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徒然
壱岐津 礼
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2012年07月21日(土)
MONSTERはどこに潜むのか

 前日は、教室が恐怖の異端審問法廷と化していく過程について書きました。担任に焦点を当てましたけれども担任だけの問題では、勿論ありません。「いじめを解決せよ」という司令は更に上から発せられています。例えば校長とか―――校長も教頭も、学校全体が、校内に「いじめ」が発生している状況は元々望んではいません。場合によっては校長自身が事態と直接対峙に臨む例もあるでしょう。
 話は一転しますが、校長先生というのは、結構よく自殺している職業なのです。このレベルになると地域との付き合いなども絡みますし、どのような学校に赴任するかによっても明暗は分かれます。昨今は叩き上げのみでなく、民間からも校長赴任の例もあるようですが、民間出身校長も……自殺された例があったように思います(※要確認)。とにかく非常に強い圧力のかかる地位であるようです。
 圧力というものは、かかれば抜け道を求めます。密閉された場に強い圧力がかかれば、その場を閉じている要素のうち最も弱い箇所を破壊して、そこから抜け出そうとします。「いじめ」が発生して「それを解決せよ」という圧力がかかった時、校長がその全てを引き受ければ、校長も生身の精神と身体を持った人間ですから、最悪圧死―――現実の現象としては自殺、というケースに至る危険が高まります。校長がその責任を放棄し担任に丸投げすれば、圧力に負ける危険は担任のものとなります。担任が自衛に走り圧力から逃げた場合は、先に記したように、「いじめ」の全責任、「いじめを解決せよ」という圧力の全ては、他ならぬ被害当事者一点に集中します。
 いずれが最悪とも選べない、いずれもが「最悪の悲劇」です。
 (世の中は子供の悲劇に特に過敏な傾向がありますが、大人の生命だって、あたら疎かにされて良いものではありません)

 では、何が学校に破壊的なまでの圧力をかけるのでしょうか。

 学校の外周には、個々の生徒から繋がって、保護者の集団というものが存在します。保護者は学校が、自分の子供を安心して預けられるより良い場であるよう望みますから、保護者から学校に対しては元から緩い圧力は存在しています。大きな事件などが起きなければ、保護者と学校の関係は平穏且つ協調的でいられます。
 「いじめ」という問題が発生した後は、平穏ではいられなくなります。
 保護者がどのようにして学校での「いじめ」を知るか、これもまた各家庭事情によって異なるでしょう。全ての家庭が良好な親子関係を築いているかどうかも定かではありません。中には放任状態の家庭もあるかもしれませんし、親子仲が険悪なケースもあるかもしれません。
 良好であったと前提しても、加害者当事者が自ら「やってやった」と告げるとは考えにくいと思われます。親から褒められないことを報告する子供は、通常いないものだからです。そして「いじめ」は褒められる行為ではありません。
 「傍観者」は何かの拍子に家で話題に上せることもあるかもしれません。
 被害当事者は告げるかもしれませんし、告げないかもしれません。親子関係が良好であったとしても、「心配かけたくない」という心理が口を重くするのです。
 子供の挙動の変化に敏感な保護者ならば、気づいて子供を問いただす、或いは学校に問い合わせるかもしれません。子供からも知らされず、兆候も気づけなかった場合は、学校からの連絡で知らされることになるかもしれません。
 どのような家庭であっても、外部から家庭内の事情に干渉される状況は好まないと推測されます。好ましくない問題を持ち込まれるなら尚のことです。ここで「学校は何をやっていたのだ」「安心して子供を預けられる場所ではなかったのか」との反発が、関係家庭全てから学校に向けて放たれます。
 被害当事者の家庭が、放任、または崩壊していた場合は、被害当事者は家庭から助けを得ることができません。
 被害当事者の保護者が、自身の子供に責任を持っていた場合、保護者は我が子をどのように保護すべきか葛藤に苛まれます。いじめられているまま放置するわけにはいかない。さりとて、小中学校は義務教育であり、学校に通わせないとなると保護者としての義務に違背することになる。ここで、保護者が「いじめられる側にも原因がある」という言葉に耳を傾け、わが子の性格・行動の矯正へと向かうと、被害当事者は家庭内でも逃げ場を失います。
 一方、加害当事者の家庭では更なる大きな葛藤を抱え込みます。
 加害当事者の家庭も様々なのですが―――、「うちの子に限って」という言葉があります。これは一時流行った言葉で、我が子の欠点、非行を見逃す親を揶揄するように使われていたのです。が、実のところ「うちの子に限って」と口にする保護者は、比較的マシな、普通の保護者です。保護者のわが子への信頼を表す言葉であり、子供もまた保護者の前で「良い子」を演じている、相互に信頼関係を築くよう努めていると暗に示しているからです。自身の子の非行を他者から告げられ、「まさしく、うちの子ならやりそうなことです」などと返答する保護者は、その時点で保護者として、なんらかの大きな問題を抱えています。
 我が子への信頼を裏切られた、と告げられた保護者は、まず、当の我が子を信じ続けるか、それとも非行の事実を認めるか、の間で大きく揺さぶられます。非行の事実を認めれば、今迄の平穏な信頼関係は維持できなくなります。保護者として叱責しなければならなくなります。どのように叱責するのか。厳しく咎めるのか。それとも優しく言い分を聞いてやるのか。できれば、我が子の言い分には耳を傾けてやりたいのが人情です。
 二親揃っていた場合には両者の責任のなすりつけ合いにも発展します。「お前の育て方が悪いから」「いえ、あなたが」それとも、別の要因が、立派に育つはずだったうちの子をおかしくしてしまったのかもしれない。
 人間は、自らの失敗は見たくない、可能ならば見まいと努めるという性質を持ちます。まして、現代では「子育ての失敗は許されない」風潮が社会に蔓延しており、「子育てに失敗した親にはなりたくない」という強迫観念が各家庭を抑圧しています。実際には子育てには運の要素も大きく関わり、両親がどれほど優秀な人間でも子供も優秀に育つとは限りません。良くて凡庸に育ち、悪くすれば落とし穴はいくらでもあります。ハイリスク・ローリターンな賭けなのです。
 しかし、こうした事態では、とにかく誰かに責任を負わせなければ皆の気が済みません。ここでも「いじめられた側に原因があったのだ」という言葉が、加害当事者家庭に甘く囁きます。被害当事者側が責任を負うのならば、「うちの子」は今迄通り問題の無い愛すべき我が子であり続けられます。
 そして―――何度も繰り返しになりますが、通常、加害当事者の方が多数であり、被害当事者は一人なのです。学校にかけられる圧力は、加害者側からのものが圧倒的に強くなります。
 
