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■ 『絆』と『縁』
久しぶりに先輩の記事を読んだ。 それは文字なんだけど、なんか先輩らしく、柔らかな語り口調で、すいすい読めてしまう。
「絆」という言葉が嫌いという話は聞いたことあったけど、なんで嫌いって言ってたっけ? と何度も忘れてしまう私は、読んだことがある言葉を聞いても、また新鮮に「なるほど!」と思ってしまう。
「絆」は、「細い紐状のものでまといからめて自由を失わせる」ということらしい。
「絆」は、「馬をつなぐもの」「自由を束縛するもの」「自由を奪うもの」という意味が歴史上あるらしい。
「絆」は「ほだし」とも読めて、「ほだす」ということ。 「情にほだされる」ということで、「愛着」「執着」であると。 情に引きずられて、判断の自由、行動の自由が侵される。 ということらしい。
「絆」って、世間一般的には良い意味で使われることが多い言葉やけど、こんな意味があったのね。 また忘れてしまうかもしれないけど、忘れたら、また何度でも読んで、書いて、覚えとこう。
先輩は、「縁」という言葉がいいと言う。 「絆」ほどの「しばり」がなくて、温かい響きがあって、「たまたま」的な要素もあると。
「たまたま」を繰り返すと、「縁」に「内実」が詰まってくると。 「たまたま」を「たまたま」で終わらせない。 でも、りきんでしまうとしんどい。
たまたま出会い、その時、必要なことを誠実に行う。 そして、忘れずに「繰り返す」。
「強い縁」「運命的な縁」ではなく、「豊か」で「しなやかな縁」が大事という。
「絆」とか「運命」とか、はたまた「仲間」とか、確かに重いな。 私には無理。
「親友」という言葉も、年々、その言葉が白々しく、重く、私には不自由に感じてしまう言葉になってしまった。 いつからか、私が思う「親友」は夢で会うようになった。 勝手に夢にみて、勝手に「親友」に会えたと思ってる。 人からは理解されないかもしれないけど。 私は、それで充分。
何よりも縛られるのが嫌いな私なので、「縁」は大事にしつつ、その時その時で、目の前のこと、やりたいこと?やれること?をやっていくだけ。
「縁」があって、岩手に来て、なんやかんや1年が過ぎました。 「たまたま」旅行に来て、「たまたま縁」があって・・ でも、来年のことまではわからへんから、そんな「たまたま」を繰り返して、なんかおもろいことないかなぁって、先行きは決めずにいるのが、私には性に合ってる。
2020年08月12日(水)
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