Comes Tomorrow
ナウシカ



 『アララトの聖母』

今日、レンタルしていた『アララトの聖母』という映画を観ました。
詳しいストーリーはココです。

1915年のトルコ軍(政府)による、アルメニア人大虐殺の史実を描いたもの。
未だに、トルコ政府はそれを認めておらず、歴史も歪んだ形で伝えられているとか…

そのアルメニア人大虐殺を参考にしたのが、あのドイツのヒトラーだったとか…なるほど!
そのアルメニア人の生き残りが、親から子供へ、子供から孫へと伝え、あれは真実だった!本当にあった出来事だったと訴えているんですね。

途中、とても悲惨で残極な描写があり、目を覆いたくなるほどでした。
ほんと涙を流しながら観ました。

アルメニア人の子孫が、そういった民族の悲しい歴史を知り、そこで怒りを覚え、結果的にテロ行為に走ってしまうこともあって、本当に難しい問題だと思いました。
ああ…いつ終わる…この悲劇…と思うと悲しくて…

作中のアルメニア人の映画監督が言うんですね。

『これほどの苦しみが、どこから来るのか?
同胞や土地が奪われた…そのせいではない。
こんなにも憎まれているということだよ!

どうして我々は、そこまで憎めるのか?
なぜ、未だに憎んでいたことを否定し、そのことで憎しみを更に深めるのか?……』

憎しみの連鎖というのか…
憎しみを乗り越えること、人として当然の権利を叫ぶこと、愛する大切な家族を守ること…それは同時には難しいことなのかな?

誰の心にも、怒りや悲しみのエネルギーがある。
それを昇華していけたら…私自身の課題でもあります。


2006年02月28日(火)



 爆弾発言…続きます

『白夜行』…今日も観ちゃいました!
ス〜っと溶け込んでしまう…あの世界に。
私も、あそこにいるような気がするんです。

普通に生活してきた人には理解できないだろうな…
あんな風に、淡々ととんでもない犯罪を犯してしまう2人の気持ち…

昨日は、私の父の一周忌でした。
私、今まで、母のことはいろいろ日記にも書いてきたけど、父のことはあまり書いてこなかった。
なんか複雑だったんだと思う。

私は、あの日…
無表情で立ち尽くし、部屋で横たわる父を見下ろしていた。
時間的には、ほんの数分かもしれないけど、ものすごく長い時間に感じたな…
あの人は、声も立てず、頭を抱えてた…
絨毯の上をドロっとした血が流れ…

私は父を殺そうとしました…
18歳の夏…
こんな時って、どんな心理だと思います?
ドラマじゃないけど、ほんとに淡々と…感情の乱れもなく…
これから、少年院での生活が待っていると思い描き、どんなだろなぁ〜って、まるで自分のことじゃないみたいに想像してた。
横では、父が倒れて血を流してるのにね。
とても静かな穏やかな気持ちだった。

でも、私の想像通りの結果にはなりませんでした。
父は死ななかったし、病院にも行かなかったし、警察も来なかった。
知らずに部屋に入ってきた母はビックリしてたけど、私を咎めることはなかった。
他のことでは、散々私に怒る人だったのに、この時ばかりはお咎めなし。

正直なところ、終わると思っていた今の生活が、また続いていくということで、ガッカリしてる自分がいました。
ああ〜なんで終わらないの!
地獄は続くの!?

覚えていることは、私がお風呂に入ってる時に、無理やり父が入ってきたこと。
私はかなり抵抗したんだけど、ドアをがなりたてながら無理やり開けて入ってきて…
体の大きい人だったからね、かなうはずもなく…
でも…何もなかったんだけどね。

…なのに、なんでだろう?
悪夢にうなされるのは…
私の上に覆い被さる父の夢を見てしまうのは…

父が思ったよりも、早くに死んで、私は自分が殺したような気になってます。
ああ〜私が殺したのかもなぁ〜って。
あの時の傷が後遺症になったわけではありません。
全く別の病気だったわけだけど…
でも最後の十数年、一人ぼっちにした…

夢多き人だったけど、どれもこれも潰れて、最後は一人…
私の感情が戻ったのは、父が亡くなってから…
まさかね、泣けるとはね…
殺人未遂の時間差がもたらした奇跡かもね…
そういえば、ちょうど時効成立した後だった…

やっぱ、複雑…


2006年02月23日(木)



 心は自由だ!