 教育委員会、行政は何をしているのか、と考えられる方もあるかもしれません。本来これらは学校を補助すべき機関なのですが、残念なことに学校とはうまく協力関係を築けていないようです。一つには、「いじめ」の発生という現象が、彼らにとって恐るべき失点だからです。どんな小さな失点も、彼らにとってはあってはならないからです。「覆い隠せる程度の小さな失点なら隠してしまおう」彼らは考え、働きかけます。早期に対処していれば繕う機会も有ったかもしれないものを、隠蔽により、その機会は失われます。失点が顕にならないように、早く無かったことにするように、と現場に圧力をかけます。現場は助けを得られないまま更に高圧力下に苦しむことになります。
 ここで忘れてはならないのは、世間は彼らを「組織」として見ますが、組織を構成するのは一人一人の人間です。彼らもまた圧力に弱く、その前に容易く屈します。
 その圧力とは「いじめを発生させてはならない」加えて「どんな些細なミスも許されない」という社会の圧力です。

 「いじめ」というものは、誰かが発生させようとして発生させるものではありません。気がついたらそうした場の空気が形成されてしまっているのです。「発生」そのものを根絶させることは、おそらく不可能でしょう。
 事態の解決の「決め手」も、万能のものは現状存在しません。一例一例が異なるのですから、一例一例調査して、もつれ凝り固まった糸を解いていくよりほかありません。
 「早く解決させろ」と圧力をかけるのは、事態を悪化させることはあっても好転させることはまず無いでしょう。当事者達は、高い圧力の下でどんどん追い詰められていくのですから、逆効果です。

 これまで、大津の事件について私は全く触れませんでしたが、あれは被害者が生命を落としてしまう、という取り返しのつかない事件であり、既に警察の介入を受けているものだからです。私がとやかく言って被害者が帰ってくるわけでもなく事態が好転する見込みもありません。野次馬のつもりでこの記事を書いたのではないのです。
 私が危惧するのは、「取り返しのつかない事に対する怒り」の声があまりに大きく強く世間を覆っている為、現時点他の場所で「いじめ」の渦中にいる子達、関係者達、また過去にいじめに関わって傷ついた人達が、その圧力下で一層苦しむのではないか、ということです。
 私自身が、数十年前に被害に遭った身ですが、この一連の記事を書いている間も、胸を鷲掴みにされて息が詰まるほどの苦痛を味わいました。思い出したくもないのです。思い出したくもないのに、こういう世間の空気の中では否応なく記憶を鮮明に呼び起こされてしまうのです。

