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■ 始動
傘を置き忘れたら困るな、と思って、手のひらに「かさ」と書いておいたが、やっぱり忘れてわざわざ取りに戻った。 ネガティブなことをふと思ったら、はたしてその通りになってしま5ったということは何度かある。服にコーヒーをこぼすとか(2回)、溝に鍵を落としそうになるとか(これはすんでの所でセーフだった)。
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話をわかりやすくするために、もののたとえを使うことがある。 しかし、たとえた話が相手にわかるものでなければ、あまり効果はない。 「岡崎京子のマンガが引用にみちみちているように」というたとえは、5年10年前ならいざ知らず、今はどうなんだろうか。
「模倣」の基本には尊敬(オマージュ、あるいはリスペクト)の気持があるのだ、ということ。 オリジナルであることが大前提とされるのは、近代的発想であること。 (過去に行われた引用や模倣のいろいろを、現在ともすれば「模倣=悪」と裁断してしまいがちなのは、過去と現在では「模倣」の〈位置付け〉が異なる点に原因がある) ある作品(たとえば古典と呼ばれるようなもの)からの引用であり(尊敬の念からの)模倣であると認識するためには、作品の受け手にも一定の情報や知識が必要とされる。しかし残念ながら現在では、必ずしも「作り手の知識=受け手の知識」ではない(逆に、かつては両者の知識や情報がきわめてイコールに近い時代があったとも言える)。 ということで、現代では、「模倣」ではなく「パクリ」としかいいようのない作品が乱造される(卑近な例では、フラ○フラ○の家具とか、もろもろの楽曲とか)。 # もっとも、「パクリ」も「元ネタ」のブランド性に貢献しているとはいえる。 ## 著作権の保護というのも、「性善説」的尊敬の念が(受け手の怠惰により、あるいは、抗うことの出来ない情報過多により)失われた結果なのか。
などと、車中にてりー氏といろいろ話す。
politenessは、なんにせよ、大事だ。
哲学は諸学の礎だ、と、今更気づいたりして。 (人にただ言われてもだめで、自分で経験しないと納得できないから、要領はわるい。でも最近は人の話も聞くことができるようになった。そうか、単純にありがたみが理解できなかったのか。嫌だわー)
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地球!ふしぎ大自然で、ウォンバットの特集をやっていた。 T(上の弟)からオーストラリアみやげにウォンバットのぬいぐるみをもらったことがある。映像で観るのは初めてだ。小さいクマのようにずんぐりとしている。かなりいいぞ(何がどういいのだ)。
番組を観ると、彼らの行動は「一所懸命せっせと穴を掘る」と「草を食べる」の2つに集約されているように思われる。 りー氏を呼ぶ。 「だらっぽい〜」
のいと出会ってはじめて、動物(人間以外の)に目が行くようになった気がする。苦手ではないけれど(親愛の情もそれなりあるけれど)、今から思えば、リアリティはなかったのかも知れない。 実家でセキセイインコやハムスターを飼ったことはあったけれど、それは「家」で飼っていたというべきで、私が責任を負うていたかというと、自覚に乏しい。
大家さんからさといもをもらった。
2002年10月07日(月)
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