Comes Tomorrow
ナウシカ



 受け止めたくない現実

今、妹は精神科に入院している。
時々、電話がかかってきて話すんだけど、母が亡くなって1人になってしんどいと。
母が生きてる時は生きてる時で、しんどいと漏らしていた妹。

『こんな日がいつか来ることはわかっていたでしょ?
ママが生きてる時だって、しんどかったでしょ?』

そう話すんだけど、妹はこう言う。
『病気(統合失調症)になって13年、よく付き合ってきてくれたなと思う。
今は良くしてもらったことしか覚えてない。
ママには感謝してる』
そうは言うんだけど、妹はとても辛そうなんだよね。

『病気になったのは、ある意味、ママのせいだよ。
13年間よく付き合ってきてくれたというけど、それは逆じゃない?
○○(妹)が病気になってまで、よく13年間付き合ってきたなと思うよ

覚えていないのは辛いからなんじゃないの?
辛すぎて忘れたいから覚えてないんじゃないの?
普通の親子みたいに、愛情をかけてもらって親に感謝するという風になりたくて、無意識にそう思おうとしてるんじゃないの?

自分の気持ちを抑圧してるんじゃないの?
だから心と体が悲鳴をあげて、しんどいんじゃないの?

現実を受け入れるのはしんどいことかもしれないけど、感謝の気持ちは持ってていいけど、親のことでもう抑圧しなくてもいいんじゃないの?
愛情がなかったということ、現実を受け入れないで、自分に無理をしてるからしんどいんだよ。

覚えてないならないで、それはいいんだけど、それでしんどいんなら考えないとね』

妹はカウンセリングを主治医に頼んでるみたいで、来週ぐらいから始めるらしい。
私もカウンセリングは6〜7年通いました。
その間、2人の子どもを産み。
カウンセリングに通わなくなって3年。

私もしんどい時があったけど、私の場合は母が亡くなってから、すこぶる調子がいい。
ここんとこ喘息も出ず、毎日ステロイドの吸入をしていたのが、3週間ほどしていません。
それでも発作は出ない。
風邪引いても出ない。

季節的にしんどくなる季節なんだけど、いつものようにドーンと沈むこともない。
疲れてイライラして、そういう普通のストレスはあるけど、何とも言えないしんどさが今年はない。

だからこそ、親のこととか冷静に書けるのかも。
以前はあまり詳細は書けなかったもんね。

人生楽しもう♪


2008年10月31日(金)



 『可哀想』

”可哀想”
便利な言葉だよね
そう言ってれば、その人は良い人に見える
優しい思いやりに溢れた人に見える

”可哀想”
そう言ってれば、何もしてなくても何か良いことをしたような気分になる
何もしないことの免罪符ののように、風に吹かれて消える
そして忘れる

”可哀想”
その言葉を発する人で、私はろくな人に会ったことがない
”可哀想”
そういう人に限って、ほんと無責任な正義感を押し付けてくる

”可哀想”
そうやって言ってる自分に酔ってるんだよね
感情を高ぶらせてるんだよね
上から見下ろすように、自分が大きくなったように見えるんだよね
偉くなったように見えるんだよね

私は”可哀想”とは言わない
心で”可哀想”と思うことがあっても、それを滅多には口に出さない
口に出す時は、本当に自分が何もしない時
『可哀想だね』 『可哀想だけど』

”可哀想”
私は何もしませんという宣言に聞こえるよね
私は何もしません、できません、だけど可哀想だとは思ってます
言い訳にするには便利な言葉だ

”可哀想”と思うなら、口に出すより何より、何ができるか探す
”可哀想”と思ったら、何もできなくても、何をしていいかわからなくても
それでも何かをしないではいられない

”可哀想”
言葉にしちゃうと、全く意味が違っちゃうんだよ
”可哀想”
言葉にならない、その心が本物なんです


2008年10月30日(木)



 今日の『OLにっぽん』

いやぁ〜良かった♪
ミュージカル好きには堪らない!

