Comes Tomorrow
ナウシカ



 支配的な親子の絆ならいらない

私の実父はもう亡くなったんだけど、まだ旦那には話していません。
バレない限り話さないつもりでいます。

通夜にも葬式にも行きませんでした。
父とは元気な時に和解もしてましたし、電話では時々話もしていました。
子どもが生まれた時、父には 『うちに見に来る?』 と誘っていました。
でも 『いや、いいわ』 と断られました。
私は初孫なのに、まさか断られるとは思わずに、しばらくビックリして絶句してしまったのを覚えています。

父とはそれっきりになり、会うことはありませんでした。
電話もなくなりました。

そして実母。
母とはもう9年ほど行き来していません。
ある日、私が結婚して1〜2年ほど経った時、旦那の実家の両親と母が電話で話したそうなんですが、私の悪口を散々義母に話して聞かせていたらしい。

義母はそのあまりの酷さに 『それでも、あなた母親ですか!あなたとは今後一切お付き合いしません!』 と言って電話を切り、それから旦那の実家とは縁を切られてしまったらしい。
私はそのことをずっと知らなくて、数年後に知ることになったのだけど。

私もその前後ぐらいに、うつ病をキッカケに母とは口を聞けなくなり(拒絶反応です)一切の行き来を断ちました。
旦那の両親は本当にいい人で、私の前で親の話をすることはありませんでした。
初めての子どもを産む時も、最初の陣痛が来た時は義母が京都から来てくれました。
うちの母の文句一つ言わず、事情も何も聞かず。
本当に有難かったし、感謝しました。

そんな義母、今はアルツハイマーでボケが酷くなって大変なのだけど、今でも心優しい人です。
私が26歳で結婚してから初めての母の日に、義母に何か贈ったら(花とハンカチか何かだったと思う)私にニッコリ笑ってみせて 『ありがとう』 と本当に心のこもった言葉をかけてくれて、私は涙が溢れそうでした。
うちの母からはそんな風に言われたことなくて、初めてのことだったので、こんなに心のこもった言葉はないと思って感激して、今でも思い出すと泣けてくる。

うちの母はというと、何か贈り物をしても 『こんなしょうもない物いらんわ』 とか 『こんな物でママが喜ぶと思ってるの!』 とか、感謝の言葉どころか罵倒を浴びせられ、深く傷つきました(小学生の頃です)
それでも私は、結婚して大人になるまで、事あるごとに贈り物をしたんです。
毎回毎回、胃の痛むような思いをして。
今度こそ気に入ってもらえるだろうかとか。
真心は全く通用しない人で、なんで私はこんな思いをしてまで贈り物をし続けないといけないのかと思ったものでした。

私が看護師の資格を取って給料をそこそこ貰えるようになると、高額な物を買って贈るようになりました。
そのとき初めてですね。
母が嬉しそうな顔をしたのは…いやらしい顔だった。
物かよ!って。

真心とか、私の思いとかは全然関係なく、高価な自分の気に入る物なら良かったのです。
私はそれ以来虚しくなって、母に贈るのは止めました。

母は私が結婚すると、旦那に二世帯住宅を建てて住まわせろと勝手なことを言ったり、勝手に私らのマンションに人を泊める約束をしたり(一緒に暮らしていないのに)合鍵渡せとか、もう危機感を感じた私は家に上げることも止めてしまいました。

時々、電話があるかと思えば、離婚した父の悪口か妹の悪口。
妹も電話してきたら、母の悪口。
私が一切の連絡を断っていても、妹からは度々連絡があって、母の行状を報告されました。
妹は母にいじめられて精神を病んでしまい、精神科の入退院を繰り返していました。

妹は私も知る精神科の先生に診てもらっていたのだけど、母も一緒に診察に行っても、先生は強く母に注意できなかったと言います。
それは先生が母に強く言うと、うちに帰ってから妹への仕打ちが酷くなるから。

妹をうちで引き取ろうとしたこともありました。
でも、一晩泊まっただけで、妹は実家に帰ってしまいました。
神経症だったし、母とは共依存関係で離れられなかったのだと思う。

福祉課の人にも相談して、グループホームとか手配してもらったこともあるけど、決まりかけると妹自ら断る始末。
頼んでいる時は本人もその気満々なのに、いざとなると全然ダメで。
私と反対バージョンですね。
拒絶ではなく執着。

私が実家にいる時、母はいつも私に言ってました。
『おまえは一家のガンや!悪魔や!』
私が何した?って感じ。
その母は今や、大腸ガンに冒され、肺と肝臓に転移してて、助かる見込みはありません。
まだ63歳だけど。
私のおじいちゃんやおばあちゃんよりも先に死にそう。

