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■ 傲慢な行為
人間が人間を変える、と言うこと。 なんて素晴らしくなんて傲慢なことなんでしょう。
と、昔から感じていることです。
例えば映画をみて感動して、生き方が変わった。 ある音楽を聴いて、歌詞に共感して、考え方が変わった。 小説やエッセイを読んだら・・・等など。
映画も曲も本も、全て人間が作りだしたものです。 ですから、観衆がそれによって影響を受けるということは、最初に書いた「人間が人間を変える」と言うことになります。
これは基本的に素晴らしいことだと思います。 ただし、上にあげた例は全て「間接的」なんですね。 作り出した人間は、そこに計り知れない意図を含ませたかも知れませんし、ターゲットの構想などもあったかも知れません。 けれど世の中に出てしまう以上、「不特定多数」に対するものだと思うのです。
誰が観るかわからない、聴くか、読むのかわからない。 選べない、ということです。
反して、「直接的」だとどうでしょう。 例をあげるなら、私が彼氏さんを変えようとしていること。
これは私が自分で「望み」、彼「だけ」に働きかけているもので、他の誰にもやっていないことです。 それが間接的であることに比べて、効果があるかと言えば、おそらく全然そんなことはないんですね。 むしろ両者ともにリスクが大きい。
そういうことを考えると、人間が人間を変える・・・なんて傲慢なんだろう、と我ながら思います。 所詮、同じ人間なのですよ。 誰かが誰かを変えるなんて、理不尽で傲慢で、偉そうじゃないですか。
時に正面から向き合い、時に包み込むような気持ちで接し、時に偉ぶって説教たれたりするわけですよ。 対等であるようで対等でなくて、遠くの存在のようでとても近くに居るのです。
おこがましい、と思いませんか。
わざと彼が嫌がることをする時があります。
(コレをやったら、「今」の彼ならどういう反応をするのだろう)
と狙ってやるわけです。 あえて最初から自分に不利な状況を作った上で。 願わくば、以前と同じ反応をしませんように、と勝手なことを望みながら。
(中略)
この、「試す」と言う行為。 あんた何様、って感じだな。とつくづく思います。
たまに彼にも言われるんですが、確かに言われて当然。 私の意図がどうなのかとか、真意はどこにあるかとか、そういうのはまた別。 いくら好きでやってるわけじゃなくたって、やられる方は嫌に決まってるんです。
ちょうど今この日記を書いている直前、とても残念なことがありました。 また仕掛けたのは私なので、自業自得なんですが。
(中略)
私たちはまだ、追ったり追われたりの関係に終止符が打てない。 このままではいつまでも終わらない。
いつまでたっても、二人で手を繋いで前に歩いていくことが出来ない。
(中略)
人間の変化は一進一退だ、ということを実感しています。
変わるためには様々な努力とか勇気が必要で、維持するにもまた同じくらいの苦労が必要なのだろう、と。
(中略)←しすぎ
人間が傲慢になるのは、きっと欲が深いからじゃないかと思います。 傲慢な自分は決して好きじゃありません 自身が、誰かを簡単に変えられるほど殊勝な人間じゃないってことくらい、自覚しているしね。
私は心理療法士でもカウンセラーでもないし、無い袖を振ってるようなもので。 それでも、って思った時に。 傲慢だったり偉ぶったり自分のことを棚に上げながら、体当たりで彼に関わりたい。
そして同時に、確かに貴方のことを想っているということも伝えたい。
あぁなんて強欲なんだろー。 誰も誰しも、いつだって何だって最終的には全て「自分のため」に行き着いてしまう。
人間の煩悩は、死ぬまで尽きない。
※中略しまくりでスミマセン。 書いて2,3日した後、アップ時に読み返したらあんまりダークな内容だったので。
2005年03月19日(土)
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