『僕と彼女と宗教』
許可を頂いたので転載しますね。

******

幸せになるための宗教が不幸せを生み、
幸せになるための恋愛や結婚が不幸せを生むのは、
道理なのだと思います。

しがみつくことで不幸せになるくらいなら、
飛び立った方が良いと思うのです。

飛び立つことは不安で、
今まで得てきたことを失うことですが、
しがみつくこともまた不安で、
今まで得てきたことを失うことなのです。

この世に正解なんてない、
って言ったのはお釈迦さまなのになぁ。

Free the bird!

******

人は、人として生きて、人として出会って、人として別れていく。
そんな当たり前のことが、とても難しくて、とても素晴らしくて、とてもかけがえなくて…

いろいろあるけど、一日一日を大切に生きていきたい。


2006年02月21日(火)



 折り合いのつけどころ

同じ人間として、どうしても許せないことがあって、でも誰にもいいところと悪いところがあって、相対的にはそんなに悪くない人物で、だけど、その相手の許せないところっていうのは、自分の中では絶対許せない言動だったり、態度・行動だったりするわけで、そのことに、どう折り合いをつけたらいいのか、時々わからなくなる。

自分がどうにも我慢ならないことを、そのことで相手を責め続けることはいけないことだって、何となくわかる。
でも許すということとは、ちょっと違う。
そんな簡単に許すという気持ちになれたら苦労はしない。

でも、そのことで相手を責め続けたりはしたくない。
でも、自分の中で折り合いがつかない。
相手の全てを嫌いになったわけでもない。
でも、その嫌いな部分は、絶対自分の中では譲れない、とても大切な事柄なんだ。

でも、そのように考えたり、思ってしまうことは、相手にもあることで、ひょっとしたら、自分も他の誰かからか、そのように思われてるかもしれない。
いや、そういうことって、よくあるんじゃないだろうか?
人間関係って、そんな細々した歪との格闘(葛藤)なんじゃないだろうかと思う。

仮に、自分が一側面でもって、思い切り相手から嫌われて、全否定されちゃったら、それはそれで殺生なって思う。
私だって完璧な人間じゃないよと。
自分がそのように尊重されたいと思ったら、相手にも勿論それをしてあげないといけない。

でも、でもさ、どこかで自分の心を抑圧してるような気がしてくるんだよね。
そんな居心地の悪さが、相手への嫌悪に繋がるんだと思うんだけど、自分のことも大切にして、相手のことも同じくらい大切にして、それでも折り合いつかない場合は、どうしたらいいんだろうと悩んでしまう。

(あんな人間なんだ、可哀想なヤツなんだな)と、一見、自分がデキタ人間みたいに相手を思ってみても、そんなのは傲慢な独りよがりの考えなんだ。
自分が中心にいて、自分の視点でしかない。
相手のことを、最初から見下げてる。

でも(あんなヤツは最低だ、絶対許さないぞ)と思ってみても、やはりそれは独善だ。
(何とか、アイツを導いてやろう、改心させてやろう)そう思うことも、どこか違う。
(おまえは何様だよ!)と自分に対して思う。

こういうことって、ゴールのない永遠のテーマかもしれない。
簡単そうで、一番難しいことなんだと思う。
戦争も、結局はこういうことが問題なんだよな。

やはり憧れるのは『風の谷のナウシカ』の”ナウシカ”
生命というものを粗末にするものに、全身で悲しみ、全身で怒る。
そして、どうしようもな不条理なことに対して、躊躇うことなく闘うんだけど、そんな中でも、敵をも救う。
自分は傷ついても、守るものがあっても、それを懸命に守りながらも、でも全てを分け隔てなく、慈しもうとする。
その精神力、決して諦めない強靭さ、そういうものに限りなく憧れる。

『みんな、わかって、お願い!』
そんな風に、どんな人にも訴え続けるナウシカ。
殺し合うことではなく、生き切ることを切に訴えるナウシカ。
そんな心を手にしたいと思うけど、身近なところでつまずいてしまっていてはいけないな。
ああ〜難しいな…


2006年02月18日(土)



 円満という絵に描いたモチ

昨日、友人のお父さんの訃報を受け取ったんだけど、私の父も今月の22日に亡くなり、もうすぐ一周忌になります。
今月24日は下の子の誕生日で、1年前、お通夜のその日に自宅で息子のための2歳の誕生日会をしました。
だから忘れられない日になるんだろな…