私は信仰心があるから、どんな病気も信仰で治すと言って、脳性マヒのある妹の体が治らないのは信仰心が薄いからだと、いつも妹を責めていた母。
その母が、全身ガンだらけ。

私にできることは、ただ祈るだけ。
最期ぐらい、まともな人間になりなさいよって。

自分も市営団地に住んでるくせに、同じ団地に住む人をバカにしていた母(離婚前は一軒家に住んでいたので、いつかまた大きな家に住むんだと言って、団地の人をバカにしてた)
今はそんな人たちの世話になっています。

最期ぐらい自分のやってきたことに気づいて、心の底から謝罪して感謝の心でもって逝ってほしいですね。
私は祈るだけ。

母と似たような人を見たり、電話で声を聞くだけでも体調を崩していた私です。
その事実に気づいてはないのだろうなぁ〜

父が亡くなった時、泣けないと思っていた私が泣けました。
ちゃんと泣いてあげたよ、これも親孝行でしょ?と思ったものでした。
たぶん、母の時も泣くでしょ。
私は私のできることを精一杯やる。
無理はしない。

私も母になったから、子どもたちのために倒れたり、うつ病になったりするわけにいかないからね。
娘としてボロボロに傷つくことより、ちゃんとした?母親でいることを選びます。
世間の常識は関係ない。
そんな感じ。

実は私も気づいているんですけどね
母親に対して、慈悲ではなく対抗意識を燃やしていること。

物心つく頃から常に否定的なことを言われていたから、自分を保つために生きていくために、母に対抗して常に 『勝ってやる』 という戦闘体制だったんですよね。

まだ試合中なんです。
試合が終われば、対戦相手と握手を交わし、肩を抱き合い、褒め称え、かもしれませんが…
でも、その時にはもう物体はなく、心中だけでかもしれませんが。


2007年09月26日(水)



 日本の柔道、大丈夫か?

ニュースで見たけど、世界は柔道のプロ化を狙っているのだとか。
そこで日本との折り合いがついていない印象ですね。

それにしても不正柔道着があったり、審判の微妙な判定が混乱をきたしてますね。
ちゃんと話し合って、決めてほしいですね。

実は昔、付き合っていた彼氏が柔道の選手で、強化合宿で金メダリストの山下さんにコーチしてもらっていたことがあるんです。
写真も見せてもらったことあるけど、そこには山下さんの対戦相手だった外人さん(名前忘れた)も写っていました。

山下さんの痛めていた足をあえて攻めずに、フェアな取り組みをしたとして、当時は美談になってましたね。
お2人は試合後も友情を育んでいました。
今の柔道界にも、そういうところを見習ってほしい(特に世界)



2007年09月18日(火)



 ハマる味

うちの子たち、私に似ず旦那に似たせいで2人とも背が低い。
何とか背が伸びてほしいと、ジュースは一切買わず牛乳を買って飲ませている。

まぁ〜2人とも嫌がらず飲んでくれるんで助かってる。
私も子どもの時はジュースよりも牛乳が好きで、牛乳ばかり飲んでた。
それが小学校に上がって、学校の牛乳がまずくって嫌いになってしまったけど。

それである日、いつもとは違うスーパーに行ったら、買い付けの牛乳がなくて違うのを買ってきたら、間違えて飲むヨーグルトを買ってしまって…
それがおいしいことおいしいこと♪

それ以来ハマっていて、特に4歳の息子が好きで、毎日グビグビ何杯もおかわりして飲んでます。
そのおかげかどうかわからないけど、身長がグンと伸びました♪
これは、ヤスダヨーグルト効果かな。
ほんと、そこらへんのヨーグルトと違っておいしいのでお勧めです!


2007年09月15日(土)



 外せないタイミング

先週の金曜日に急遽、実母の人工肛門・バイパス手術が決まり、その前々日から電話がじゃんじゃか鳴って、私の携帯電話の番号を知るはずもない人からも電話があり、参りました。
近所のおばさん、親戚のおばさん、自宅マンションにまで訪ねてくる人あり…実家にはうちの住所教えてないのだけど。

私はストレスで、両耳手術して治ったはずの耳がだんだん聞こえなくなり、これはヤバイと電話を鳴らないように音を切って、留守番電話も切ってしまいました。
手にも湿疹ができ痒くなったり…体には忠実に出てしまいます。

