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■ エッセイ集【私をそそる者達】より〜 母のテレフォンカード【前編】
母のテレフォンカード(前編)
今、松本は、まさに桜が満開である。
ポカポカ陽気に恵まれた今日、私は、家の近所を散歩中、チョイと拝借して来た桜の小枝を、仏壇に供え、「仏様達、放っとけ様にしっぱなしで、ごめんね?」と、心の中で詫びつつ、手を合わせたのだった。
フ、と思い、私は引き出しに手を掛ける。
仏壇の引き出しの中には、多分、今後も、決して使われる事は無いだろう・・・、と思われる、一枚のテレフォンカードが入っているのだ。
そのカードには、「昌子ちゃんを忘れないでね・・・・・・」そんな台詞と共に、コーヒーカップを前に、セブンスターを燻らせながら微笑んでる、母の遺影が写っている。
母の追悼パーティーの時、皆様にお配りした物だ。
コーヒーとタバコが、大好きだった母の、(私は、プラス、飲んベエだが)最も、母らしい、遺影である。
もう、十二年か・・・、早いもんだなぁ―。
私は、そのカードを手に取ると、しばし、母との想い出に戯れた。
私の母は、若い頃、女優をしていた。
私の記憶では確か、私が幼稚園にあがる頃まで、テレビに出ていたような気がする。と言っても、女優とは名ばかりで、一本の準レギュラー(NHKドラマ)の他には、これと言って仕事もなく、副業で、銀座で雇われマダムをしながら、一家五人(祖母・曾祖母・私・父・母)の生活を支えていたのだ。
母は、美人で、、勝ち気で、口うるさく、それでも、結構、チャランポランで、跳んでるところも有った。
やはり、全く売れない、喜劇俳優だった父は、ストリップ劇場の前座コントや、怪しげな小劇場で芝居をする傍ら、得意な料理をいかし、飲食関係のバイトもしていた。
父は、寂しがりやで、飲んべぇで、とてもユーモラスな人間味溢れた人だった。しかし、ギャラを貰っては、家には入れず、ほとんど仲間達に奢りまくってしまうような、そんな、バカが付くほどの、お人好しでも有った。
オマケニ、大の女好きと来ているから、母も堪ったものではない。
そんな理由からか、負けん気の強かった母は、ほとほと父に呆れ果て、幼い私を連れて、家を飛び出てしまったのである。
(どうしようも無いけど、憎めない・・・・・・)
そんな父が、私は大好きだったのに・・・。
「どっちについて行くの?」と、残酷な選択を迫られ、大好きだった父と母との間で板ばさみになり、幼心にも、私は随分と、辛い思いをした物だ。
今思えば、母の言い分は最もな話だが(離婚理由について)一時期、父を見限った母を、強く恨んだ事がある。
やがて、母にも愛人が出来、私は何時しか、不本意ながらも、その人を、『お父さん』と呼ばされるようになり、それを理由に反発し、思春期に入った頃、私は、お定まりの、(生真面目で、優しい)不良少女になった。
最も、その『お父さん』と言う人も、中々の良い人で、私も年月がたつに連れ、段々と打ち解けるようにはなった。が、『お父さん』には、本妻が居た為、母は日陰の身のまま、母が亡くなるまでの二十年数年間、二人の関係はずっと続いていたのだ。
サテ、話は前後するが、私が生真面目な不良少女だった頃。母は、東京、中野の、川島商店街と言う場所で、若もの相手のスナック喫茶(住居付き店舗)を経営していた。
母の店は、結構繁盛していて、仕事に追われ、忙しがっている母の目を盗んでは、私は裏口から、コッソリと抜け出しては、華の新宿で、仲間達と遊びまくっていた。
あの頃の新宿は、ヒッピー族やら、フーテン族(区別は、いまだに解らないが)が溢れかえっていて、街中がサイケデリック一色だった。
十六・七から、ゴーゴー喫茶(古っ!)や、深夜喫茶に入り浸っては、踊り狂い、ヒッピー仲間達と、音楽や詩について語り明かしたり、恋をしたり・・・・・・。と、そんな毎日が、楽しくて楽しくて、仕方なかったのだ。
そんな不良娘を、いくら跳んでる母親とはいえども、何時までも放たらかして置く訳も無く、辛辣な母は、私に向って、ダラダラと、辛口の説教をし始めたのだ。
「あんた、いい加減にしなさいよ! 女の子の癖に何時まで、そんな自堕落な生き方をしてるつもりなのよ」
「あんた、いい加減にしなさいよ!」は、母の口癖でもある。
反抗期真っ盛りの私は、母と大喧嘩になり、川島商店街のど真ん中で、人目も憚らず、殴り合いになった事も在る。(爆笑)
やがて私は結婚し、理由あって、母を中野に残し、松本に移り住んだのだ。
(―次回に続く―)
※ このエッセイは、今年の4月に書いたものです。
2002年07月21日(日)
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