都留役の俳優さん、ミュージカル『ミス・サイゴン』でクリス役をやってた人なんですよね〜
普通に演じてるより、やっぱり歌ってる方がカッコいい!
ファンになっちゃうなぁ〜

TVではあまり目立たないんだけど、実際に舞台に立っている姿は雄々しくていい感じ♪
またミュージカル観に行きたいなぁ〜

東京在住の人はいいですよね。
いつでもミュージカルが観れて…

2008年10月29日(水)



 自己実現

ああ〜なるほど!と納得した言葉を紹介します。

http://homepage1.nifty.com/eggs/sikou/daremo3.html

以下転載
******

 メンタルヘルスの世界に「自己実現」という言葉がありますが、この本当の意味は、自分の願望を実現するという意味ではないのです。

自分の限界を知り、不完全な自分を受け入れ、不完全な他人を受け入れ、不完全な現実を受け入れ、部分的な理解と、部分的な愛情の世界でも生きていけるようになるということなのです。

理想的な自分になるということではなくて、範囲と限界の中で生きている不完全な自分を受け入れて、ありのままの現実的な自分になるということなのです。


2008年10月28日(火)



 親離れ子離れ

うちの子たち、まだ8歳♀と5歳♂だけど、ママゴト遊びするからかなぁ〜
将来どうするこうするということをよく話してくれます。

上の子は花屋さんになるのが夢らしい。
女の子らしいね。

そして、保育園時代は好きな男の子がいて結婚すると言っていたのに、最近では結婚しないで家にいると言うのです。
理由を聞くと…
『おとうさん、おかあさんと離れたくないもん。
お弁当ちゃんと作っておくから、うみが仕事に行っている間、それ食べといてな』
えらい具体的な将来設計やねぇ〜

『子どもは産まないの?』と聞くと、『痛いし、そんなんイヤヤ、だから結婚もせぇへんねん!』
あらら、まるでその痛さを知っているかのような口ぶり。


下の子は3〜4歳ぐらいの時は、『大きくなったら、○○レンジャーになる!』と言ってました。
これまた可愛い男の子らしい夢やね。

しかし最近は、『おとうさんに仕事(内装業)教えてもらってするねん!』
具体的なのはいいけど、もうちょっと違う仕事でもいいよ〜と思ってしまう母です。

それで下の子にも結婚のことを聞くと…
『そらくん、結婚したくない。
だって、おとうさん、おかあさんとずっと一緒にいたいもん。
一緒にいるもん!』

そんなん言うてるのも今のうち。
だけど、嬉しいもんですね、親としては。


思春期になったらどうなることか?
自分の時のことを考えると、どうしてもネガティブになるけど、でも私と子どもでは違うしね、環境も何もかも。
だから、ぶつかるかもしれないけど、今精一杯、愛情をかけていたら、それなりに乗り越えられるかなとか考えています。


2008年10月25日(土)



 子を売る親の現実

『いもうと倶楽部』続々閉鎖 女児サイトに子を売る親の現実
http://www.cyzo.com/2008/10/post_1078.html

ああ〜やだやだ、こういうの立派な虐待だよ!

うちの父親も児童ポルノの雑誌とか見てたみたいで、子どもの時に見たことあるけど、6〜7歳の子がカメラマンである父親にビキニ姿とかヌードを撮られている写真が載ってた。

私が中学生の時、家族で近所のプールに遊びに行ったんだけど、私は学校のスクール水着以外は水着を持っていなくて、水着を買ってぇ〜と親にせがんだんだけど買ってくれなくて、かといって学年とクラスと名前がデカデカとゼッケンに書いてある水着なんか着たくなくて、ああだこうだ…

結局、母親が昔着てた水着を着ることになって…
それも実は嫌だったんだけどね。
黒の胸を強調したような水着でね。

私は確か中2だったと思うけど、背も高かったし、大人びた体型はしてたから、ほんとそんな水着は嫌で、中学生らしい可愛い水着を着たかったんだよね。
だけど絶対ダメと言われ…

仕方なく、その水着を気にしながら着て…
恥ずかしかったけど、おかしくないおかしくないと言われ…

それから数日して、そのプールに行った時の写真が出来上がってきて、それを見てさらに私は恥ずかしい何とも言えない気持ちになった。
父親が写真を撮っていたわけだけど、知らぬ間にきわどい写真を撮られていて…
父親が撮るような写真じゃないよ。
しかも隠し撮りみたいな感じだったし。