この事実を、私はまだ旦那や、その親族には言っていません。
妹から、今年の年賀状が届かなかったことで、義父なんかは心配してくれてました。
妹には口止めしてるので、喪中ハガキを送らなかったんですね。
いつバレるかと思って、ヒヤヒヤはしてしまうんだけど、うちの旦那、私の日記(HPやblogなど)見ようと思ったら見れるのに、全然見ませんわ!
それはそれで有り難くもあり、また冷たいと感じるところでもあります。

まぁ〜私も見ないだろうという前提があるから、いろんなことを書けるわけで…
でも、見れるのに見ないという旦那の行為は、私なりに分析すると、まぁ〜人(私)の深いところまで見たくはないという心理なんだろうなと思うんです。
私の過去の体験は多少知ってるわけだけど、それについて、あまり何も言わない人なんですよね。
触れてはいけない…というより、触れるのが怖いというのがあるんじゃないかと思うんです。
そう思うに至った出来事が、いくつかあって、そう確信してしまったんだけどね。

それは腫れ物に触る感じなんでもなく、全くの無関心でもなく、なんて言うんでしょうね、自分では受け止めきれないと感じている旦那の自己防衛策なんだと思います。
まぁ〜私からしたら、安易にわかったような口聞いて、アレコレ言う人に比べたら、断然こっちの方がいいですけどね。

旦那は私と違って、恵まれた環境で育ちました。
普通に親の愛情にも恵まれ、経済的にも苦労なく大学まで出してもらって、同居してたおじいちゃんには可愛がってもらい、仲のいい親戚の人からも目をかけてもらい…
だからといって、我侭な人の心も全くわからないような人でもないけど、だけど、やはり人の負の部分をまともに見れない、感じれない(感じたくない?)そんな器量の人なんです。

こんな”弱い”人に、やはり私はいろんなことを話せないんですよね。
私が話さないのは、話せないということより、この人が受け止め切れないほどの重荷を、本人が望まないのに負わせられないということなんですよ。
だから話さない…私の心の中のことは。

ただ夫として、子供たちの父親として、役割を果たしてくれたら、それでいいと思ってるけど、そんなに多くを望まなかった私だけど、やはり日々、好きという気持ちが薄れてきたのは、こういう何かとても大切なものを、おざなりにして、何となく何事もなく流れるままにやり過ごそうとする旦那に対して、私自身が何も感じなくなってきたからなんですよね。

なんかゴタゴタは面倒だ、本音をぶつけて争うぐらいなら、黙ってやり過ごそう、そういうものが見えてしまって…
最初の頃は、私もいろいろぶつけて、時には感情的に、時には冷静に話し合ったりもしてきたけど、結局、のらりくらり交わされて、私1人ウダウダしてるのも、なんか嫌になってきて、それで、それぞれの心の世界を別々のところに作ったというわけなんですよね。

一緒にいて、共に生活してて、もちろん会話もちゃんとして、だけど対話はしてない、そんな遠くに離れたような存在になって…旦那はどう思ってるんだろう?
対話は1人では成り立たない。
そんな上っ面の関係…このままでいいわけないのはわかるけど、でも、何とかしようという情熱は薄れ、別の生き方を模索する私。

これを仮面夫婦と言うんだろか?
外では、すごく仲良く映るらしい。
『すごく愛されてるんだね』と言われることも多い。
旦那も、私が勝手に思ってるだけで、旦那なりに愛を表現しているのかもしれないし、今の生活にも愛は感じているのかもしれない。
でも、私は遠くにいる。

愛を知らず、冷めた?愛に執着しない私は、旦那の考えている愛は理解できないし、また旦那も私のことを理解できないだろうな。
それでも、取り合えず円満?な家庭だ!

