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2012年07月20日(金) ■ |
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ようこそ異端審問教室 |
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今回以降は大人の事情を巡って書こうかと思っています。 先生の事情にするか保護者の事情にするか―――実のところ両者は、ほぼ同時進行で絡み合って事態を収束に向かわせたり悪化させたりするのですが、同時進行で両者の状況を描写するのは非常に難しいので、教室内部で何が起こるか、から先に書くことにします。
さて、「いじめ」という状況が形成され、被害者・加害者・傍観者という役割がクラス内の生徒それぞれに振られた後、ある程度時間が経過すれば「いじめ」は担任の知るところになります。 被害者や傍観者から担任に相談が行くかは、日頃の担任と生徒との信頼関係にもよります。勘の良い担任ならば、報告や相談が上がる前に察知します。「いじめ」の場が形成されると教室内の空気が不穏な緊張を帯び、生徒達はどこか挙動不審になり、早い話しがクラスが荒れ始めるからです。生徒との信頼関係も無く勘も鈍い担任の場合は、他のクラスの担任から「あなたのクラスはちょっと……」と指摘を受けるかもしれません。或いは、被害児童の保護者からの訴えで、ようやく事態を知る、というケースもあるかもしれません。 いずれにしても、事態を知って後の対応が、最も担任教諭の力量が試され、被害者・加害者・傍観者それぞれの命運の分かれ目となるところです。
勘が良く比較的生徒の信頼を得ている担任に恵まれた場合は、とりあえずの事態の悪化は防がれます。担任が被害者と加害者の間に割って入り、明確に被害者を保護する姿勢を見せれば「傍観者」も担任の姿勢に倣い、曖昧にですが被害者と加害者の距離を遠ざける行動をとるようになります。生徒の信頼を得ている担任が統括するクラスにおいては担任が最も「力の強い存在」になるのですから、生徒は担任の姿勢に従うわけです。加害者側は被害者に対して加害行動をとる機会をあまり持てなくなり、被害者は校内でのある程度の安心を得られるようになります。 加害者が完全に加害行動を止めるかどうかは、「いじめ」がどの程度進行しているか、にもよるでしょうし、加害者の性格にもよるでしょう。私は、幸か不幸か「そちら側」に加わる機会にあずからなかったもので、加害「集団」の心理についてはよく分からないのです。ただ、咎められなければ増長し、咎められれば逆恨みの危険があり、「集団」である為に「一抜け」すれば「裏切り者」として「仲間」から攻撃される恐れがあり、それを恐れているだろう、と、想像するのみです。或いは加害者に対するケアの方が、被害者に対するケアよりも困難であるのかもしれません。 担任があまりクラス統率力に恵まれていなかった場合は、被害者を保護しても「傍観者」の同調までは得られず苦戦するかもしれません。それでも、放置するよりはマシです。「いじめ」のエスカレートに対するある程度のブレーキとなり、被害者の生存率は上がります。運が良ければ、時間稼ぎの間に、被害者が学校から脱出できる最大の機会「卒業」を迎えることができるかもしれません。 残念ながら、担任の介入によっても、劇的に事態の解決を迎えるという例は、有ったとしても極めて稀でしょう。一度、被害者・加害者の関係が形成されると、余程に幸運な事件が降って湧きでもしない限り、互いに対する認識というものは変化しないからです。 「仲直り」というものを大人はしばしば子供に対して求めますが、「仲直り」が可能なのは対等の立場での喧嘩の場合に限られます。被害者・加害者の関係は対等ではありません。ですから「仲直り」は、まず不可能と考えてください。子供は大人の求めに応じて演技しますから、求められれば表面上は「仲直り」を演じてみせます。しかし双方の間に在るわだかまりは解けないまま残りますから、問題は表面上の演技に覆い隠されたまま水面下に沈み、「仲直り」演技によって被害者と加害者を共犯関係に結びつけた上で、次の段階に進行します。これは「悪化」に進む一例と言えるでしょう。 担任が生徒達の前で一言でも、「被害者」に「非が有る」と漏らせば、事態は急激に悪化します。被害者を攻撃することに公然と許可を与えられたようなものだからです。
ところで、教師というものは、当然「教員になる為の勉強」と「訓練」を受け、資格を得てなるものです。 しかし、その勉強と訓練は主に「授業を行う」ことができるようになる為のものであって、子供同士の人間関係の調整の訓練は受けていません。人間関係の調整などというものは教科書では学べません。人間は一人一人異なるものです。殊に子供は欲望に正直かと思えば大人を欺くところもあり、難しい相手なのです。実地に場数を踏んで覚えていくしかないのですが、それでは時間がかかり過ぎます。先生の卵が実際の子供に揉まれるのは、僅かに教育実習の期間のみです。 このような状態でなるものですから、通常、新米の先生の能力は低いものです。稀に生来、交渉能力に長けた人というのも居るようですが、そういう人ばかり選っていては、先生のなり手の絶対数が少なくなり、教育を受けられない生徒が溢れてしまいます。数を充たす為にはある程度は能力の低い新米教員でも補充せざるを得ず、能力が低いことを責めたとろこで急に能力が高くなるわけではないですから、能力の低いものは低いなりになんとか現場を回していくしかありません。 