でも当時は、そんなことないそんなことないと必死に嫌な感情が出てくるのを打ち消していたけど、やっぱり見れば見るほど、やはり不自然ないやらしい写真で、大人になってからその写真は処分しました。

その後、私がお風呂に入っている時に、むりやり父親が一緒に入ってきたり、嫌なことは続き…
母親に訴えても、聞いてもらえず…

そして、私も結婚し、ずっと疎遠だった父親とは和解して口を聞くようにはなっていて、ある日、父親が書いている同人誌の雑誌が送られてきた。
父親は小説家になる夢がずっとあって、自主出版で小説を出したこともあって、当時はもっぱら同人誌だったわけだけど、私は初めて父の書いたものを読んだ。

短編小説で一応最後まで読んだけど、私はもうムカムカした気持ちが湧き上がってきて、読み終わると同時に、その同人誌を破り捨てました!

内容は近親相姦を肯定するような内容で…
設定は障害のある息子と母親ということになっていたけど、到底受け入れることはできず…
その他、酒乱の父親を甲斐甲斐しく世話をする7歳の娘の話とか…

ほんと父親の願望が書かれてるような、そんな内容の小説を読み続ける気にはなれず…
また私の名前をもじったようなペンネームで詩も書いていて、ほんと嫌悪感が込み上げてくるだけでした。

その後も、何冊かその同人誌が送られてきたけど、私は封も開けずにゴミ箱に捨てていました。
父親は一見、改心したように見えたし、具体的にではなかったけど、『パパが悪かった…』と謝罪も受けていたけど、でも中身は何も変わってないように思えて、やっぱり私は父親に近づくことはできなかったですね。


このニュースを読んで、とんでもない親がいるもんだ、けしからんと言うのは簡単だけど、社会が世の大人たちがしっかりと、これは虐待なんだと認識してもらわないと、こういうことは全然なくならないと思う。
子どもがいくら芸能人志望で納得済みでしていたとしても、これは立派な児童虐待なんです。

ほんと、こういうニュースを聞くたびに嫌な気持ちになります。
いつも犠牲になるのは子ども…
どうしたらいいんでしょうね…


2008年10月20日(月)



 母が亡くなってから…

2ヶ月ちょっとが過ぎました。

妹は1人になってからいろいろ気分の浮き沈みが激しかったけど、何とかよく頑張ってるなという感じでした。
しかし、家族が亡くなるといろいろあるもんです。
私は親のことに関しては本当にノータッチ状態なので、妹には苦労をかけているわけだけど、妹のことに関してはできることはする、できないことは無理しない、そういうスタンスでこれからもいこうと思ってるわけで…

先日、妹のケアマネさんから電話があり、妹が足を捻挫したと。
だけど、そのことはそんなに大したことではなく、それよりもそのケアマネさんやヘルパーさんと上手くいかない旨、いろいろ聞いて…
まぁ〜私も全く知らない世界のことではないので、そのケアマネさんの言われることもわかる、でも妹のことも多少はわかる、上手く折り合いがつけばいいけどという感想を持ちました。

取り合えず、妹に電話してみました。
そしたらですね〜救急車を呼んだというのです。
どうもいろいろ精神症状が出てきたようで、本人も随分しんどかったのでしょう、救急車を自分で呼んだようです。
たまたま私が電話した時はそんな時で、救急隊員が電話を替わってくれと言って替わりました。

妹は脳性マヒの身体障害だけじゃなく、統合失調症の精神障害も持ってますので話が埒が明かなかったようです。
救急隊員もあれこれ病院と掛け合ってくれたり、妹の話を聞いてくれたり、結局以前入院していた病院に運ばれました。
私も後で車で向かいますということで、病院側も受けてくれた模様です。

