Comes Tomorrow
ナウシカ



 現場レベルで進化し続ける医療

私が看護師として働いていて思うのは、毎日一瞬一瞬、より良い方向へと検証し、進化し続けているのが医療の現場ということです。

今は総合病院の眼科外来にいるのですが、白内障手術とかで使用していた眼内レンズ。
うちの眼科医に聞いたんですが、ほんの数年前まで使用されていた眼内レンズは、年数が経つと濁ってきて再交換が必要になる代物でした。
でも、当時はそれが良いものとして、多くの患者さんに使用されました。

その後、この眼内レンズは問題ありということで、その眼内レンズを入れて交換が必要になった患者さんには、無償で交換(会社持ち)されることになりました。
しかし医師側に周知徹底されていなかったので、全ての患者さんが無償で再手術を受けられたわけではありませんでした(なんていうこと!)
今は良い眼内レンズが出ていて、半永久的に使用可能になっています。

あと緑内障治療で使われる眼圧を下げる点眼薬。
これも治療効果を病院側とメーカー側で意見交換をし、日々変化していってます。
薬の名前は一緒でも、中身は微妙に変わっているんです。
患者さん側には、そういう細かい情報はいかないですが、医師も様々な症例に対し試行錯誤しながら使用し、時にはメーカーに注文をつけながら開発をしています。
料金も新薬なのに低料金に抑えたりなど、良い薬が広く普及するように、実は設定努力されていたり(これは良い例)

この世界は日々日々新しくなるので、学校で1年前まで習っていた教科書の内容が、現場ではもう通用しないということもざらにあります。
それぐらい目まぐるしく変わる場所です。

公式文書として、こうだ!と発表して、普遍的にそれを実行するというのが難しい現場であるし、またそうであってはいけない現場であり、常に真摯に検証、研究していくべき分野であると思います。
それだけに、安易に事故と片付けてほしくない問題ではあります。

大野病院の件で今後、癒着胎盤という難しい症例の場合、どうするのか?
これは大きな課題だろうと思います。

日本は医療が進んでいると言われるけど、ある大病院のことですが、ガンマーナイフなど最新の医療機器を何台も備え付け、どんな重症患者がきても、これで治せる!そういう謳い文句で開設された病院がありますけど、実は蓋を開けてみたら、それを使いこなせるだけの医師が足りません。

医師数が足りないのと、指導医が少ないのと、その機器を置いている施設が少ないので、それを使いこなすための技術がなかなか身に付かないのと諸々で…
よって宝の持ち腐れ…

高額な医療機器を使えないのに持つに至った病院の医療費は高騰していて、そういう治療を受けられないのに(医師がいないのに)、その病院に受診する患者さんは高額の医療費を支払わないといけません。

ほんと問題は山積み。
私は一看護師として大したことはできないかもしれないけど、でも現場でできることは何でもやっていきたいと思っています。
毎日毎日が勉強です。


2008年08月31日(日)



 人間も動物のはずなのに、なぜ違うんだろう?

倉庫の荷物は水曜には全て片付いて、あとは実家のみ。
実家の団地は、私がいた頃の棟とはもう違っていて、足に障害のある妹に合わせて1階に引っ越しています。
その部屋が小さい部屋も含めると4部屋あるんですが、やはりそこも荷物で溢れかえってます!

急ぎはしないけど、やっぱり片付けていかないと、完全スッキリとはいかない。
自分の家もたいがい片付いてないのに、実家の方が気になるね。
今年中には片付けて、お正月には実家で少しでも過ごせるといいなと思います。

年末年始は、いつも調子が悪くブルーになっていたけど、来年は大丈夫かしら?

