Comes Tomorrow
ナウシカ



 死の選別

実は、うちの姑が胃ろうオペを受けて入院中なんですが、それをするに当たって、私は息子である旦那に尋ねました。
アルツハイマーの認知症が進み、いよいよ身の回りのこと(排泄・食事)が全く自分1人ではできなくなり、寝たきりになりました。

ヘルパーが入り、在宅で口から食事を取れてる間は良かったけど、それも不可能となり…
胃ろうオペまでして、生きていてほしいか?
寝たきりになり、口から食事できなくなると、それこそどんどん悪くなり、舌苔もできるし、じょく創もできるし、意識がなさそうに見えて、本人は苦しいだけかもよと。

何もしなければ、徐々に栄養不良になり、自然にそのうち死ぬでしょう。
どちらがいい?と。

結局、旦那1人では決められず、舅の強い要望で、医師の勧めもあり、胃ろう処置することになりました。
取り合えず命は繋ぎ止めたけど、今度は呼びかけに全然反応しないと舅はボヤいてます。
受け止められないんですよね、現実を…

正直、姑が可哀想かなと思います。
私が同じ立場だったら、ちょっと勘弁って思ってしまいますね。


2008年12月30日(火)



 親の立場で

救急外来にやって来る小児科の親たちは、権利意識の塊か?

皆が皆、そうではないと思いますが、そうなってますね。

それで、今度は親の立場で言いますが、うちの娘が(当時4〜5歳だったかな?)夜に顔面をテーブルの角で強打したんですよ。
少々のことでは病院には行きませんが、鼻が見る見る腫れ上がり、なのに鼻血は出ない。

万が一、内部で出血していたら、しかも脳に達していたら?
このまま朝まで待って、病院に行っていたんでは手遅れになるのでは?
やはり親としては、そんな最悪な事態も心配して、急病に連れていくことにしたんです。

私は下の子がまだ小さかったので家に残り、上の子は旦那に連れていってもらいました。
急病外来は、それこそ溢れんばかりの人だったそうで、長いこと待たされて、やっと診てもらえたと思ったら、その小児科医(なんで、これぐらいのことで連れて来るんだ!)と言わんばかりの態度で、それはそれは横柄な態度だったそうで。

結局、レントゲンを撮ってくれるわけでもなく、何もしてくれず帰されたようです。
旦那は『なんちゅう、医者や!』とプリプリ怒りながら帰ってきました。

私はまぁ〜悪い医師に当たっちゃったか…ぐらいにしか思いませんでしたが、今思えば、急病担当の医師たちも相当疲れていたんだろうと思うし、軽症でもどんどん連れてくる親たちに腹が立っていたのかもしれませんね。
親の心理を思いやる余裕も何もないし、それを代わりにしてくれる機関も人もいないという状況だったのでしょう。

娘に何事もなかったから、今こうして冷静に話せているけど、これが何かあればね〜

同じ医療者として、医師のそのような態度も理解できるとこもあるし…
でも一般の人たちは、そうはいかないでしょうね。

急病に子どもを連れて行く人の中には、日中仕事が忙しいから、こんな休みの日ぐらいしか連れて行けないとか、勝手に空いてると思って行っていたり、ほんと自分勝手な理由で利用している人もいますね。

それ以外には、親の過剰な心配・不安で行ってる人もいると思うので、そういう人たちの相談窓口でもあって、患者を振り分けてくれるような機関ができればいいなと思いますけどね。
医師や看護師がそれをするには、手が全然回らないと思います。


2008年12月29日(月)



 命の選別

訪問看護の仕事をしている時、多数の疾患を抱える患者の受け入れ先(病院)を見つけるのが大変でした。
もう在宅で看るには限界があり、家族も入院を希望していました。

かかりつけ医が紹介状を書いたにも拘らず、どこの病院も受け入れ拒否。
救急ではないのに…
専門医がいない、ベッドが空いてない、治療できない…

それで、患者の家族はかかりつけ医に泣きつき、それで医師がじきじきに知り合いの医師に電話して頼み込んでくれて、やっと受け入れてもらえました。
その代わり、何かあっても異議申し立てはしないという誓約書を家族は書かされました。

その患者さん、入院して1ヵ月後に亡くなりました。
院内感染でした。
でも、家族は文句の一つも言いませんでしたね。
受け入れてくれただけでも有難い。
仕方なかったんだって。

これが現実です。
誰のせいって言えないと思います。
院内感染って言っても肺炎でした。
抵抗力の落ちた、全身状態が悪い人なら簡単に感染して、急変してしまう。
家族はその辺のことは理解してくれてるみたいでした。

問題は、そういう複雑な事情を短絡的に判断して、責任の所在を追及し、糾弾する空気ですね。
そんなことを繰り返していたら、ほんとに医師たちは患者を選ぶようになってしまう。
今は仕方なしでも、今後は確信犯的に選別するようになるでしょうね。