まぁ〜でも救急車を呼んで来るという状態はあまり宜しくないと、精神科のドクターから注意を受けました。
そりゃそうですわね〜
妹はまだ話ができる状態でしたので、落ち着いて診療時間内にタクシーを呼んで行くなりしなくちゃならなかったわけで…
もっと酷い状態の時は救急車を呼んだこともありましたが、本人が自分で呼べる状態の時はまだマシな状態ですからね〜

私は近所に住んでるといっても、まだ子どもは保育園児ですし、すぐにいつでも飛んでいける状態でもなく、その日も子どもを保育園まで迎えに行って、上の子も連れて、コンビニでおにぎりと肉まんを買って車中で食べさせながら病院に向かいました。
子どもらも私も風邪の病み上がりでしたが、何とかこの日は行けて、精神科のドクターといろいろ相談した結果、休養目的の任意入院という運びになりました。

問題はまだまだ山積みで、妹の今後の身の振り方、施設に入るのか、グループホームに入るのか、これまで通り、在宅でケアプランを組んでもらってやっていくのか、生活保護費や精神障害年金の問題もまだ解決には至ってなく、その病院の主治医とケースワーカーと役所の福祉課の人との話し合いもあり、まぁ〜専門家にお任せするより他ないという感じです。

急に入院したので翌日、妹の自宅でどこに何あるかわからない状態で、入院に必要な荷物をまとめ、洗濯物が濡れたまま洗濯機に入っていたので、それを洗って干して、炊飯器のスイッチも入ったままで、お鍋にはおかずもそのままで、冷蔵庫の中身も冷凍できる物は冷凍室に入れて、あと処分が必要な物はして…

そうこうしてると、もう子どもを保育園に迎えに行く時間になり、バタバタと忙しく、はぁ〜と疲れてしまいました。
これぐらいで疲れていてはいけないけど、仕事して家事して育児して、妹のこともとなると、ちょっと疲れますね〜
体の疲れというよりは精神的な疲れ…

こんな私ですが、最近では眠れば何とか疲れも取れ、また気分もスッキリするようになり、うつ病になってた時に比べれば、随分タフになりました。
でも、ストレスをどこかで発散しないと…てなわけで、昨夜はかねてから約束してた白樺(ナース)の友達と飲み会に行ってきました。

みんな、主婦で仕事もしてて子持ち。
しかも家族に問題を抱える人が多く、その辺でお互い、今の悩みや困ってることなど話して、どうにかなるもんでもないけど、心の重荷を下ろして、楽しく飲み食いしてきました。

みんな、大変だけど、頑張って生きてる。
そういう仲間が身近にいるというだけで、自分も頑張れますね。
次は忘年会だぁ〜という話になったので、ほんと楽しみ♪

その席で新しく友達もできたので、今後そういった付き合いも楽しみです。
たまたま、その彼女がコブクロファンで話も盛り上がり…

ああ〜またライブ行きてぇ〜
TVで観るより、やっぱ生がいいっすよ〜


2008年10月19日(日)



 恋に落ちてしまったんだなぁ〜

それはコブクロの小渕さんですが、携帯の待ち受けに使っています♪

それが…これが…照れてしまうのですよ♪
メールとか電話とかしようと携帯を開けると、バチっと視線が合ってしまって…あたふた照れてしまって、私の方は視線を外してしまうという…これマジっす!

おぅっと、メールだったメール…てな調子。

以前は、同じく小渕さんの画像を待ち受けにしてましたが、ライブでギターを弾いている画像で、うつむき加減でニッコリ笑っている画像で、視線は合わないので、やっぱりカッコいいなぁ〜とマジマジ見てたんですが、今度の画像はほんとに照れるなぁ〜

携帯を開ける度に、ドキッ照れっデレ〜としている私はおバカな女です♪


2008年10月13日(月)



 今、なぜ書くのか?