倉庫の荷物は大事なものはほんの少しだけで(ダンボールにしたら2箱ぐらい)、あとの数十箱はゴミとして処分されます。
古本屋にも出せない書籍の数々。
ただ溜め込まれただけの新聞・雑誌類。

『私が片付けてあげるから』と言うと、『おまえの大事なもの、全部捨ててしまうからなぁ!』と脅されてできなかった、実家にいた頃。
とうとう死ぬまで、そのままだったのね。

静岡の方には(富士墓園だっけ?)墓があるんだけど、障害のある妹が到底通える感じではなく、実家からすぐ近所の納骨堂に入れることにしたらしい(学会員さんの勧め)
だから、墓に入っているのは父の養母だけ。

父の実母も亡くなったら入る予定になっていたらしいけど、妹の話によると『あそこには入りたくない!』と言ってるらしい。
どういう心境なのか…
まぁ〜父の家庭もいろいろと複雑だったわけですけど。

生とか死とか、他の動物と同じように自然体な形で、そこに横たわり食われる方がいいなぁ〜なんてことを思ってしまう。
葬儀とか墓とか、そういうもの何のために必要なのか…
お金はかかるし、周囲に気を使ったりもするでしょ?

故人を偲ぶなら、もっと何か違う方法がいいなぁ〜と思ってしまう。
まさに儀式とか慣習とか、そういうものに懐疑的。
でも本当に大切な人を失ったら、また違ったこと思うかな?
勝手な生き物だ。


2008年08月30日(土)



 今日の収穫!?

新聞の束々、大白蓮華、潮、SGIグラフ、学会書籍など数箱。
いったい何年分あったのか不明。
シナノ企画のビデオ数本。
封が開いてない物も結構ありました。

一般の書籍はほんの数冊。
ほとんどが私と妹の。
学生時代の参考書も出てきました。
古過ぎて、人には譲れないな、たぶん。

おお〜と思ったのは、小学校時代から中学時代の文集やら卒業アルバムが出てきたこと!
ここ最近、小学校時代の友達や中学時代の友達と偶然の再会(ネット上だけど)をしていて、遠い記憶を呼び覚ますような懐かしい気持ちになっていたので、まさにタイムリーな見っけモノ♪

もう疲れもぶっ飛び、アドレナリン放出!
そんな最中、ダンボールの重い箱を移動中、足元のコンクリートブロックに蹴つまずき、足を怪我してしまいました。
素足にサンダル履きだったから、結構出血もしちゃったんですけど、これが痛くない!

おお〜スゴイ!
よくスポーツ選手が試合中とか集中してて、痛みを感じなくなるとかいうけど、ほんとにそういう状態みたいで。
気持ちも乗ってきたので、しばらくそのまま作業続行。
血でサンダルがべちょべちょするなぁ〜と思ったけど、痛くないもんで。

まぁ〜でも、こんな薄暗いダンボール箱に囲まれた倉庫で、今地震が来たら間違いなく私は死ぬなぁ〜なんて思いながら、それでもせっせと中身の確認作業と整理をしてましたわさ。

でも夕方、保育園のお迎え時間が迫ってきて、そろそろ撤収と思って持ち帰る荷物を運び出す頃やっと、足の痛みが感じてくる。
ああ来たっ…ズキズキ!
しかし血が出た割には、そんなに大した傷でもなく、車をちゃんと運転して帰りました。

この作業中、私の頭の中でずっと流れていた曲は…


コブクロの『どんな空でも』

「いつしか晴れるよ どんな空でも
僕等はおんなじ 光を分け合ってる

流れる時代のスピードは 日増しに上がってゆくけど
気持ちばかり先走って大事な自分を 置いてきぼりにしないで

脳みそじゃ感じ取れないもの この心だけが感じ取るもの
世の中には 沢山 有りすぎて
やせ細ってしまいそうさ すり減ってしまいそうさ
それでも 心は騙せない
〜〜〜〜〜〜
世界はおんなじ過ちを繰り返すけど
君にはおんなじ涙は もう 流させはしないよ
どんなに大きな温もりの中より
愛する人の小さな手を 握っていたいものさ」


最初は本当に億劫で、気があまり乗らなくて、イライラして鬱になりそうで…
だけど、どうせやるなら楽しみながらしようと…

そしたら、沸々と力がみなぎってきて、ヨッシャってやる気が出てきて、なんかもうスカーっと空が晴れ渡るような、そんな気持ちになってきて…
歌の力も借りながら、多くの友人の顔を思い浮かべながら…


2008年08月26日(火)



 気合だっ気合だっ気合だぁ〜!

