 |
 |
■■■
■■
■ 法事雑感
実家で法事がありました。 祖父(父の父)の五十回忌法要です。五十年ともなれば、これはおめでたい行事となります。 しかし親の五十回忌を執り行う子(とは、父ですが)の気持とはどのようなものであろうか。いろいろな感情を殺して、もしかしたら、押し殺すという自覚さえもいつの間にか消して生きてこなくてはならなかったかも知れない。まして昔の田舎の話。 たかだか、とここでは敢えて言おう、還暦過ぎた程の年齢で五十回忌を迎えた人を見て、写真でしか知らない亡き人のことではなく、してもらったことよりもしてあげる(やる)ことの方が多い人生について考えました。
下の弟は仕事が休めず欠席でしたが、上の弟は一家で来ていました。 甥っ子は水ぼうそうに罹っていたとのことで、短いズボンからのぞく足にぽつぽつとあるのがちょっと痛々しい。でももうかさぶたになっています。 読経が始まる前にお出ししたお茶は、ばたばたする中で上の弟が入れてくれたものでした。 「(お茶の葉は)どれくらい入れたらいいかな」と言ってはいたものの、基本的にかなりラフな感じで、もうちょっと気にしてもいいのではというくらいに淡々とした入れ方でした。でも出す時に試しに飲んでみたらとても美味しく入っていました。「いつもやかんでざーっと入れているだけ」と弟は言っていたけれど。 すごい美味しかったよ、と素直に思って言えるようになっています。
長い読経は子供にとってはつまらないもので、その通り「つまらない」と甥っ子は言っていたけれど、母である義妹は「えらかったね」と褒めました。 すると甥は、別にいいことをしたわけでもないのに(むしろ、いい子じゃなかったかも知れないのに)褒めるなんて変だ! となかなか込み入った拗ね方をするのです。君もナンギやのう。 「こういう時、どう言えばいいんですかね……」と義妹が言うので、私に子はいないが想像してみました。 H(甥)は自分ではいい子じゃなかったなって思ったんだね、でもお母さんはえらいなって思ったんだよ、って、あなたの気持はわかったよ、って受けた上で、でもお母さんはこう思ったんだよ、って言えばいいのでとはないか。たとえ思うところが違っていたとしても、叱るわけじゃなくて褒めたいことなんだし。ま、他人だから冷静ぶってもっともらしく言ってみたりするんだけれども。 ってどうですかセンセイ。 「それでいいんじゃない?」と保育士(かつ孫には祖母)の返事。
今回は浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)が唱えられていました。こういうのはただ拝聴しているよりむにゃむにゃ言っている方がずっと退屈しないものです。りー母さんの父さんの五十回忌の時には一部皆で唱えました(ちなみに宗派は曹洞宗)。テキスト買おう(そもそも、意味もわからずに聞いているというのがムズムズする)。しかも幸いりー実家は浄土宗。 信心ぶかい方だとは思いますが、特定の宗教がどうこうというものではありません。信仰とはまた別の志向がはたらいています。
場所を移して、食事会の時に、大好きな『ぐるんぱのようちえん』(福音館書店)を甥にプレゼントしました。 最初彼はこの絵本が気に入らず、「つまらない」とさえ言ったのでかなりマジでむかついたのですが(おい)、その後読んでもらったところ「おもしろかった」とのこと。そうだろそうだろ。 どちらかというと、絵本とは、あれもこれもではなく1冊ずつ適宜みっちりつきあって欲しいのですが、今はたまにしか会えないから、会う時に1冊、というインターバルでいいあんばいなのかも知れません。
父か母、あるいはその両方を亡くしている、と聞くと、その人は私の経験したことのない強い何かを経験したのだと思い、それだけで何か後ずさりしてしまうような(妙な表現ですが)、そういう気持になってしまうのです。私だってまさか、親がいなければ生きて行かれないとも思わないけれども、でも。 お金を出してくれるか時間を割いてくれる人の言うことしか聞かない、と、かつて、悪態をついていたこともありました。 じゃあ本当に言うことを聞くのか?というと、えへへ、ですが。
2005年03月12日(土)
|
|
 |