ここに書いたことはほんの一部。
私の覚えてることからハッキリとは覚えてないことまで、事細かに書くとまだまだあります。
一緒に暮らした26年間、良い思い出を探す方が難しい…

児童相談所に相談してみようという考えも浮かばず(知らなかった)、当時所属してた宗教団体の人に話しても気休めを言われるだけ(それでも具体的にはいろいろ助けてもらったけど)
誰に話しても何も変わらない、自分が変われば親も変わるかなと思ったけど、それも叶わず、早く大人になることだけを考え、じっと耐える日々でした。

”愛情が無い”ということを認めないといけない作業…

もうその作業は、私の中では終わっているので大丈夫です。
うつ病になる前後、その苦しい最中に何度も死にたい衝動を抑えながらやってきましたので。

母が亡くなった今、なぜこのようなことを書くのか?
今まで、BBSとかでは時々かいつまんでは書いてきたことだったけど、こうして自分のblogでまとめて書くことはありませんでした。

それは、母と私の違いを明らかに認識したいからかもしれません。
子どもを育てていく過程で、私も母のようになるんじゃないか?同じ道を辿るんじゃないか?それだけが心配でした。
でも、こうして母からされてきたことを振り返ると、いくらイライラしてるからって、ストレスが溜まっているからって、自分の愛する子ども達にこんな酷い仕打ちはできない、そう思うことができるから、母と同化しなくて済むから、それで書いているというのがあります。

振り返り思い出すのは時に辛いですが、それでも私としては自分の自信に繋がることなんですよね。


2008年10月12日(日)



 毒吐き

溜め込んでいても体に悪いので、毒吐かせてもらいます。

うちの母のこと。

チマチマしたイジワルはよくされてました。
本人は覚えてなかっただろうけど、私は受け流そうにも、その積み重ねで腹の中はいつも煮えくり返ってました。

小学5年か6年の頃。
学校から旅行(林間か修学旅行)に行って、母に喜んでもらおうと、少ないお小遣いでお土産を買いました。
可愛いファッションリング、それを入れる小物入れも買って、それに入れて母に渡しました。
どんな顔をして受け取ってくれるだろうとウキウキしながら。

母は私に向かって言いました。
『こんなオモチャみたいなの、大人のママがつけれるわけないやろ!
いらんわ、アンタがしとき!』
そうやって突き返されました。

確かに、子どもが持っていけるお小遣いの額は知れてる。
大した物は買えない。
母から見れば、ちゃっちいオモチャに見えたでしょう。
でも私は、子どもなりに一生懸命、母のことを思い、きっと喜んでくれるに違いないと悩みぬいて買ったお土産です。
それをありがとうも言ってもらえず、こんな返され方をして…

『なんで〜?ママにあげるぅ〜してよ〜せっかく買ってきたのにィ〜』
そう言っても受け取ってもらえず、私はしばらくそれを自分で持っていました。
でも、それを見る度に、悲しさや悔しさが込み上げてきて、ある日、ゴミ箱に投げ入れてしまいました。
その物は、もう私の手元にもないけど、鮮明に今でも思い出せて、嫌な気分が抜けません。

その出来事をチャラにできるほどの愛情も、母からはもらえず、ずっと心の深いところに溜め込まれていきました。


中学1年生の時、お昼は弁当か、学校の購買部でパンを買うかどちらかだったんだけど、ある日、母が弁当を作れなかったと言って、家にある菓子パンを渡されました。
うちの学校は校則がものすごく厳しくて、学校の先生も体罰は当たり前という厳しさでした。

私は中1で、当時の担任は生活指導の男性教師。

『こんなん持って行ったら、先生に怒られる。
アカンねん、規則で売店でパンは買わなあかんって言われてるねん。
絶対怒られる、パン買うお金ちょうだい』

『なに言うてるの!これ持って行き!
家にパンはあるねんから、わざわざ買うことないやろ!
お金が勿体ない!』

何度説明しても母は頑として聞き入れてくれず、私は仕方なくパンを持って行きました。
担任はお昼は教室に来て、生徒らと一緒に食べることが多く、私はどうかどうか先生が教室に来ないように、先生が来るまでに急いで食べてしまわなくちゃとか考えながら、とうとうお昼の時間が来て…

先生にはすぐ見つかってしまいました。
食べる前に…

『○○、これはなんや!』

『あのぉ…これはお母さんが持って…』

『親のせいにするな!』

そう言って、私はゲンコツをくらいました。
そして、売店に行ってパンを買ってこいと言われ、お金がないと言うと先生が貸してくれて、それで家から持ってきたパンは没収され…