…てなわけで、実家の倉庫の荷物整理ならぬ中身確認に行ってきました。
気は重おもダルダルだったけど、貧血バリバリふらふらだけど、薬は便秘になるので飲みたくないし、気合だぁ〜肉だぁ〜と昼間っから、ヘレステーキ肉を2枚も食べて、エイヤっと行ってきました!

ほとんど捨てるものばかりかなぁ〜と思ったら、いやいやどうして出てくる出てくる。
商品券1万円相当!
デジカメ!
やっぱりダンボールの中身確認して良かった♪

あとはアルバムやら本やら、学校の卒業証書。
私の結婚式のアルバムまであった。

まだまだほんの一部。
頑張らないとね〜


2008年08月24日(日)



 蘇える記憶

こないだ10年ぶりに実家に足を踏み入れたせいか、いろんなことを思い出す。
オリンピックを観ていても思い出す。

子どもの頃、習っていた水泳(小学校)
休み時間にやっていたバレーボール(中学)
クラブでやっていたソフトボール(高校)
放課後、男子に混じってしていたサッカー(高校)

こう書くと、すごいスポーツウーマンって感じだけど、どれも中途半端なんだな。
成し遂げることができなかった夢。
それぞれに続けたいことはたくさんあって、でもいろんな障壁があって出来なかった。
それだけが、どうにも悲しく悔やまれる。

自分が原因のこともあるし、環境がそうさせたこともある。
もう、そういう悔しい思いはしたくない。
今しかできないことってあるしね。
いくつになっても出来ることもあるだろうし。

実家の荷物の整理は、まだ出来ていない。
整理できる喜びはあったんだけど、いざとなると気が重い。
疲れがドッと出る。
ストレスなのか、手荒れで痒い。

妹も、誰に邪魔されることもなくなったので、テンションが上がってるのか、焦ってるのか、いっぺんに物を片付けようとしている。
リサイクルショップなど、あちこち電話して手配してる。

私は話を聞いてるだけで、疲れてくる。
もっとゆっくりしよ。
少しずつしよ。
疲れてしまうよ。


2008年08月23日(土)



 ありがとうございますm(_ _)m

涙が止まりません…

母が亡くなってから約3週間、一度も涙を流していなかったんですが、やっと泣きました(T-T)
なんの涙なのか、よくわからないけど、ただ悲しいだけの涙でもなく、嬉しいような涙でもあり、でもそれともちょっと違うような複雑な気持ちです。

こういう日記を書いていると、思わず温かなメールやコメントを頂きます。
ほんと有難いというか、正直ビックリしてしまうんですけど、生きる力をもらいます。

みんな、幸せな家庭に生きているんだろうな、私とは違うんだよなぁ〜と思っていたら、そうでもない体験を聞かせて頂いて、何とも言えない気持ちになります。

なんか自分のこととなると感情が麻痺して、悲しくも何ともないんですけど、人のこととなるとダメですね。
これって心理学的にどうなんだろう?

書きたいことをずっと書けなかったこと、これからは少しずつ整理して書いていけそうです。
そうすることでまた、次の一歩を踏み出せるような気がします。


2008年08月22日(金)



 無罪になって良かった

帝王切開で失血死 医師は無罪
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080820k0000e040014000c.html


