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2012年07月19日(木)
迫り来るセガール!? 沈黙の加害者…ナノカ?

 タイトルはほんますいません。正直、こんなことでもしないとやってられない話題なんです。
 予告では保護者とか先生とか、と書いてましたが、大事な事がまだだったので、その話をします。大事な事―――それは、「いじめ」という負のゲームの外周を囲む「傍観者」について、です。

 いつからでしょうか「傍観者も『消極的な加害者』である」という言葉や論説を見聞きするようになったのは。私がいじめ最前線に立っていた頃には無かったものですね。本当に彼らは「加害者」なんでしょうか?
 私個人の感想から先に申しますね。
 「加害行動とってないやつが加害者なわけないでしょ」
 「いじめ問題」の議論の歴史というのは(実際には、きちんとした議論なんてまあ、されてないと思うのですが)、一方で、「いじめ加害者を如何にして擁護するか」という目的に沿って言を弄する歴史でもあったと、私は認識しています。よく言われる「いじめは、いじめられる側にも問題がある」という言葉も、その代表例ですね。これについてはまたどこかで触れるかもしれませんが、今は置いておきます。今回は「傍観者」についてです。
 「傍観者も『消極的な加害者』である」にも、加害者を擁護しようというニオイを私は感じます。責任を分散することによって加害当事者の加害責任を軽くしようと、そんな印象ですね。或いは、被害当事者の八つ当たり的側面も有るかもしれません。そりゃぁ、もう、苦しい最中で得られるものならどんな助けだって欲しいし、「助けてくれないなんて、なんて冷たいんだ」って、思っちゃいますよね。そして、苦しんでいる人間というものは、当たり前ですが、苦しんでいる間は常に不機嫌で、機会が与えられ相手が与えられれば当たり散らしてしまうものなんです。そうした事情を鑑みれば「傍観者も『消極的な加害者』である」という言葉は、加害当事者・被害当事者双方の都合、欲求の合致によって作り上げられたもの、とも見えます。
 とんだとばっちりです。
 そもそも、「いじめ」という状況を作ったのは「傍観者」ではありません。
 「いじめ」は、人が作るというよりも、不幸なきっかけによってできる状況である、と、前日に書きました。不幸なきっかけが生じるまでは、傍観者は「傍観者」なんて名称の代物ではなく、只のクラスメイトです。「いじめ」の発端にすら関わっていないのではないでしょうか。気がついたら自分達の至近で、しかしあずかり知らぬ理由で「いじめ」が発生しており、気がついたら、その外周で「傍観者」の役割を与えられていた。そんな事は望んではいなかったのに―――。
 そして、大事なことなのですが、「傍観者」は被害当事者を助けもしないけれども、加害行動に加担もしないのです。加害当事者が不在の間、周囲に「傍観者」しか居ない間は、被害当事者は加害行動に怯えずに済みます。加害当事者の姿が見える間は暴力に怯えて息もできないほど竦んでいても、周囲に傍観者しか見えない時には、少なくとも息を吐く余裕ができるのです。これは非常に大きな差です。
 また、「傍観者」の特徴として、彼らは「加害者」にもなりたがらないし、「被害者」にもなりたがらない、という点があります。「被害者」になりたがらないのは当然ですよね。誰だって痛い苦しいツライ思いなんかしたくありません。「加害者」になりたがらない、というのは、彼らが、その時点では「他者の苦痛を快楽とは感じていない」という性質を表します。他者の苦痛を快楽と感じるタイプであったなら、傍観などせず、加害に加担していることでしょう。
 「他者の苦痛を快楽としない」人間にとって、耳目に触れる距離で、他者が虐待されている状況というのは、不快です。精神的苦痛、と言い換えても良いかと思います。その精神的苦痛に黙って耐えるよう強いられている「傍観者」は―――視点を変えれば『間接的な被害者』とも言えるのではないでしょうか?
 ではなぜ、自分にとって不快な状況を変えようとしないの?
 そう、疑問に思われるかもしれません。
 理由はあるのです。
 先に述べた通り、彼らは「加害者」にも「被害者」にもなりたくありません。しかし、状況を変える為には、どちらか、或いは双方に接触して干渉しなければなりません。ところが、残念ながら、彼らの実態は、特別力が有るわけでもなく、知恵が働くわけでもなく、知識もたいして持っておらず、特殊な訓練など受けていない「只の子供」です。迂闊に「いじめ」の力場に近寄ると抗えずに巻き込まれて「加害者」か「被害者」のどちらかの立場に堕ちてしまう危険が非常に大きいのです。「傍観者」が最も恐れるのは、「巻き込まれる」という、この事態です。