家に帰ってから母に…

『やっぱり先生に怒られたやんか!
私のせいじゃないのに、ゲンコツされてんで、私!
売店でパンを買ってこい言われて、先生にお金借りたから返さなあかんねん!』

母は、『あっそ!』と言うだけでした。

『謝ってよ〜私に謝ってよ〜ママのせいやねんで、私怒られたの!』

『なんで、私がアンタに謝らなあかんの!
そんなややこしい学校が悪いねんやろ!』

S学園に行かなかったことの腹いせなのかどうなのか、一事が万事、こんな調子…


中学2年の時、私は一念発起して、勉強を頑張った時期がありました。
好きなTVもマンガの本も見ず、ひたすら勉強。
そして、成績がグンとUPして、いつもは中の少し上ぐらいの成績だったのが、クラスで2番の成績になりました。
先生もクラスの子も、そんな私の変わりようにビックリするぐらいでした。

私も嬉しくて、母に報告すると…

『ふん、2番やってんやろ?
1番ちゃうやん!
そんなんでいい気になってたらアカンで!』

担任の先生からも
『○○、今回は相当頑張ったんやろ?塾でも行き始めたんか?』
と聞かれるぐらいやったのに、母のこの反応には本当に力が抜けてしまい…

それでも、これにめげずに頑張ろうと、自分を奮い立たせたりしたものの、落ち込みがだんだん酷くなり、鬱状態になってしまいました。
そしてまた、成績が落ち始めました。
だけど、母への怒りというよりは、自分が本当に情けなかった。
負けてしまった…そう思って…


高校生の時、私は自分のお小遣いはアルバイトで稼ぐようになり、おしゃれにも目覚めてきた時期で、私はそのお金でスカートを買いました。
1度はいて、結構奮発したいい服だったんで嬉しくて♪

そして洗濯に出す時、ドライクリーニングのマークがついていたんだけど、そんなお金は勿体ないので、私は自分でお湯で手洗いをするつもりでした。
母には、『これ手洗いしなあかんやつやから、置いといてな、自分で洗うし、絶対やで』

そう念押しをしていたのに…
母はそのスカートを洗濯機で他の汚れ物と一緒に洗ってしまいました。
見事に縮んでしまったスカートは、1度はいたきりで着れなくなってしまい…

『なんで?あれだけ頼んでたのに!』

『知らんわ、そんなん!
アンタが、こんな洗濯機で洗えないような物買ってくるから悪いねん!』

『私の働いたお金で買ってんで!
弁償してよ、弁償してよ!』

『なんで、私が弁償しなあかんねん!』
母はそう言って、私を睨みつけるだけでした。

悔しくて、悲しくて…
でもまだ、この頃は母の愛情を信じていた時期でした。
父からの暴力に、私が体を張って守っていました。
母には幸福になってほしいと、本気で思っていました。

母の日、誕生日、やっぱり迷いながらも傷つきながらも、形に表していました。
でも、私のそんなささやかな気持ちが報われる日は来なくて、母に背中を裁ちバサミで刺された時、かろうじて繋がっていた私の中の糸がプツリと切れてしまいました。


2008年10月11日(土)



 ”純粋”という言葉

学会員は何かと”純粋”という言葉で片付けますが、本当にそれでいいんでしょうか?

狂信・妄信的に信仰活動をしている人。
それだけではなく、家族や周囲の人を傷つけ、犠牲にしてまでなされる信仰活動。
自己中心的に捉えた思想・哲学の押し付け。

純粋の意味を辞書で調べてみると
1、混じりけがないこと。
2、邪念がなく清らかなこと。

*純粋理性
<ドイツのカント哲学の用語>
経験から独立した先天的理性の能力。

純粋という言葉の意味を考えても、狂信者に当てはまる言葉ではないと思えます。
その言葉が免罪符になって、組織内では許されている現実があるのではないか?
そんなものは、一般世間には通用しない話です。