とにかく愛という名の元に、お互い傷つけあっていた私の元いた家族。
あんなのはご免だ!
そんな愛ならいらない!
攻撃という形の愛は表現しないと決めてるけど、難しいもんだね。
感情をぶつけられなくなってる時点で終わってるね。
どうしたもんかね…


2006年02月16日(木)



 ストレス発散方法について

私の場合、ストレス=考えること。
ストレス発散=考えることです。

何かをアレコレ考えることがストレスになってる場合、逆に違う何かを考えることで発散になったりします。

例えば、哲学的なことや道徳的なことや、自分とは何ぞや?みたいな、内省的なことを煮詰めて煮詰めて考えすぎて、特にネガティブ思考になった時、ものすごく、それがストレスになって、でも自分で、その思考を止められなくて、どっぷり鬱になってしまう時があります。

そういう思考を止めるためには、全く種類の違う、別の何かを考えるようにします。
例えば、私の場合だと、普段はblogやHPをしていて、主に文章を書いたりしてるけど、それがしんどくなってきたら、HPのデザインをいじってみたり(HTMLなどのタグ打ち)、BBSをいじってみたり(CGIの設置)、または画像を素材屋で集めてみたり、オンラインゲームで1人でできるパズルゲームなどをしてみたり、ちょっと理数系的なことに頭を使ってみる。

文章を考えて書いたりするのは文系だから、それとは違う理数系に走る。
または芸術系(音楽や絵など)に走る。
または体育会系に走る。

子供と、子供に戻ったつもりで遊んでみる。
あまり考えなくても気楽に観れるような映画を観る。
全然、違う分野(自分の今まで知らない世界、疎い世界)のことを学んでみる。

そうすると、一旦、頭がリセットされるような感じになるんですよね。
少し落ち着いてきます。
考えないというのが一番いいんだと思うけど、そうは思っても考えちゃうし、考えなくても夢に見ちゃったりするし、どうにも休めないので、こういう方法を取ってますね、私は。

どの方法がいいというのは、人それぞれだろうから、それを見つけることができたら、立ち直りも早くなりますよ。


2006年02月15日(水)



 「育ち治し」の出来る社会

『時計の針の巻き戻し』というblogにコメントつけたものを、そのまま載せますね。

******

う〜む、なるほどと思えるお話でした。

私は子供が内心は好きでしたけど、実際は苦手でした。
どう接していいか、わからなかったからです。
無邪気な子供時代を、自分が持てなかったからかもしれません。

それが看護学校に入学して、教務の先生に紹介された就職先が小児科だったから、苦手とか言ってられなくなりました。
無理して先輩たちの真似をして、子供をあやしたり、なだめたり、ほんと大根役者並みのぎこちなさだったと思います。

それに学校の実習では、公立の保育所にも実習に行きました。
目的は、健康な子供を知るため?であり、ただ子供たちと遊ぶだけでいい実習でした。
これが意外と楽しかったんです♪

私は他の子みたいに保育士っぽく振舞えなかったけど、普通に子供たちの傍にいて、言われるままに、されるがままに一緒に遊んで、ほんとに子供に戻れました。
取り戻したという感じですかね、正に!

また不思議なことに、私に懐いてくる子は現役のベテラン保育士にも、なかなか懐かないような人見知りの激しい子ばかりでした。
私はそんなのは全然わからないんだけど、保育士の先生たちはものすごく驚いてて『あなたスゴイわね!見て見て、あの子、自分から手をつなぎに行ってるよ、笑ってるよ!』と大騒ぎしてました。

私は何もテクニックを使ってないんですが、たぶん私も人見知りの激しい方だから、波長というのか、それがピタっと合ったんだろうなと思います。
本当に良い経験になりましたね。

そこでの経験が、それからの私の人生を変えたと言っても過言じゃないかも?
子供が好きになったし、苦手じゃなくなったし、自分が子供の親になるというのも、少しだけ不安が減りましたし。

でも子供を生んで、少しだけ変わったことがあります。
他のお母さんたちに聞くと、だいたいは『自分の子供を生んで、他の子供も可愛く思えるようになった、子供が好きになった』と言ってたのに対し、私はその逆で『他の子供は、前ほど可愛く思えなくなった、自分の子供がやはり誰よりも可愛い、愛しいと思うようになった』こと。
親のエゴを身をもって知りました。
これはこれで、今後の課題ですわ。


2006年02月14日(火)



 幸福の基準

ちょっと補足すると、熟年○○というのは、あれか?とすぐ言葉が思い浮かぶと思うんですけど、私の中では選択肢はたくさんあります。
熟年別居、熟年単身赴任、熟年家出、熟年放浪の旅…結局どれも一緒か…

まぁ〜実際問題その時にならないとわからないですね。
ずっと自分が健康でいられるかどうかもわからないし。
でも、どんな環境になろうと、常に何かを考え、今の自分に何ができるかを模索し続ける、挑戦し続ける自分でいたいと思っています。