 「いじめの転移」という言葉は今、私がでっちあげたのですが、そう呼ぶのが相応しいかな、と思われる現象が在ります。

 またしても私の実体験で失礼いたしますが、これは学校という環境から遥か二桁年離れたネット上の、とあるBBSで起きた小さな小さな事件です。
 きっかけは私ではなく、仮にAさんと呼びますが、Aさんの失言によるものでした。著作権に絡む失言だったと記憶しております。著作権の問題はデリケートな話ですし、「著作権を守る」ことを熱心に口にする、もとい文にする人達も複数、そのBBSに出入りしており、若干の緊張した状況は元からありました。Aさんの発言は、この、「著作権を守りたい」人達の逆鱗に触れてしまったのです。それから後の執拗な文章による攻撃は、当該BBSを開ける度に見てるこちらが頭痛を起こして突っ伏したくなるほどでした。
 実はAさんの発言は―――攻撃していた人達は「著作権侵害を推奨している」と解釈したようですが―――「自作のフリー素材を配布している人達に、著作権管理団体が干渉する事に反対します」という趣旨のものであって、グレーですらなかったのです。若干舌っ足らずな文章であり、デリケートな問題を、神経質な人達の居る場所に投げ込んだわけで、誤解を招いたのも仕方ないな、と、騒動の勃発した当初は私も様子見していたものですが……。何日間その状態が続いたのか、Aさんへの攻撃のコメントでページが埋まり、他の人が他の話題を振る余地もない攻撃者のBBS専有状態も目に余りました(彼らの所有するBBSではなかったのです。いわば他所様の土地を占拠して怒鳴り散らしているようなものでした)し、更にはAさんが自分の失言について謝罪した後も彼らは攻撃の手を全く緩めなかったのです。
 で、つい手を出してしまったんです。
 あれは、端から見たら、馬鹿が馬鹿して地雷を踏んだと見えたでしょう。が、騒動以前は好きな場所だったBBSが怒れる人達の怒声に荒れ果ててしまったのが私には耐えられなかったんですね。「もう、そろそろやめましょうよ」と言ってしまったのです。
 そしたらびっくりしましたね。クルッと矛先がこちらに変わって「そのモノの言い方はなんだ!」と、今度は私が槍衾になってしまいました。
 「モノの言い方」ですが、改まった堅苦しい文章では当たりがキツくなるかと思いまして、できるだけフランクに柔らかく、と推敲に推敲を重ねたものでしたので、非常に残念な結果でした。私の文章がよほど拙かったのかしら、表現力が足りなかったのかしら、と、そういう面でも落ち込みました。けれど、改まった言葉で言ったところで結果は変わらなかったかもしれません。何しろあの人達は「Aさんを攻撃する」という目的の下に一致団結した一体感に酔い痴れていた最中でしたから。そこに私がバケツで水をぶっかけたようなものでしたから、それはもう、不快の極みだったでしょう。
 「モノの言い方」については即座に謝ったのですが聞き入れてもらえませんでした。今度は私への攻撃でBBSが埋まり、冗談ではない、攻撃コメントの収束を望んで横槍を入れたのに、これでは私が居る限り事態が収まらない。ってんで、「文句があったらメールでいらしてくださいね」と、メアドを残して撤退しました。
 最初に攻撃されていたAさんは、まあ、申し訳なさそうなコメントがちらりと見えましたが、私の撤退より前にフェードアウトされました。助け舟は、来なかったですね。
 まだネットだったから、撤退できる場所でしたから良かったです。これが現実の、学校の、クラスの中だったら。逃げ場の無い教室での出来事だったら、と想像するとゾッとします。
 もし学校の教室での出来事ならば―――Aさんは良くて「傍観者」の群れに紛れ込むか、逃げきれずに私と一緒に引き続き攻撃の的になるか、最悪、「攻撃者」つまりは加害者当事者の群れの最下層員として、私を攻撃していたかもしれません。とにもかくにもAさんには私を救出することはできなかったでしょう。それだけは確かです。

 実際問題、多少なりとも頭の働く「傍観者」は私みたいに手出しすれば痛い目を見ることを予期します。それを回避しようとします。
 彼らは傷つきたくないのです。この場合の「傷つく」というのは掠り傷程度ではすみません。掠り傷で済むような問題なら、それはまだ「いじめ」まで発展していないのです。「いじめ」の状況が固着してしまった後では、心理的であれ大怪我を見ずには干渉することはできなくなります。いったい誰が、自分が大怪我を負うことを望むでしょうか。また、誰かに「おまえが怪我してこい」と強要できるでしょうか。
 不幸なめぐり合わせで「いじめ」と同居することを強いられた「傍観者」は、常に「加害」に加担させられることを恐れ、「被害」に巻き込まれることを恐れ、更には「傍観者も『消極的な加害者』である」という言葉で重い罪悪感を負わされ、巨大なストレスと対峙させられているのです。

 夢見がちな人は言います。
 「その場に居たなら助けろ」
 「できることをしろ」
 「状況を放置するな」
 と。
 そう呼びかける相手に、期待に応えるだけの力が無い、なんてことは想像もしない。
 自分は現場から遠い安全な場所に居て、力の無い子供たちに無茶な要求をする。
 無責任で、残酷です。

 「行動すれば事態は打開する」なんてフィクションです。
 現実には解決しない事の方が多く、解決した事柄の背後には多大な犠牲が転がっています。子供たちをその犠牲としないでください。
 
 「傍観者」はけして冷酷な心無い集団ではありません。彼らもまた状況に葛藤し、救済を必要としているのです。
 無闇に責め、追い詰めないようにお願いします。

 と書いたところで矛盾するようですが、残念ながら「傍観者」が【場の機能】的には「消極的加害者」となってしまうケースもあります。この件に関しては、更に不幸な状況が、そして大人の介入が絡みます。
 長くなりましたので、また稿を改めたいと思います。

※追記
 「いじめの転移」の例とした私の体験ですが、後に当時のログを思いもかけない場所で発見し、追体験に背筋の粟立つ想いをしながらも、最終的には、Aさんと私を攻撃した人達もけして「悪意の塊」などではなく、たまたま過剰に攻撃的になってしまっただけの、どちらかといえば「善き人でありたい」と願って暮らす「普通の人」であることを確認しました。彼らの名誉の為に、ここに記します。
 と、同時に、どうしようもない事態というのは本当に、「不運」によって生じてしまうものだと痛感しました。