日本もアメリカのように訴訟天国、さしずめ医療訴訟天国になってしまうかも。
そうなる前に、医師たちは逃げ出すでしょうね。
そして、医師たちが悪人にされてしまい、悪人にされるからこそ、ややこしい患者は受け入れなくなる。
そういう悪循環をどこかで断ち切らないとね。


2008年12月28日(日)



 ハンセン病社会復帰者との忘年会

友人に誘われて、先日参加させてもらいました。

私はあの忘年会で、1人の回復者の方とはほんとにじっくり話を聞いたんですけど、文章にまとめるのは難しい…長い長い間の辛苦・苦闘、凛とした強さ・優しさ。

話していて不思議だったのは、私の方が温かく包まれる感覚になったこと。
また会いたい、そう思わせてくれる方でした。

何か支援だとか、そんなおこがましいことは言えない。
ただ、そばにいさせてと、こちらがお願いしたい感じでした。

でも、思ったのは…
ああ〜もう裁判は終わったし?、この人たちが長年頑張ってきて結果が出て、世間の人たちにも少しずつ知れ渡ってきている、この時にチョコッと呼んでもらってるだけで、今の私に何ができるんだろう?何をすればいいんだろう?
実は何もできることなんかないのかもしれない、なんて悩みました。
話を聞くことぐらいしかできないけど、そんなことだけで果たしていいのかどうかもわからないし。

弁護士の方がいろいろ教えてくれたんですけど、回復者の中には未だに病院が怖い、世間が怖いという思いで、引きこもり病院にも行けないという人が多いと聞きました。
ハンセンの後遺症ではなく、成人病などの病気を患っているのに、病院に行けないと。

また回復者にお聞きした話では、知識としてハンセン病のことを知っていても、実際には、どのように手がしびれてるとか、どうなのかとかわからないでしょ?と。
医療従事者でも、それがわからない人が多いと。

手や顔に障害?が残っている人もいれば、見た目わからない人もいる、元気そうに見える人もいる。
だけど、本当のところはわからないでしょ?と。
それをわかってほしいと訴えておられました。

実は、あの場に出てきている人に支援はいらないんですよね。
支援という名のものは。

ただ国や社会や世間の人々が、その人の人生を奪うほどの恐怖や絶望を与え、それにより未だに苦しめられている人がいて、隠れて生活することを余儀なくされ、孤独の中にいる人がいる。
弁護士の方は、世間はこんなに変わったのに、認識がまだ昔のままなんですと言われた。
でもさ、それはさ、その人のせいなんかじゃなくて、皆がそうしたことでさ。
きっと、二次被害的に傷つき疲弊してきたこともあったんじゃないかと、勝手に想像もめぐらせるわけで。

社会の責任です。
自分たちの責任です。
戦争にしても何にしても、普段、自分は関係ないという顔して生活している私たちですが、でもその責任は私たちが負わなければいけない問題で、全然関係ないことではなくて、自分たちの問題として考え、何かをしなければいけないような気がする。

でも実は、なんやかんや助けられているのは、そんなの関係ねぇ〜と暮らしている私たちだったりすると思うわけです。
話してみて切に思ったけど、実に頼もしい人権の闘士なんですよ、あの方々は。
おお〜金魚の糞でもいいから、ついて行きてぇ〜
そんな感じです。


2008年12月21日(日)



 幸せ自慢大会

今日は近所の学会員さんのお誘いで、小グループの会合に行ってきた。
会合といっても、ざっくばらんなお茶会。

今日は初めて会う婦人部幹部。
元看護師らしい。
いい人そうだったけど、これといって何かを感じる人でもなかった。

私に対する前情報は得てるだろうね。
今や、学会の書籍も機関紙も何も取らず、活動もほとんどしないで、学会や公明のやり口に批判的な私。
気を遣いながら話しているのはわかる。

いつもなら、私もハッキリ物を言うのだけど、今日は80過ぎの草創の壮年もいたからね。
ちょっと話を聞きながら様子見て、あれこれ言うのを止めた。

昭和44年に入信した人らしい。
本当に温厚な笑顔の柔らかい人だった。
病気がちの奥さんのために、小まめによく動く人。

今日はその壮年の方の自宅で会合。
そこそこ大きな一軒家。
ひ孫もいて大家族で、仲良くて幸せいっぱいという話をされていた。

苦労話といえば、昔の学会活動は大変だったという話ばかり。
そりゃ〜今ほど恵まれた環境ではなかったでしょう。
今は本当に恵まれているのに、学会のことをあれこれ悪く言う人がいる、それもどうかと思う、私はこんなにも幸せだという話。

まぁ〜それが本当に本音なら、実際に恵まれた環境で過ごされているわけだし、結構な話でしょう。
これ以上、何も言うことはないよ。

他の婦人部幹部たちも、そうそう昔の学会は本当に病人と貧乏人の集まりだったのよね〜
本当にいろいろ守られて、こうして幸せになって、本当に良かったわぁ〜
と幸せ自慢大会が始まる。