純粋という言葉で、自分を納得させたり、周囲を納得させたり、それは横暴というものでしょう。
長く組織の中に身を置き、その中で使われる言葉をずっと聞いていくうちに、それが常識のように思ってしまう。
あたかも道理に適った正しいことのように感じてしまう。
そこに何の疑問も感じなくなってしまう。

そうやって、組織内で自分の考えや意見を持ち、行動していくという責任から知らず知らず逃れ、漠然とした幸福感に浸っていくのか…
そして、何の疑いもなく、組織の奴隷となっていくのか…

言葉一つとっても、私はしっかり考えていけるような人間になりたいです。


2008年10月10日(金)



 生活習慣病が怖い年齢になってきました

父が糖尿病だったこともあり、私も十分気をつけないとね。
好きな物を食べれなくなるのは、ほんと辛いもんね。
何より合併症が怖いし。

訪問看護で車移動で運動不足だったのが、病院勤務になりちょっと解消はされたけど、まだ以前の運動量からしたら全然足りない感じ。
でももう、そんなに若くないし、同じことしろと言われてももう無理だけど。

一番痩せてた時で勤労看護学生だったんですけど…

自宅から駅まで自転車で15分かかるところ飛ばして10分。
駅から勤務先の病院まで徒歩3分を全力疾走。
更衣室の6階まで階段で駆け上がり、着替えたら2階の詰め所まで駆け下りる。

仕事が午前中で終わると、学校があるので急いで駆け足で駅に向かい、乗り換えもギリギリなので常に駆け足。
仕事中もハードで歩きづめだし(外来)、これで痩せないと変ですよね〜

今は職場の病院まで自転車で5分(全力疾走)
更衣室が3階(普通に歩き)
仕事中は時々4階の病棟を階段上がったり下りたりはするけど、以前ほどハードなことはないですね。

あとは食事に気をつけるっと!
炭水化物が多いのと、間食が多いのと気をつけないとね〜
アルコールは好きだけど、基本私は晩酌しないので大丈夫っと♪


2008年10月08日(水)



 今年はおせちでも…

結婚して丸12年。
旦那の京都の実家に帰るため、自分でおせち料理を作ったことはなかった。
でも、いつか作ってみたいと思っていた。

京都の実家のおせちは、そうね…
おせちって各家庭違うから、私的にはやはり幼い頃から食べ慣れてるおせちが食べたいのよ。

うちの場合、父が料理人だったからおせちは父が作っていた。
まぁ〜普段から父が作ることが多かったわけだけど…
父に比べると、母はあまり料理が上手くなかった。

今年は母ももういないし、私がおせちを作って妹の所に届けようか。
不思議なことに、舌が覚えているのよね。
おふくろの味ならぬ、おやじの味。

2008年10月07日(火)



 お受験シーズンですね

うちの職場のドクターがオペ日やというのに、小学校受験で親子面接があるとかで、オペ終了後、慌てて飛んでいきましたわ。

受験というと、私には苦い思い出がある。

小学校5年生の時、クラスの何人かが塾通いを始めたりして、今まで一緒に遊んでいたのが『塾があるから』と断られることが増えてきて、その同じ塾に通う子たちが楽しそうに塾での様子を固まって話しているのを聞いて、私も行ってみたい気がした。
親(特に母)に頼んでみたけど、『お金がかかるし、勉強なんか自分さえやる気になったら、塾なんか行かんでもできる!』と言われ、仕方なく諦めた。

そして6年生になって、あれは夏の終わり頃だったかな?、母が急に私に家庭教師をつけると言い出した、S学園を受けろと。
5年生の時、別に私は中学受験をしようと思っていたわけではなかったけど、あの時、あれだけ塾に行かせてと言っていたのに、あれは何やったんやろう?と思いながら、『友達と離れるのは嫌やから受けへん、受けたくない』と言ったけど、そんなことは聞き入れてもらえず、とにかく説得されて受けることになった。

家庭教師といっても、それはちゃんとした家庭教師ではなく、うちの親がやっていた居酒屋(喫茶店から引っ越して居酒屋をしていた)のお客さんが義理で教えてくれるというものだった。
確か東大かどこか有名な大学出身の人で、まだ大学卒業したてかなと思われる若い兄ちゃんだった。