教師も人間ですから対人プレッシャーというものを感じます。経験浅く能力の低い者ほど、これの対処に苦慮します。相手が子供でも人です。大人よりも厄介な人かもしれません。クラスを担当すれば数十人からの対人プレッシャーに毎日長時間向き合うことになります。素直に従う生徒ばかりではありません。反抗的な子もいます。子供は大人の能力を敏感に読み取りますから、能力の低い新米教員は担当生徒にナメられ、授業を予定通りに進行させるだけでも苦労します。生徒の保護者からもプレッシャーはかけられてきます。帰宅後の時間も、多いように見える休日も、持ち帰り仕事で潰れてしまいます。特に問題が持ち上がっておらずとも、能力の限界まで発揮するよう求められます。学校教員のうつ病罹患率は高いと言われています。非常にストレスフルな仕事なのです。 そこに「いじめ」という、非常に対処の難しい問題を持ち込まれ、「これをなんとかしろ」と圧力をかけられれば逃げたくなるのが人情です。「先生なのだから逃げてはいけない」という倫理的な問題は一旦置いてください。「逃げたくなる」のが普通の人間としての自然な心理なのです。 繰り返しますが、「いじめ」は通常、加害者が多数で被害者は一人です。どちらも教師に対して圧力をかけてきますが、加害者側からかけられる圧力の方が大きいのです。生徒からナメられている場合は「傍観者」は支えにはなりません。ここで教師が圧力の大きい側に屈して発せられる言葉が「いじめられる側にも原因がある」です。多数を相手に説得するよりも、一人に要求を呑ませる方が容易だからです。 そして、いじめられる側に原因が有るならば、その原因を取り除けば「いじめ」は解決する、という理屈によって事態は最悪の方向に転がります。担任教師をも加害側に取り込んだ「いじめ被害者矯正プログラム」が発動するのです。このプログラムが実行に移された時、前日に触れたように「傍観者」も【場の機能】においては「加害者」として働いてしまうのです。
私は、いじめられていた当時、直接的物理的攻撃も色々受けたのですけれども、どんな身体的な痛みよりも苦痛だったのが「君の行動と性格を矯正しなさい」と求められた日々でした。 「もっとハキハキ喋りなさい」「皆と仲良くしなさい」「表情を明るくしなさい」「笑いなさい」 つらい最中にいるのだから言葉も詰まるようになるじゃないですか。好きでもない、話題も合わない相手と仲良くなんかできるわけないじゃないですか。こんな環境で明るく笑えるわけがないじゃないですか。 クリア不可能な課題を与えられて、クリアできず、毎日ホームルームの度に「課題はクリアされなかった」とクラスメイトに告発され、ごめんなさい、ごめんなさい、と謝り続け、この儀式が終了するまで帰宅もできず、その日帰れても次の日にまた同じ繰り返しなのです。 あれは小さな法廷でした。現代の法律ではどんな凶悪犯も弁護人を付けてもらえるのに、何も凶悪犯罪なんかしていない、ただ不器用で暗い顔した口下手なだけの子供が弁護人一人付けてもらえず被告人席に引きずり出され、判決は必ず有罪なのです。 何より恐ろしかったのは、「終わりが見えない」ことでした。 直接的物理的な攻撃というのは、痛いのはその時だけなのです。また次もあるかもしれないけれども、逃げられるかもしれない。けれども、登校したからにはホームルームからは逃げられないのです。ホームルームが始まれば、あの一方的な法廷に引き出されてしまう。 「終わり」は、学校はいずれは卒業するものですから「有る」んですけれども、子供ですから一日一日が非常に長く感じられ、苦痛で更に引き伸ばされて感じられ、果てしなく遠く思えたものです。
―――そのうち私は朝になる度に熱を出して体調不良を訴えるようになりました。典型的な登校拒否のパターンです。 うちの親は、父は通知表の結果が少しでも悪いと激怒して手を上げるような、怖い、いささか横暴な人だったのですが、その時は全く怒りませんでした。母も、登校しろとは強いず、私の訴えのままに学校に電話し、「体調不良の為に休む」と、連日連絡を入れてくれました。 両親には学校での事は話していなかったのですが、それ以前から若干は勘付いていたようです。担任から連絡が有った時には一戦以上交えていたようです。 両親が守ってくれたおかげで、学校から逃げることを許してくれたおかげで私は、なんとかその時期を乗り越えることができました。 もし、登校拒否を叱責されていたら、親からも登校を強いられていたら、卒業までの毎日を一日も欠かさず弁護人の居ない被告人席に引き出されていたら、どうなっていたか想像もつきません。
私は、「いじめられる側にも原因がある」と言い「その原因を取り除くように」と要求した担任教諭に対して長く憤っていました。現在は、担任の置かれていた過酷な状況というものも察しがつくようになり、彼の事情が理解できてしまったので、今更個人に対してどうこうという気持ちもありません。 けれども、あのようなことは繰り返されてはならないと考えます。繰り返されてはならないことが今も繰り返されているのではないかと案じています。 誰であろうと、例え私をいじめていた加害当事者であっても、或いは私をあそこに引き出した担任教諭であっても、あんな、最初から有罪と判決の定められた、弁護人の居ない、閉ざされた法廷の被告人席に引き出されてはならない、と、切に想います。
まだ続きます。 この後は明日以降に。
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