別にそれはそれで構わないよ。
でもね、そこには社会の目はないよ。
軽くTVニュースの話も出るけどね。
ケラケラと笑って、自分は守られてるという話が延々と続く。

ああ〜面白くない。
やっかみや妬みじゃないよ。
私も残念ながら、その人たちと同じく、恵まれた環境でぬくぬくと過ごしていて、人並みの幸せを満喫している。
確かに、それは失いたくないという気持ちがある。

だけどね、同苦の気持ちを忘れ、ガラスケースに入れられて、綺麗に着飾ったお人形さんにはなりたくないと思ったね。
このまま、ここにいたら、私はこの人たちと同じになっちゃう、ああ〜やだやだ、そんな感情を抱いた。
学びも何もなく、心打つものもなく、甘ったるい砂糖菓子のまま腐ってゆくのは嫌だ!

私にとっての幸せは、いかにも幸せ満喫してますという、そういう世界じゃない。
かといって、戦火に飛び込んで行くほどの勇気もないわけだけど、だけどね…
でもまだまだ、甘ちゃんな私。
どうにかしたいね。

先月は、下の子の5歳の七五三だったけど、学会の会館には行かなかった。
これを最後にと思ったけど、行かなかった。
かといって、神社や寺にも行かなかったけど。
今年でもう学会納めをしましょうかね。


2008年12月06日(土)



 陰と陽…言えなかった事

今日、妹の入院する精神病院に行ってきました。
主治医が面談したいとのことで。
昨日、妹からいきなりメールがきたんだけど、たまたま今日は保育園の発表会で仕事は休み入れてたからね。
まぁ〜行ける時に行っておこうと。

主治医の話では、私がどこまで妹の支援?関わり?ができるかということ。
どうも妹からの話で、私と妹の仲は大変悪く、距離を置いた関係を貫くのか?という話でした。
実際には、そんなに悪いわけじゃなく…

妹の要求を毎回全部呑めない、出来ることと出来ないこと、出来る時と出来ない時があるという話をしただけで、入院してから何度も私のとこに電話があったことや、これまでの妹の生活のこと、私の知ってることをお話しました。

妹の要望どおり、こちらが動いていても、またすぐに気が変わって、勝手に違う行動を取ってしまうこと、福祉関係の人にもだいぶ動いてもらったけど、それでも結局振り回されてしまったこと。
一から十まで生活の細かい面倒は、これまで通り見れないけど、家族にしかできないこと、家の片付けとか、そういうのはやっていくつもりです、てなことをお話しました。

心理検査の結果やIQテストなども大まかに聞いて、精神遅滞は見られると。
でも、高校まで普通の高校出たんですけどね〜という話をして、でも元々そういうの(統合失調症)はあったと思いますよと主治医は言ってた。

病気を発病した原因…
妹が発病した時期は、離れて暮らしていた父の所に度々泊まりに行っていた時期…
父の自宅で初めて、おかしい行動を取ったのが始まり。
当時、父は不在だったけど、警察の厄介になったのでした。
母との関係も、妹が話しているほどは良くなかった時期…
よっぽど性的虐待の有無とか、当時の状況を話そうかと思ったんだけど、話せなかった…

話し出したら、私の話になりそうだなと思って、私が治療を受けてるわけではないんだし、妹の主治医なんだしとか、いろいろ頭をめぐってしまって…
私と親の関係がかなり悪かったというのは理解してくれてるみたいだったけど…

それと、妹が気にしていること。
親の納骨問題。
そのことがかなりプレッシャーになっているだろうということ。
自分が家を守らなければと思っているということ。

これも地域の学会員さんからのプレッシャーです、とは言えなかった…
これも言い出したらキリがないし、ここで話すことでもないかと…

その後、妹と話したんだけど、かなり多弁でしたね。
パッと見には元気そうだった。
主治医曰く、今かなりイライラしているようです、とのことだったけど。

親との思い出話もしたけど、相変わらずというか、良いことしか覚えてないのね。
妹曰く、私と妹では親から受けた愛情が違う、感じ方も違う、価値観が違うというような話をしてた。
まぁ〜そうなんだけど、圧倒的に妹が持っている記憶というのは、かなり抜け落ちてる。

私と妹ではまさに陰と陽。
良いことしか覚えていない妹。
悪いことしかってことはないけど、圧倒的にそういう記憶の方が多い私。
二十数年、共に過ごした姉妹なのに、記憶が重ならないなんて、やっぱり変ですね。

主治医には、また機会を見て話しましょう。
今までは、母や妹のある意味、つくられた記憶半分?しか話に及んでなかったのだろうし…

それにしても、今日はしんどかった…


2008年12月04日(木)
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