ただ一つ嬉しかったのは、音信不通だった香川の伯母から電話がかかってきたこと。
子どもの頃、夏休みになるといつも妹と一緒に遊びに行ってた。
5人いる従兄弟たちとも仲良くて…でも脳梗塞で倒れた祖父を大阪に引き取ってからは疎遠になってた。

あれは何年前だったかな、たった一人いる女の子の2歳下の従妹が結婚して子どもを産んだ後しばらくして、ご主人が自殺して亡くなってしまって…
どれほど打ちのめされ、心細い日々を送っているだろうと心配していて、すぐにでも飛んで行ってあげたかったけど、それも叶わず、ただただ祈る日々だった。
伯母(従妹の母親)も精神的に参ってしまい、うわ言みたいにブツブツ言うようになっていたみたいで、心配してた。

それが今回の電話で連絡先もわかったし、『うちも色々あって…』と言いながらも、以前の割と元気な声で安心しました。
私と母の確執はわかってくれているけど、でも、うちの母と幼い頃しか一緒に暮らした経験のない伯母には到底わからないことがある。

その点、一緒に暮らしたことのある伯父はわかってくれている。
私が22歳の頃、一時行方不明になっていた伯父がふら〜と大阪の私らの自宅にやって来た。
そして狭い団地の部屋で一緒に暮らし始めて…伯父が来てからは本当に楽しかった♪
母と妹と私だけの息の詰まる生活から抜け出せた感じだった。
4畳と6畳の二間だけの狭い部屋だったけど、そんなのは全然平気だった。

それが1年を少し経った頃かな、2年にも満たなかったと思う、最初はお金を入れてくれる伯父が来てくれて助かったと言っていた母だけど、徐々に疎ましくなってきたのか、伯父に意地悪をするようになった。
それはそれは執拗に…
私と妹で、一生懸命慰め励ましてきたけど、とうとうある日、出て行ってしまった。
そしてまた、どこで何をしているのか行方知れず。
伯父がいた頃は、私と妹が母からやられていても、よく庇ってくれた。
伯父が出て行ったのは、本当に悲しかったし寂しかった。
今は伯父のことが一番気がかり。


金曜日、私は病院には行かなかった。
いつも通り仕事に行って、80代の1人暮らしのおじいちゃんの所に訪問看護。
古い文化住宅の2階…ドアを開けるといつもと空気が違う、気配というか、とにかく何か嫌な予感がした。

台風が去った後で、とてもムァ〜とした暑さで、部屋のふすまを開けるとベッド上でぐったりしているSさん。
下着もつけていなくて、シャツ1枚で寝ている。
私はすぐに息をしているかどうか確認して、『Sさ〜ん、大丈夫ですか?しんどいですか?』と声をかけて、すぐに目を覚ましてくれてホッとしたけど、ロレツは回ってないし、呆然とした顔でヨダレも垂らしている。
これはエライことだと思って…とにかく部屋の中は締め切っていてサウナ状態。

Sさんはそんな感じだったけど、ベッド上には取り合えず座れる状態だったので、クーラーのリモコンを探し回り、やっと見つけてスイッチを入れて、下着をつけてもらって、本人も少し、今の状況に驚いている様子で…

そこでちょっと、前に停めている車のことが気になってきた。
以前、15分停めてるだけで警察にレッカー移動されたことがあり、点滴や注射器など商売道具を積んでいるのに、またやられたら困るぅ〜ってわけで、Sさんにはすぐに戻ってきますからと言って、車を移動した。
私が所属してるクリニックが歩いても1〜2分の所にあるので、そこの駐車場に停めて、ついでにドクターも呼びに行こうと。

でも、そういう時に限って駐車場が空いてない、ドクターもまだ来てない(お昼時だったから)
早くSさんの所に戻らないとって焦って、往診ナースに電話して、『バイタルは?』と聞かれて、しまった、まだだった!と思って、慌てて戻ると、Sさん本人は落ち着きを取り戻していて、自分で朝飲むはずだった薬を飲んでいました。
バイタルもいつも通り安定(でも、せめてバイタルを測ってから出るべきだったと反省)

たぶん暑くてクーラーもつけてなかったので、脱水・熱中症になっていたのだろうと思われ、私が行くのが少しでも遅れたら、どうなっていたことか…
また、その日はたまたまいつもよりも早めに訪問していて、それも幸いしました♪

時に、外せないタイミングというのがあるんですよね。


2007年09月12日(水)



 野宿は体が痛い

ふぅ〜それにしても、またやっちゃいました。
昨夜は一晩、外で野宿です。
友達と飲みに行って、自宅マンションに帰ってきたのはいいけど、家のカギが見当たらず、そのままマンション前で寝てしまったらしい。