 ここまでの間で何度も「〜しないでください」の表現を多用しました。「〜しろ」「〜しなさい」の声があまりに多く大きいので、そのカウンターとして書きました。
 私は、言論の自由を支持する身ですから「黙れ」とは言いません。けれども、せめて、「言葉」にする前に、「行動」を起こす前に、動機が悪意であれ善意であれ、ご自身が何を求めてアクションを起こすのか、もっと自覚してからにしていただきたいのです。
 ただ叫びたいだけなんですか?
 その後に起こることには何も興味無いのですか?
 自分の声で誰かが苦しんでもかまわない?
 それとも、大津の関係者を追い詰めて追い詰めて自殺まで追い詰めて、ザマアミロと言ってやりたい?―――まるで「いじめ」の加害者のような心理ですね。
 本当のあなたは悪意の塊ですか?
 叶うなら善き人として生きたいとは願ってはいませんでしたか?
 よく考えてください。

※補足として
 一貫して「いじめ」という言葉を使い続けたのは、他のもっと過激な言葉「虐待」「迫害」「犯罪」等を使うと、こぼれ落ちてしまう加害・被害があると考えたからです。
 「いじめ」の中にも、戯れから僅かに逸脱して被害者を不快な状況に置いているレベルのものから、大津のように警察の介入無しには片付かない刑事罰相当レベルのものまで幅広く多様な行為があります。刑事罰相当レベルのもののみに対処して、それ以下は切り捨てる、という姿勢になるのは望ましくありません。
 義務教育は小中で9年ですが、昨今は高校義務教育化の話も持ち上がっています。そうなると12年となります。最大12年間、刑事罰相当に及ばないレベルの軽度ないじめでも継続して受け続ければ被害者の負う心的外傷は計り知れません。
 「受験によって、その環境から脱しろ」というアドバイスも見かけましたが、可能な人間にとっては有効なアドバイスですが、全ての子供にそれが可能なわけではありません。私は一度受験に失敗して環境から逃れ得なかった経験がありますから、希望が潰える痛みはよく知っています。二重の絶望です。
 経済的事情が許さない家庭というものも存在します。公立が選ばれる理由の一つは「授業料が安い」からなのです。

 「いじめ」を解決する決め手は無い、と申しましたが、高い圧力がかかることで状況が悪化するならば、圧力を少しずつ抜くことによって、少しずつ改善することは可能ではないかと考えます。あくまで少しずつです。急激な変化は思いもかけない所に負荷をかけますので。
 内部関係者には、おそらく自力で自分達を救うことはできません。外部からの介入―――警察ではなく、ケースワーカといった形で福祉の方向から、できるだけ早期に手を差し伸べられることが求められているのではないかと考えます。助けを必要としているのは被害者だけでなく、加害者も傍観者も保護者も教師達もです。残念ながら、現時点ではそのような体制の作られた自治体があるとは聞きませんし、今後も作られる予定があるとも聞きません。行政は基本的にはこうした事柄には後手後手ですし、悪手を打ちがちですが、なんとかマシな手を打っていただきたいと望むところです。個人でどうこうできるレベルの話ではありませんから。

 加害者に対しては何を言ったらいいか分かりません。「止める勇気を出せ」と言うのは簡単ですが、勇気なんて出せと言われて出るものではありません。ただ、その環境から抜け出したいと望むなら、助けてくれる人を探してください。
 傍観者も被害者も、です。
 一人で抱え込まないでください。

 今、自殺を考えている方―――。
 私は、どうして自殺がいけないのか、自殺は本当にいけないのか、答えを示すことはできません。
 ただ私の場合は、死に手招かれる度に、その手をとることは、自分のこの世での好きな事、物、人、全部捨てなければならないってことなんだ、と考えました。捨てたくなかったから未練がましく生きています。
 学校を卒業しても、社会には色々とつらいこと悔しいことが溢れています。後遺症はまだ引きずっています。バラ色の未来は約束できません。
 けれど、長く生きた分だけ、好きなモノが増えました。途中で死んでいたら出会わなかったモノが沢山あります。どれもかけがえのない宝物です。
 その事を、少しでも「羨ましい」と感じていただけたら、嬉しく思います。