私も詳しく知らなかったんだけど、癒着胎盤だったんだ。
それは大変だったでしょう。
前置胎盤とか、ただでさえリスクがあるのに。

うちの産婦人科も先月休診になっちゃって、いつ再開できるかもわからないし…
総合病院に戻ってみて、医師不足の深刻さは私が思ってた以上でした。

うちの眼科の先生と話していると、産婦人科、小児科だけでなく全体的に医師は減っているということでした。
逆に増えている科もあるということで聞くと、皮膚科、美容外科が増えていると。
この科は夜勤や救急が必要ない?とかで、まだ成り手が多いのだとか。
美容外科だと、保険適用外の収入も大きいのでしょうね。

大学ではある時期、医師確保のため開業禁止を数年間しいていたらしい。
それを解禁にしたら、17人も一度に大学を辞め開業しはったそうで、大学側も大慌てで、民間の病院に行っていた医師たちを呼び戻したとか。

大学病院は重症患者が運ばれてくるし、民間の小さな病院では治療できない患者を診ます。
まずはそこを確保することが大切だと。
そして民間病院の医師不足になり、次々閉鎖になっていく。

うちの眼科に来た先生も、3つの病院を提示され、どこに行く?と聞かれたそうです。
そして、自宅から一番近い病院を選び、うちの総合病院に来たとのこと。
近いといっても、通勤に2時間弱かかるらしいけど。

あとの2つは眼科閉鎖ですよ。
医師がいないんだもん。

客診の先生も来てるけど、この先生も2時間ほどかけて来てくれてますね。
他とかけもちだから、いつも眠そうな顔して来られます。
ほんと可哀想なぐらいです。

ある時は、2人の先生で外来と夜勤を回してる時があったみたいで、ほんと寝る間もなく大変だったと言われてました。

今から何か(政治的な)対策を講じたとしても、医師が育つまでに10年はかかるということで、こんな状態は10年続くと言われてます。
医療崩壊は、なかなか止まらないですね。

都会の病院ですらこうなんですから、地方なんかはどういうことになるでしょう。
ほんと怖いです…

おっと話が逸れてしまったけど、何でもかんでも医療ミスだと騒ぐのはどうかと思うよ、マスコミさん。
ご遺族の気持ちもわかるけど…
警察も警察ね。
ちゃんと調べてから逮捕してね。


2008年08月21日(木)



 『自律』

母を 母と思えない悲しみは
とっくに どこかに置いてきた

父を 父と受け入れられない痛みは
とっくに どこかにやっちゃった

私は 私らしく生きていくために
母親になるために
そういったものと 決別したのだ

娘であり続けることが 苦しくて
早く大人になりたくて
そして 今を生きることにしたのだ

自分の人生に 責任をもつために
未来を 歩くために


2008年08月20日(水)



 母のこと

母は昭和18年の戦中生まれで、台湾で生まれました。
ビルマに戦争に行っていた祖父が、台湾で日本人女性と結婚し生まれたのが母でした。

戦後、台湾から日本に引き上げてきて貧しく苦労して、祖母は母が11歳の時に病気で亡くなったらしいです。
母には年の離れた幼い妹と弟がいました。
叔父はまだ赤ちゃんで、祖父は生活のために働きづめだし、母は中学にもろくに通えず、妹と弟の面倒を見ていたようです。

母は住み込みで働きながら看護学校に通っていたようですが、祖父たちと離れて暮らしているのが寂しくなって、また職場と学校の厳しさに耐えられず中退してしまったようです。

苦労はしてるけど、特に虐待らしきことはなかったようなんですけどね。
叔母と叔父は、普通に心優しい人で私は大好きでした。
祖父もほんとに温かな優しい人でしたよ。

母だけが他人に厳しく、冷たい感じの人でした。
叔母も叔父も、その辺はちょっと困っているようでした。

そして父…
父はもっと複雑な家庭で育った人なんです。
これは追々に。


幼い頃から、親の代わりとしての役割をずっと担わされてきて、甘えるということを経験してこなくて、それで母だけちょっと歪んでしまったのかなと思います。

記憶が曖昧なので、もし間違っていたらごめんなさい。
以前、TVでナチスドイツで強制収容されていた生き残りの方の半生をドキュメントで紹介している番組があって、その女性は幼い時に姉妹で収容され、両親は別々の収容で死に至り、一緒に収容されていた姉?も亡くなり、彼女だけ生きて保護されたんです。