たぶん安いバイト料で雇われたんでしょう。
のそぉ〜とした、ボソボソ小さい声でしゃべるような、どこかやる気のなさそうな人だった。
私は部屋にその若い男性と2人きりにされて、ほんと緊張したのを覚えている。
小学校6年生、そろそろ意識し出す頃で(初潮も始まっていたし)

家庭教師といっても、ほんの数回来てただけで、ほんと勉強を教えてもらったという感覚はなかった。
ただ、その受験する中学の過去問を解くだけ。
『結構、難しいな…えっと…』
そう言って、その男性は1人でその問題と格闘し、私にその答えを言うだけ。
自分だけわかって、『こうなるねん、わかった?』
今考えても、あれは教えてるとは言わんよ。
親には『おとなしい子やね、あまりしゃべらんから…』とか何とか言ってたらしい。

過去問はそんな感じで、全然理解できないまま。
小学校の今まで一緒に遊んでいた友達も、私が中学受験すると言ったら、『どうせ、私らとは一緒に通わんねんやろ?』と言って、急によそよそしくなって気まずい雰囲気だった。
『中学に行っても仲良くしよなぁ〜』と言い合ってる友達の横で、私はたまらなく寂しく悲しい気持ちだった。

もう私には居場所がない…
かといって、過去問が全然解けないのに受かる気もしない、どうしよう…
そんな中、母だけハイテンションで、学園に受かった後のことをあれこれ考えウキウキしているようだった。

『ママ、だんだん確信湧いてきたわ〜アンタが学園絶対受かるって、絶対大丈夫やわ♪』
私は逆にどんどんテンションが下がっていった。
『祈ったら絶対叶う、受かる』、そう言って一緒に仏壇の前に座らされたりもした。

そして受験。
案の定、あまりできなかった。
面接でも、その自信のなさが出ていたと思う。
ハキハキ明るく受け答えする子たちの中で、私は1人暗かった。

合格発表の日、記憶は定かではないけど、確か学園まで見に行ったんちゃうかな?
結果は不合格。
試験ができていなかったことは、自分が一番よくわかっていたけど、それでもショックだった。
小学校の友達に不合格を告げるのもバツが悪いし、また受け入れてくるかどうかも不安でたまらなかった。

それだけなら普通に落ち込んでしまいやけど、さらに追い討ちが…
合格発表の結果を見るまでハイテンションだった母が一変!

『ママ、せっかくアンタが合格すると思って、一生懸命祈っていたのに!
アンタが勉強ちゃんとしやへんから!
アンタは何やらせても、まともにできひんな!
ほんとガッカリや!
アンタ、ろくな人生歩めへんわ!
最低の人生歩むわ!
学園に入っていたらS大まで行って、それで最高幹部になって、最高の幸福境涯になっていたのに!
もう、アンタは知らんわ!』

そうやって、母は私が不合格になった途端、落ち込む私に向かって、さらに頭の上から罵り続けました。
受けるの嫌や嫌やと最初抵抗していたのに、それでも仕方なく、であっても、私も受けるからには受かりたくなって、その気に少しはなっていて、でも自信はなかったけど…
あの時の気持ちってなかったです…涙も出なかった。

あとは友達の反応が怖かったけど、ダメだったと伝えると…
『残念やったなぁ〜でもまた私らと一緒に学校通えるやん。
良かったって言ったらあれやけど、また仲良くしよな♪』
そう言ってもらえて、私はいくらか救われました。
でも母から言われた言葉は今でも、頭を離れない…

あの時から、私は些細なことでも何でも失敗したり、上手くいかないことがあると、母から言われたあの時の言葉を思い出して、落ち込みが激しくなって鬱状態になることが多かった。
そこから立ち直るのに、ものすごいエネルギーと時間を要した。
頑張っても頑張っても、出た結果の喜びよりも疲れがドッと出て、何に対しても達成感はなかったなぁ…

今は少しずつ、そんな自分ともお別れしつつあります。
普通に自信と達成感と喜びと、そういう感情を感じていきたい、これからは…


2008年10月06日(月)
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