタシとよく似ている部分を抜粋してみた。
以下は重兼裕子さんが書いた後書きからの抜粋。


母は身体に軽い障害があり、器用でもなく、当時の理想とする良妻になるための条件からは遠くはずれていた。また、学校と言う枠内での評価もあまり高くなかったが、不思議に人をひきつける何かをもっていた。
そして誰にも出来ない果敢(かかん)な決断力をそなえていた。
―中略― この、後には引けない状況をつくって自分を追い込んでいくやり方は、二度目の手術を受けようと決意する人生の最後まで変わらない母の姿勢だった。



母は激動の昭和の夜明けとともに生まれ、暗い少女時代をすごしたため、少し卑屈で素直でない面があった。時代の動揺をひと一倍するどく感じ、その影響をモロに受けたのだろう。人の裏の真意をさぐったり、世間と違う見解を模索したり、それは作家としては必要な資質だったのかも知れないが、やっかいな魂を身の内に抱えていたともいえるだろう。
ー中略ー
母は「生きる」と言う行為そのものが下手で、どこか常に無理をしている感じがあった。


娘時代も嫁いでからも、いつも何らかの批判を浴びてきた母は、家族が出来て初めて自分の居場所を見つけた。夫や子供は自分をそのまま受け入れてくれる。(アタシの場合、子供は違ったようだ)そこには何の条件付けもない。母は常に条件でひとを見ない事を信条としてきた。



母は世間の常識より、自分の勘や感覚が教えるものを見逃すまいとする姿勢が強かった―中略―その母の感性は、たとえ親子のあいだでも、どうにもならないのである。


母はもう一つ、普通の人とは違うアンテナの感度を持っていた。
「管理される」ということにたいして極端な拒否反応をしめすのだ。そのため病院食を食べる事に非常な困難を伴った。(アタシも病院食を断っていた)―中略ーあのお盆にずらりと並んだ給食様式で食事が与えられること、そのものが既に受け付けられない。―中略―一般常識からすればわがまま以外のなにものでもない。「何を贅沢な」と一言のもとにはね付けられ、一笑にふされるのがおちである。
―中略―けれども母とて、自分で選んで繊細に生まれついたのではない。
「ご飯を食べなければ元気になれない。みんな気をつかってわたしを励まし心配してくれている。わがままが言えるような立場ではない」
理屈は全て頭の中では解っていてる。ところが体が言う事を聞かない。「あのプラスティックのにおいがダメ。かいだとたん吐きそうになる」


母はこの、本当の自由をこよなく愛することこそが母の子供の頃からの本質で、実は今までずっと、無理を重ねながら生きてきたのではないかと感じた。生きるため自分の本質を騙し騙しし、なんとかこの年までまわりの状況に合わせながら日を送ってきたのだ。それが身体も衰弱し、人生の最後の段階になって、とうとう理性では抑えられなくなったのである。


母の厄介なのは通常、まわりのひとが病人に快癒を願うとき、「がんばって」と声をかけるとき、一見そこには何の不都合もないように見えることだ。しかしそれは相手の性格、病状によっては、気づかずに心理的な圧迫を加えていることがある。しかしそれは善意であるだけに、よけいに始末が悪い。病人はまわりが自分の事を心配してくれる気持ちがわかるだけに、「うっとうしい」とも言えずに我慢をしてしまう事も有るのではないだろうか。それでは病人は自分の病気のほかに、周りの人の思いまで背負わなければならなくなるではないか。


母は、あなたほど幸せな理想的な老後はないと、ひとによく言われていたが、それは母の抱えていた暗闇が周りの人には見えにくかったからであり、本当に普通の幸せだけですむのであれば、作家と言う自分の内面をえぐるような職業をあえて選ぶはずがない。
またうまく世間を渡れる性分であれば、もっと楽な道をたどっていただろう。
母は不都合な事をだれか別の人や社会のせいにすることが出来ず、みんな自分の身に受けてしまうたちだった。


しかし世の中は不思議なもので、そのようなぎこちない生き方をしているからこそ、見えてくるものや手に入るものがある。母のこころの活動はまわりには理解しにくいものだった。決められた時間にすばやく答えを出す学校のテストや、失敗を許されない入学試験はもっとも不得手な部類に入る。反面、自分の中の体内リズムでゆっくりと物事を考え、本の世界に没頭し、想像や音楽の庭で自由に遊ぶことは、ひとより数倍得意であった。
ただそれは社会の中で生き抜くとき、すぐに役立つ資質ではない。
けれどもその目に見えない自分の世界をいつまでも捨てる事ができなかったために、それが最終的には母の独自な世界をかたちづくり、仕事をすることができたのだ。人生の後半で母が果たした仕事の量と質を考えるとき、こうした条件が一つに重なって、微妙なバランスを保ちながら作用していったとおもう。
それは当事者の意思が関った部分より、人間の知恵を遠く超えた計画のなかに組み込まれていた部分のほうがはるかに大きい。


母は生まれてから数々の喜びと哀しみを味わい、最後にふたたび生まれた時の無垢な状態に戻って亡くなった。


以上。

アタシもこうありたい・・・・・・。


2010年06月09日(水)

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