その後、成人して結婚し、子どもも3人ぐらいだったか産み育てるんですけど、壮絶な体験の後遺症なのでしょうね。
子ども達に対して、ものすごく冷たい母親だったそうです。
3人とも、母親の元から去り、2度と会いたくない、親とも思っていないと言って、TVではコメントを託しただけで、インタビューにも現れませんでした。

子ども達は、歴史としては母親の壮絶な体験を知っているけど、それでもどうにも超えられないものを抱え、子ども達も傷ついて、母親の元から去っていったんです。

本人は収容所から解放されて以来、全く笑うことができなくなったようで、能面のような表情でインタビューに答えていました。
専門家の治療も受けているようでしたけど、だからといって失った感情?人格?は取り戻せていないようで、成人した子ども達は怒りと失意のうちに、母親の元から去っていきました。

せつないですね。
でも、その子ども達の気持ちもわかる…


2008年08月19日(火)



 10年ぶりに実家へ

私の荷物が結構残っているのです。
アルバムやら、友達からの手紙や本、マンガなど。
団地の部屋に入りきらなくなった荷物を、母は貸し倉庫まで借りて保管してたのです。

私が結婚して実家を出る2年前から捨てなくなったS新聞の山と書籍、ビデオの数々。
全部学会関連。

貸し倉庫を借りる前、3畳の部屋に詰め込んでいたそういった荷物のせいで、私は全然自分の荷物を整理することも触らしてもらうこともできず、ほんと悔いが残っていました。

母は狂信的に『生涯の財産だ、福運だ』と言って、14年間も貯め続けたのです。
そのおかげで、自宅はゴミ御殿。
ダニとゴキブリの巣窟。
私も妹も喘息を発症したのでした。

私が実家を出てから、ますます母の狂信さに磨きがかかり、誰も歯止めにならず、ますますガラクタは増えていき、貸し倉庫に貯めていかれたのです。

妹のためにと、近所の人がくれた自転車も倉庫に入れたままで、手前にある荷物のせいで出せず、乗れずじまいだったとか。
ほんとに全く!

やっとやっと手付かずだった、触らしてもらえなかった自分の荷物を整理できる!
不謹慎と言われるかもしれないけど、母が亡くなった悲しみは全然なくて、私は喜んでいます。

電話の妹の声も明るかったな。
母が生きてた頃より、しっかり話せてた。
ドクター部で精神科医の先生が以前言ってたんですけど
『お母さんが亡くなったら、妹さんの病気は良くなるよ』と。

14年間、大事に大事に『福運になる、生涯の財産』と言って貯めてきた新聞、書籍、ビデオの山は、ゴミ回収業者が見積もりしてくれて捨ててくれます。

たぶん、一度もページを開いていない本、一度も見ていないビデオがたくさんあることでしょう。
それが生活保護のお金を借りて、ゴミとして処分されます。

何が福運!何が財産!
当の本人はガン末期で苦しみ抜いて亡くなりました。
非情と言われても、私は同情もできないです。
それで家族皆、大変な思いしてきたのですから。

でも学会に恨みはありません。
母が勝手にやったことです。
障害を持っている妹。
組織の人に助けてもらったことの方が多いです。

これからは伸び伸びと妹とも交流して、私たち姉妹、自分らしく過ごしていけるだろうと思います。
長かった…だけどまだまだ私たちの人生は続く…
まぁ〜そうはいっても寿命なんて誰にもわからないけど。

少なくとも、もう親の影響は受けません。
人から理解されなくてもいい。
これが私と妹の人生だから。

******

実際に昨日、実家の部屋と倉庫を見に行って、それこそ疲れが倍増…
取り合えず、私の高校時代のアルバムは見つかり、だけどその他のアルバムは見つからず、倉庫かな?たぶん…