そういう生き方は、周りに迷惑をかけることもあるかもしれないし、理解もされないかもしれないけど、平凡に生きて、何となく幸福なのか不幸なのかわからない状況で、漠然とした不安を抱えて生きていくのは、ちょっとしんどいなと思うようになったんですよね。
こう思うようになったのも、訪問看護という仕事をしてからですね。

一見、恵まれた環境にいても、決して幸福そうには見えず、不安げな毎日を送っている人。
決して恵まれた環境ではないんだけど、ちょっとしんどそうなんだけど、それでもどこか生き生きしてて、幸福そうな人。
そういう人を、この2年弱見てきて(ああ〜環境ではないんだな、見た目の豊かさ、便利さ、そんなものは決して幸福の基準?にはならないんだな、要は生き方なんだよな、生の捉え方なんだよな、何を心に持ち生きていくかなんだよな)そう考えられた時、とても自分が楽になれたんですよね。

これから先の人生で、何が自分の身に起ころうと、どうなろうと、素直に感じていけばいいんだ、その時々でもがきながらでもいいから、一生懸命、今ある自分の力でもって、乗り越えようと頑張っていけばいいんだと思えるようになりました。

ちょっと前の私は予期不安に囚われていて、もしこうなったらどうしよう?とか、もしこうならなかったらどうしよう?とか、今から気に病んでも仕方がないようなことで不安がって、それを避けるための準備というか、そういうものを必死に追い求め、そこにいらぬ労力を注いできたような気がします。

そんなことは無意味だってわかってきて、今ある自分を大切に生きて、それで思い描いた未来が多少ズレても、それはそれで楽しみながら乗り越えていくというか、自分の中にいろんな人生があるという幅を持たせて、極端な負のイメージも、正のイメージも持たず、ある意味、淡々と過ごしていく、生きていく、そういうことの積み重ねの中に幸福は詰まっているのかなと思えるようになりました。

それもこれも、多くの人生の先輩に出会い学ばせて頂いたことで、本当に感謝です。
多くの出会いに感謝、感謝ですね〜♪


2006年02月13日(月)



 やはり…これは…熟年○○か…

昨日の夕方から、旦那の実家である京都に家族で帰ってました。
最近、イヌを飼ったということで見に行ったんですね。
チワワの毛並みの長いやつで可愛かったです♪
生後1年で、まだ来て1週間だから慣れてないのか、ブルブル震えてましたが…

今日は旦那がまた仕事なので、向こうで夕飯を食べてから、すぐに帰ってきました。
それで車中、子供たちは寝てしまって、夫婦だけの時間になったわけですが、最近あまり会話がなかったんだけど、珍しくいろいろ話をして、ふと海外に行きたいねという話になりました。
今はお金も暇もないので無理だけど、将来的な話として、どこそこに行きたいという話をしてたんですね。

私は友人がいるネパールに行きたいと言い、旦那は単純に観光を考えていてハワイに行きたいと。
でも私、あと1回しか海外に行けないとしたら、絶対ネパールを選ぶってぐらい、思い入れのある国なので、そこは外せないんですよね。
それで私は『じゃぁ〜1人で行ってくる』と言ったら、旦那がブーブー言い始めまして、金がかかるとかなんとか…

そんなの家計に響かせてまで無理して行くつもりはなく、また幼い子供を残して自分だけということも考えてないし、それこそ行くなら家族と一緒か、そうでないなら子供らが手が離れてから、自分の貯金を貯めて行こうと思っていて…

旦那は一般的?な日本人で、普通に欧米?とかでゆっくり観光(遊び)をしたいらしく、一方、私の目的は友人に会うためとか、何かを学ぶ?生き方を模索する?それこそ人生最後の地を求めて?というか、そんな意味合いがあるわけで、全く相容れない2人なわけです。
最後の夢と言ってもいいぐらいのネパール行きを阻まれるなら、これは熟年○○しかなく、今から準備しないでもない気持ちです!

結婚前、まだ看護学生だった頃、私は青年海外協力隊に参加するつもりで説明会にも行ったり、日本での仕事の経験は何年ぐらい積んで、どんな勉強をしなくちゃいけないかとか、そんなことを真剣に調べていたので、旦那からのプロポーズはどうしようかと迷っていたんですよね〜
でも『行くな!行かないでくれ!そんな何年も待ってられない!』(旦那、当時37歳)に言われ、それで断念して結婚したという経緯があるので、子育てが一段落した後は、好きなことさせてくれという感じなんですよ。

我侭といえば我侭だけど、でも夢を食って生きてる私には、なんとも譲れない話ですわ。
まぁ〜まだ先の話だし、ゆっくり考えようと思います。
でも夢のためには、いつも諦めず着々と準備するタイプの私は、やると決めたことは、どんなことがあってもやる!ってな感じなんで、マイペースに頑張りますわ!


