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壱岐津 礼
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2012年07月18日(水)
残念ながら「いじめ」は本当に「あそび」なのです

 この件について、Twitterで自分の体験も絡めてかなりしつこくツイートしてしまったので、せっかくなのでまとめます。ややこしい話なので気長にお付き合いいただけるとありがたいです。やってられっか! て方は、まあ、しょうがないネ☆彡

 最初に、いきなり釣り全開タイトルですが嘘ではありません。「いじめ」は加害者にとって遊戯の一つです。
 例として、私の体験を挙げましょう。私は小中と、まあ、ゴニョゴニョなことがあったのですが、その中に、「階段から突き落とされる」という事件がありました。素晴らしいバランス感覚に恵まれた私は頭から宙返りなどはせず、足から段の角を滑るが如く最下段まで至って骨が丈夫だったおかげで骨折もしませんでしたが衝撃はそれなりに痛かったものです。最下段から見上げた階段の上には、笑っている連中がいました。「そうか、これは彼らにとって娯楽なのか」と、その時得心したものでした。
 娯楽に加えて、おそらくは、「群れの結束を確認する」「群れの中のヒエラルキーを確認する」という儀礼的な意味合いもあったのではないかと、今にして推測いたします。つまり私を突き落とすという一種の肝試しを行うことで、「群れ」の一員であることを示し、同時に群れの中で優位な地位を維持することが、実行者にはできた、そういう意味合いも持つ行為であったとも思われるのです。
 と言いますのも、「いじめ」という行為は通常、多数によって一人に対して行われますが、その多数の間も、けして平和な友人関係ではないようなのです。「ヒエラルキー」がある、というのは先に述べました通り。表面仲良くつるんでいるようでいて、誰がより優位に立つか、劣位に蹴落とされるか、という確執に鎬を削っているように私の目には映りました。つまり、「いじめ」を行う集団というのは、内実かなりストレスフルで、ターゲットを狩るという行為は、娯楽であると同時に、集団にとっての祭祀であり、ストレスの捌け口でもあったのであろう、と考えられるのです。ターゲットにとってはいい迷惑ですぐゎっ。
 しかし、実はこの構図が、「いじめ」を行うやつ=悪、と言い切るのを躊躇わせる要素でもあったりするのです。
 彼らは表面上仲間であるように見えて絆は無く、信頼は無く、実質は優位劣位を競い合う敵手です。
 私を階段から突き落とした実行者は、その「英雄的な行為」によって群れの中で優位に立ったものと思われますが、それができなければ集団の中の階層をずり落ちていく危機感に苛まれていたものとも推測されます。
 そんな風に彼らは自身のヒロイズムを逐一仲間に対して証明することを強いられ、快楽と不安の入り混じった遊戯を延々と続ける地獄に堕ちていたわけです。遊戯は期間満了を迎えるか、何らかの形で劇的終止符を打たれるまで続きます。私の場合は、主に私の強運のおかげで致命的な事態に至らず期間満了を迎えました。まあ、刑事事件的に「傷害」レベルの事はあったんですけど、内々に無い無いにされました。
 では、加害者は悪魔のようなやつらであったか、というと、そうではなく、負のパワーゲームに取り憑かれた只の人間でした。私は小学校の途中で転校し、転校先でこいつらと遭遇したわけですが、うち一人は最初に接触した時にはむしろ友好的で、笑顔がちょいと可愛いやつでした。二度と会いたくはありませんが。
 始まりは、ほんの些細な戯れで、「いじめ」というより「いじり」だったのです。それがエスカレートしてどんどん歯止めが利かなくなってしまうのです。
 Twitterで何度も書いたのですが、加害者と被害者を分けるのは些細なきっかけ、運命のいたずらみたいなもんです。それが無ければ「いじめ」は発生しなかったかもしれない。或いは、加害者が被害者になったかもしれない。被害者が加害者の立場に立っていたかもしれない。
 私は先に、「階段から突き落とされた時に、これが彼らの娯楽であると得心した」と書きましたが、なぜ得心したか。理解できたからですよ。気に食わないやつを階段から突き落とす、確かに面白そうだ。その思いつきに私も同意しました。そういう黒い欲求は私の中にも存在しました。ターゲットが私でなければ、私自身が加害者になったかもしれない。本気でそう思います。

 ですから、私は、加害者を「人の心を持たない化物」のように見做す事に反対します。
 彼らは、たまたま道を踏み誤った「普通の人間(の成れの果て)」にすぎません。

 被害者も、特別に劣った、或いは優れた、もしくは「聖痕を負った」存在ではありません。
 たまたま貧乏くじを引いてしまった、これまた「普通の人間(の成れの果て)」です。

 よって両者を「特別な眼」で見るのは止めていただきたいと、願う所存です。みんな危うい綱渡りをしている不器用で弱い人間で、綱を渡り切る前にしくじるヤツもいる。そういう話なんです。

 思いの外に長くなったので(こんだけ書くのでもうヘロヘロなので)、稿を改めます。
 次回以降は、「保護者や先生、学校関係者だって只の人間だぜ」の予定です。
 可能ならば「じゃ、どうすればいいの?」まで、書けるといいなぁ(願望)