倉庫も初めて足を踏み入れたけど、とてもじゃないけど1日やそこらでダンボール箱の中身は確認できない!
手前の箱だけ覗くと、調味料や洗剤がたくさん入った箱も…
洗剤はまぁ〜使えるとしても、調味料は無理ね。

父の荷物も見つかった。
父は、母と違って几帳面な性格だったので、箱の中に入っていてもちゃんと整理されている。
中にはアルバムやら、いろいろ書類みたいなのも入っていたから、それだけ持って帰ってきた。

今月は、そういう作業に追われることになりそうです。
今年の夏は、忘れられない夏になりそう。


2008年08月18日(月)



 ポーニョポニョポニョ♪

http://blog.goo.ne.jp/release-heart/

先日、子ども達を連れて、映画『崖の上のポニョ』を観てきました。
この絵は8歳になる娘が、ポニョの絵を見ながら描いたもの。
ちょっと似てない?よく描けてるでしょ?(親バカ)

ポニョの映画を観に行く前に、5歳になる息子が
『みうちゃんもポニョみにいくっていってたで〜あえるかなぁ〜?』と言うので
『行くって言っても、どこの映画館行くかわからへんし、時間も合うかどうかわからんし、会われへんのちゃう〜?』と言ってたら

まぁ〜なんと同じ映画館、同じ時間帯、2シート挟んでお隣じゃあ〜りませんか!?
まぁ〜なんていう偶然でしょうか!
奇跡に近いですね〜

みうちゃんというと、おめめパッチリのかなり美形の可愛い子。
うちの子、好きなんですって。

映画のあいだ中、しょっちゅう横を気にしながら見つめ合う2人。
まさに宗介とポニョでしょ!
うちの子とみうちゃんも5歳だしね♪

まぁ〜まぁ〜映画も微笑ましかったけど、目の前で展開してる5歳児の恋も微笑ましかったですよ♪


2008年08月16日(土)



 愛されていると感じる瞬間ランキング

愛されていると感じる瞬間ランキング
http://ranking.goo.ne.jp/ranking/s001/koi03_003/

1 抱きしめてもらったとき
2 自分が何気なく言ったひとことを覚えていてくれたとき
3 手をつないでいるとき
4 自分のために大きな決断をしてくれたとき
5 「愛している」と言ってくれたとき


なるほどね…
わかるような気がする。

幼いとき、あまりそう感じたことはないな。
求めても仕方がないので諦めてた。

せめて私が今できることは、自分の子ども達にしてあげること。

母が今月2日に亡くなり、気持ちの整理がついたら、追々書きたいと思います。
父のこと、母のこと。


2008年08月15日(金)



 電話オフ

とうとう電話が鳴らないように設定しました。

昨日は私が女子部時代の区女から電話があり(旧姓聞くまでわからなかった)、適当に話を聞き流して、お気持ちに対してだけ”ありがとうございました”と言って、電話を切りました。

今日は私が未来部の頃からお世話になっていた婦人部の人。
誰一人、私の心を理解する人はいないでしょう。
どんな言葉も、私を動かすことはないです。

感情も閉じてしまったので、何も感じることはない。
昔からそういう対処には慣れているので、演じるというよりはもうそれが当たり前の感覚になっていてね、演じてるという実感はないんですよ。

逆に、私が本当にしんどい時、辛い時、ただただ私の話を聞いて励ましてくれた人、私が寒空に着の身着のままで家を追い出された時、家に泊めてくれて、着替えを貸してくれて、食べさしてくれて、家に帰れる手はずを私の立場で整えてくれた人は、今は何も言ってこない。

”何もない”ということが本当に有難いんです。
こういう時、世間一般的な言葉とか、その人自身の感覚で吐かれる言葉は、私には何の意味も持たないのです。

父の時と同じく、静かに時を待つだけ。
私はもう、今と未来しか見てないんです。
過去はもういい。
過去の人はもういい。


2008年08月02日(土)
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