2006年02月12日(日)



 日のあたる場所を歩けない

『白夜行』というドラマを見てて、雪穂という主人公にとても共感を覚える。
それでも自分とは違う幸福な子を不幸に陥れるような、そんなことは思わないし、実行もしはしないけど、でもその気持ちは理解できるかな。

「どんなことがあったって、笑って生きていかなくちゃいけない。
この世の中は不公平なことだらけだと思っても、何事もなかったかのように笑って生きていかなくちゃいけない。
いつも笑って努力して頑張ってれば、いつかは日のあたる場所で暮らせる。
そんなのわかってるよ、私だってわかってるよ、でもそんなのできないもん。」

そんな雪穂の叫びが痛いほどわかる。
思い出すよね〜
小学生の頃、大人の水着を着せられて、知らぬ間に父に写真を撮られていたこと。
いつの間に撮ったのかわからなかったけど、妙にいやらしい感じの写真になっていたこと。

それを意識してる自分が、おかしいような気がしてた思春期の頃。
誰にも見せたくない恥ずかしい写真を、隠すことも捨てることもできなかった複雑な思いの頃。
あの写真の意味を理解した、ある日、破り捨てたこと。
もう残ってはいないはずの写真が、今でも脳裏に焼きついてること。
そのことを思い出しました。

日のあたる場所に出て、笑って生きてはみても、そこはどこか自分の居場所ではないという違和感。
普通にちまたに溢れてる愛や感謝や、友情といったものに、どこかそぐわない自分がいて、しっくり落ち着かない、そんな時がある。
冷めた、遠くを見つめる目をした、もう1人の自分がいる。

疲れるよね。
普通に何事もなかったように、人に合わせて、毎日を生きること。
共感のしようもない、お涙頂戴の感動話に相槌を打つこと。
清浄無垢と思われるような人や環境などに、尊敬と憧れの目を向ける人たちに対し、軽蔑の気持ちを抱いてしまうこと。
わかったような口聞いて、おせっかいする人を交わすこと。

本当のことを、ぶちまけてしまいたい衝動を抑えながら、今日も生きて、時々、本気で笑って、本気で泣いて、本気で怒って、本気で黙って、でさ、私はどこ行くわけ?どこ行きたいわけ?って、自分に問い掛けてみて、それで何となく日常は平凡に過ぎていく。
これも幸福といえば幸福だし、でも日のあたる場所は居心地が悪くて、日のあたらない場所を探してしまうんだよね。

日のあたらない場所が落ち着くってことに、ふと気づいたりする。
でもやっぱり寒いから、日のあたる場所に出ようとしちゃう。
そんなことの繰り返しなのかなぁ〜と思った。
私の中に、何人もの自分がいる。
難しいやつだよね。
救い難いかもね。


2006年02月10日(金)



 男女の役割について

先週の金曜日、保育所で子供と親の『遊ぼう会』というのがあって、その後に懇談がありました。
ほとんどのお母さんがフルに働いています。
パートは少ないですね。

それで1人だけお父さんが懇談も参加されてました。
そこは保育所の送り迎いとか、ほとんどお父さんがされてます。
お母さんの仕事の方が忙しいみたいで、保護者会の役員もお母さんがなる方が圧倒的に多い中、次の役員はそのお父さんがなってくれました。

また別のお宅はお母さんが参加されてましたが、家事に関してはほとんどがお父さんがされてるとか。
お母さんの方が休みもないぐらい忙しく働いていて、お父さんが家事担当なんだそうです。
共働きなんですけどね。
それでも子供たちは『お母さんのご飯の方がおいしい』と言って『可哀想なお父さんなんです』と言われてました。

そうやって少しずつかな?周りの意識っていうか、私の世代はあまり男が…とか、女が…とかないですね。
これが専業主婦が多い、幼稚園なんかになると違うのかもしれないけど。


2006年02月07日(火)



