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■ エッセイ集【私をそそる者達】より~ 母のテレフォンカード(後編)
母のテレフォンカード(Ⅱ)
数年後、中野に一人残してきた母が、気掛かりになり、『お父さん』の許可も得て、母も松本に呼び寄せ、夫と、義母と、(夫も母子家庭に育った為)母との、不自然な四人の生活が始ったのだ。
やがて、共働きで頑張り、松本市の郊外に、家も新築し、全ては順調に運んでいた。
しかし、突然、最大級の不幸が訪れたのだ。
私が身篭ると共に、収入が激減し、私が出産を間近に控えた頃、夫は女性を作り、多額の未返済を残したまま、自分の母親を連れ、その女性と逃げてしまったのだ。
結局、『テッチ(息子)』を産んで間もなく、悲惨な形で離婚をし、折角、建てた家も、手放さざるを得なかった。
母と、テッチを連れ、路頭に迷うわけにも行かず、一先ず、不本意ながらも、産まれたばかりのテッチを乳児院に預け、私と母は、住居を借り直し、それぞれに仕事を見つけ、再出発をしたのである。
私には、家を処分した時の、差額の借金が沢山残ってしまった為、よそで働き、母は母で、伯母からお金を借り、松本に小さなカウンターだけの店を持った。
その店も、東京の店と同様、若い客達で、毎晩盛り上がっていた。
私には厳しくとも、他人には、事の他、話の分かる母は、学生達や、少々毛色の変わった(?)愉快な客達に囲まれ、愛煙していたセブンスターを燻らせながら、何時でもコーヒーを片手に、在る時は、人生相談に乗り、在る時は、カラオケで歌い、在る時は、快活なジョークを飛ばし、楽しそうに店を切り盛りしていた。
私は私で、昼は保険の外交、夜はレストランパブで働き、パブが終ると、母の店も手伝い、一日も早く、テッチを引き取る為、賢明に働いていた。
二年が経ち、ようやくテッチを、乳児院から引き取り、母と、私と、テッチとの新たな生活が始った。
更に数年後、兼ねてからの私の夢でも有った、ちょっと小(こ)洒落(じゃれ)た、二十坪程の『洋風居酒屋』を、私自身で経営出来る事となり、母と、テッチと、私は、やっと現実となった夢に、三人で抱き合って喜んだのであった。
ピアノを置き、ジャズや、シャンソンの小ライブも出来るその店を、私は『ジャニス』(仮名)と名付け、幾人かのアルバイトも使い、順調な好スタートを切ったのだ。
しかし、それもつかの間・・・・・・。
私の店がオープンしてから、僅か一ヵ月後、母は、重い子宮癌に掛かって居たのだ。
病院嫌いだった母を、何とか説得し、病院に連れて行った時は、もう、すでに手遅れ状態だった。
これから、っていう時なのに・・・・・。
やっと、ここまで二人で頑張って来たというのに・・・・・・。
私は、パニックに陥った。
店は開店したばかりで、大忙しだったし、テッチはまだ、小学校に入学したばかり。
身内は全て東京で、誰の手を借りるわけにも行かない。
仕方なく、泊り込みで来てくれるオバサンを雇い、私の留守中、彼女にテッチを見てもらいながら、母に手術を受けさせ、店の切り盛りと、テッチの世話と、食道楽だった母への料理作り等、母の世話と、へとへとになりながらも、何とかこなしていた。
それでも母は、何度か元気を取り戻し、小さな旅行などにも連れて行った。母は、結構楽しみながらも四年にわたる闘病の末、平成三年の二月、多くの親族が見守る中、大学病院の一室で、穏やかにそっと息絶えたのだ。
でも、私に後悔は無い。
なぜならば、母は、亡くなる直前、枯れ枝のような、か細い手で、孫(テッチ)と、私の顔や頭を、交互になでくり回しながら、「アリガトウネ・・・。テッチの事や、店の事で忙しいのに、本当にアンタは、よくやってくれたよね・・・・・・。しょっちゅう喧嘩ばかりして来たけれど、アンタは最期に、ちゃんと私に親孝行してくれたからね? 感謝してるぞ? 後はしっかりテッチの事、めんどうるのよ。ガンバレ、ガンバレ・・・・・・」そう言って、ブイサインを送ってくれた・・・・・・。
在る意味、好き勝手に生き、好き勝手に病気になり、好き勝手に死んでしまった、わがままだった母・・・・・。
大好きな人間達に囲まれ、奔放に生き抜いた母は、贅沢で、洒落た生活は最期まで与えられはしなかったけれど、多分、とても幸せだった気がする。
母はとても、ダンスや歌が上手かった。
母の歌うジャズや、シャンソンや、ポップスは、多くの年齢層の客達を魅了し、松本での母は、一寸した、『アイドルおばちゃん』だった。
若者達に混ざって、サザンオールスターズの、『オー、ミス、ブランニューデイ』を熱唱していた母の姿が、今も鮮明に目に浮かぶ。
母が経営していた店も、私の店も、今はもう、取り壊され、跡形も無い。
懐かしき、良き想い出が残るばかりだ。
あれから、十二年が経ち、孫のテッチも、今年成人式を迎えた。
やはり、私と同じ頃に親(私)に反抗し、今は喧嘩友達のような気楽な存在である。
私も、三年前、母と同じ癌に掛かった。
親子って、不思議。
結局は、何だかんだ言っても、母と同じ運命を辿っているんだなぁ・・・・・・。
つくづく、そう思う。
テッチがまだ幼稚園の頃、テッチと、母と私の三人で、松本城に良く桜を見に行った。
私は缶ビール、母は缶コーヒー、テッチはオレンジジュースで、乾杯をした。
桜が大好きだった母の、一番好きだった季節が今年もやって来たのだ。
この季節になると、とても母が恋しくなる。
サテ・・・、今日あたり、フゥーリィーが帰って来たら、ワインの一本もぶら下げて、松本城に、夜桜見物にでも行こうかなぁ。
母のテレカと、母が好きだったコーヒーも持って、母にも桜を見せてあげよう。
母のテレカで、天国に電話を掛けてみたら、もしかして、母の声が聞けるかも知れない。
そうしたら、きっと母は、こう言うだろう。
「あんた、いい加減にしなさいよ!
いい年こいて、いつまで、そんな自堕落な生き方をしてるつもりなのよ」・・・・・・と。
by マキュキュ
※ このエッセイは今年の4月に書いたものです。
2002年07月22日(月)
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