はっと気がついたら、オートロックのマンションの中には入って、玄関の前でインターホンを押していた。
それが今朝7時頃、旦那が出て『何してんねん!』と言われ、初めて我に返りました。

そしたら、またまた財布もなく、ティッシュの入っていたポーチもなく、カギも勿論なく…
しばらくすると、同じマンションの人が『物が散乱してましたよ』と届けてくれて、財布もポーチも自転車のカギも無事返ってきました。
ただ自宅のカギだけなく、たぶん、カギを探したりするのに、カバンの中身を引っ張り出して探していたんだと思います。
それが酔ってるもんだから、そのまま寝てしまったらしい…

それをマンションの人が見つけてくれて『誰か倒れてる』と言って、仕事に出勤する前のご主人が奥さんを呼びに行って、散乱してた荷物は集めて預かってくれていたらしい。
それをすぐに自宅に帰った私の元に届けてくれたという…

昨日はそんなに飲んでなかったのにな…
もう年だし、お酒も程ほどに控えなあきませんね、反省。


2007年09月09日(日)



 想像しない未来

これまで、いろんなことがありました。
目まぐるしく過ぎた日々という感じ…
今と未来だけを見ていたつもりが、やはり過去から切り離されることはなく、その時々において、現在に表れる過去。
逃げていても仕方ないのだと、ある意味、腹もくくりました…いろんな意味で。

…であっても、今が一番大事。
もう、いろんなことがあり過ぎて、私は未来を思い描かなくなりました。
そういうことは、今を生きることの足かせにしかならない、そういう風に思われるようになって。
だから、今すぐに死んでも悔いはない、気持ち的にはそんな感じで生きています。
だけど、それはやはり自分に明日があると信じているからなのでしょう。
人間は手前勝手な生き物だから…それもそれで、私は受け止めようと思っています。


2007年09月05日(水)



 Dr.コトー増員!?

時事通信ニュースから

<医学部定員さらに増員=へき地勤務で奨学金返還免除−医師不足対策・厚労省など>

深刻な医師不足を解消するため、厚生労働、文部科学、総務の3省が、大学医学部の入学定員を増やすことに決めたらしい。
各都道府県の増員分(計245人)については、奨学金を支給し、卒業後に9年間へき地で勤務すれば返還を免除するという。

私はこのニュースを見て、ええ〜と思ってしまいました。
9年間ですよ、しかもへき地、誰が行くんだよ〜って。
看護師の御礼奉公(古い言い方だけど、まだシステムとしては残っている医療機関はあるでしょう)でも、2年看護学校の学費を出してもらったら、同じ年数だけその医療機関で働くというのがあります。

医師は、確かに看護師よりは卒業まで年数かかりますけど、9年も長いのではないでしょうか?
しかも、へき地でしょ?
へき地といえば、医師がいない地域だったり、医療施設も充実してるとは言えないですよね?
そんな所に、医師免許取立ての人が行って、何ができるのでしょう?
何か学んだりできるでしょうか?
それに、そういう新人ドクターに自分の命を任せられる?
これは大いに疑問です。
ただ医師を送り込めば良しというわけではないんですよ。
現場の意見はちゃんと聞いて決めてくれたのかしら?


これ実際にあった話なんですけど、私が以前勤務してた救急病院で、心肺停止の患者さんが運ばれてきました。
その日、当直していたのは医師になって2年目の新人ドクター。

すぐにでも気管内挿管をして気道を確保しないといけない状態。
そのドクター曰く 『僕、やったことないから出来ないよ』
ビックリしたのは、その日、救急担当のベテランナース。
『何言ってるの、先生!教えてあげるからしなさい!』
彼女は婦長経験者だったんです。

それでも、モタモタしてる状況じゃないんで
『もういいわ!私がするわ。先生は介助して!』
それでナースが挿管、ドクターは介助。
それで何とか一命をとり止めたのでした。

助かったので良かったという話なんですけど、これ法的には違反なんですよね。
バレたら、そのベテランナースは処分されます。
でもあの時、ナースが処置をしていないと、患者さんは死んでました。
これがリアルな現実といいますか…

まぁまぁ都会の病院でも、こんな感じですよ。
へき地…大丈夫か?
これから医師を目指そうと思う人が、夢を持てるような措置でしょうか?
なかに志高く 『へき地?大いに結構、やってやる!』という奇特な人がいたとしても、果たしてDr.コトーは生まれるでしょうか?う〜ん…


2007年09月01日(土)
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