  『宗教のすすめ』

あるblogのコメントに書いたことですが…

『宗教のすすめ 幸福に生きる力として』第三文明社の中に、こんなのがありました。

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本当の友達は、一日に4回も5回もメールのやりとりをしないと関係が保てない人ではないのです。
普段は離れていても、その存在を思うだけで心の支えになるような人が友達です。
存在そのものが、自分の勇気を奮い立たせてくれる人です。

著名なドイツの現代思想家(ベンヤミン)はこんな風に言っています。
「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でもなく翼でもなくて、友の足音だ」

友達とは、あいつに笑われたらムカつく、だから頑張ろうではなく、あいつも頑張っているから自分も頑張ろうと、自然に思える存在です。
人はこうした友達の存在が心の中になければ、不安に押しつぶされてしまうでしょう。

そして今は、残念ながら大人も子どもも、仲間はたくさんいても友達はいないという人が多くいます。
受け入れ、受け入れられるという心がなければ友達はできません。

******

私もこのような存在になりたい、ならなくてはいけないなと、少し反省しました。
悩んでいる人が求めているのは、そんな友の声なんだと思います。

役を演じず、ありのままの自分を重んじる時、それは他の人にも向けられるんだなと、最近感じます。
それがわからず、もがいた時期がありました。
それで頑張れる時もあるけど、それは決して長続きはしない。
自分という存在を尊いものと見れず軽んじているから、そのまま潜在的に人にも向けてしまい、不本意ながら結果的に人を軽んじるということに繋がるのだろう。

不安定な自信と不安の狭間で、必死に努力しても、どうにも抜け出せない…そんな時に悩みぬいて病気になってしまうか、それとも自己防衛反応として思考停止になるか、それは紙一重なのかもしれない。

病気になってしまうこと…悩みから逃げないゆえの心と体の葛藤なのかな?
思考停止になり、多幸感を感じながら生きている人もいるけど、それはそれで知らない方が幸福なのかな?
私は不幸でもいいから、心が痛んでもいいから、問題から目をそらさず、自分が病気になってしまいそうなぐらい悩みぬいて、最後には真実に辿り着きたいな。

その過程が幸福ということのような気がしてきてる。
あれだけ幸福になりたい、なってみせる、なれるかな、ああ…苦しい…だったのに、今は静かに受け止めてる。
完全に幸福でもなく、かといって完全に不幸でもなく、だけど穏やかな気持ち。
両手を広げて、目をつぶって、空を飛びたい気持ち。
最期って、そんな感じなのかなと、ふと想像なんかもしたりして…
これはきっと『風の谷のナウシカ』の影響だ!

いつも思うのは、あの『ナウシカ』の名を私が語って申し訳ないということ。
だから逆に、あまり『ナウシカ』のことは語れない。
いつも触れられたりするんだけど…

ああ〜今日はなんだかダラダラ書いちゃった!
明日は飲みまくるぞぉ〜!


2006年02月04日(土)



 「第九条・創価っ子スクラム」

私の友人からの呼びかけです。
ここで紹介させて頂きます。
この運動がどうか広まっていきますように。

=== 「第九条・創価っ子スクラム」 ===

今から約61年前、焼け野原から立ち上がり、二度と他国に対して武器による威嚇をしないと決意した日本。それは、永遠の誓いである。
私は、その決意のもとに出来た、世界に誇れる「平和憲法」の第二章「第九条の一項・二項」ともに死守したい、永久普遍の原理としての「交戦権否認」を守りたいとの思いでおります。
「加憲」なんて言葉には騙されません。

かつて、日本も多大な空襲の被害を受け、ヒロシマ・ナガサキには原爆が投下され、地上戦として、沖縄は激戦の壮絶で悲惨な目にあいました。そして、終戦。焦土と化した日本ーーー。
又、戦前までの長い間、周辺アジアを侵略し甚大な被害をもたらした事を、日本人として認める必要があると感じております。
もう二度と武器を持たない、他国とも交戦しないと誓った私達です。それを謳った憲法第九条を握りしめてきたからこそ、以来「攻めも攻められもしなかった」という長い歴史の軌跡が出来上がっています。

創価学会の歴史も、「反戦・平和」から始まっているのは、皆さんご承知の事実です。
そこで、私は、呼びかけたいのです。二度と同じ過ちを犯したくないそんな思いを込めて、「第九条・創価っ子スクラム」。草の根運動として広めようではないですかと。

日本の憲法九条は世界の先駆け!世界の模範!地球上の快挙!まわれ、まわれ、地球上に広がってゆけ!!
     2006年  兵庫県:宇宙人


2006年02月02日(木)



 聖人認定

『奇蹟の詩』

この映画すごく良かったです。
見終わった後、しばらく放心状態でした。
本当に示唆的な内容だったので、ネタバレになりますが書かせて頂きますね。
映画を観たい人は、******より下は読まないでね。

http://www.artport.co.jp/library/in_video/third_miracle.html

奇蹟の詩 〜サード・ミラクル〜
THE THIRD MIRACLE

CAST :

エド・ハリス
アン・ヘッシュ
アーミン・ミューラー・スタール
バルバラ・スコヴァ

監督:

アニエスカ・ホランド
「太陽と月に背いて」「ヨーロッパー・ヨーロッパ」「秘密の花園」

1999年製作

[STORY]

とある修道院にある聖母像。
涙を、血の涙を流す聖母像が「奇跡をもたらす力がある」と人々に崇められていた。
死ぬまで修道院で暮らし、多くの人々に慕われ尊敬されていた一人の女性、ヘレン夫人が死んだ時から聖母像が泣き始めたことで、像の涙は彼女の血だと言われていた。
末期の皮膚結核の少女が回復、瀕死の状態にあった青年の白血球の上昇・・・。

その彼女を“聖人”として認めるか否かの調査に送り出されたフランク(エド・ハリス)は、己の揺れる信仰心と葛藤しながらも、徐々に真実を突き止めていくのであった。
またヘレンの娘・ロクサンヌ(アン・ヘッシュ)も、フランクと出会ったことにより彼女の中で何かが変わり始めていたのだった。
聖人認定委員会が開かれ、いよいよ終止符が打たれようとしたその時・・・驚くべき事実が、衝撃の奇跡が明らかにされるのが・・・

******

フランクは神父なんだけど、あることがキッカケで神父の仕事から離れて、路上生活者が利用する給食配給所で食を取りながら、そこの人々に溶け込んだように生活をしてるんですね。
そこへ聖人認定の調査員の仕事を頼まれる。

元々そういう仕事をしていたようで、かつて聖人認定調査で、ある人の調査にあたり、皆が聖人と崇めた人が実は神の裁きを恐れ、精神を病んでしまい、自殺してしまったということを突き止めるんですね。
そのことを必死に隠そうとする教会側と、あくまでも真実を追究しようとするフランク。

フランクは、その人物を聖人と信じていた人々を裏切った神も奇蹟も信じない神父として、批難されます。
でも当のフランク自身も失望していました。
果たして本当の聖人はいるのか?
奇蹟は本当に存在するのか?
主よ、教えて下さいと…

そうして何ヶ月も神父の仕事にはつかず、貧しい人々の中で、時々わずかなお金を人々に施しながら、共に過ごす。
貧困ゆえに犯罪を犯す人、人生に失望しアルコールやドラッグに溺れる人、飢餓と病気と暴力に溢れた世界。
今を生きていくことに必死な人々…でも、その目は死んでいる。
でも、フランクがお金を施すと、その紙幣と空に向かいキスをする人がいた。
『何をしているんだ?』と尋ねると、『神に感謝してるのさ』と答える。

たぶんフランクの中で
『主よ、あなたは本当に存在するんですか?
奇蹟はどこにあるのです?
人々は、こんな生活でも、あなたを信じています』
と、失いかける神への信仰心を模索していた。

そこへ舞い込んだ聖人調査依頼。
かつて共に神学を学んだ親友は出世し、司教の腹心と言われていた。
象徴的だったのは、その司教たちがエステで美容パックをし、プールで汗を流し、協議?の席ではワインが振る舞われ、綺麗な衣を身にまとい、ぶくぶく肥えていたこと。
それに引きかえ、フランクは悩み、やつれた感じ。

フランクは調査に際して助手がほしいと、自ら選んだ人を推薦して許可をもらいます。
かつての親友は言います。
『なぜ俺を選ばなかった!
俺は司教の腹心としてではなく、おまえの友人として力になったはずだ!』

フランクは言います。
『君はもう、主を模索してない。
心から、主を求めているやつに協力してほしかったんだ』

『俺はもう、主を感じる。
主が傍にいるのだ。
だからもう、主を模索する必要はない』

フランクは、その場を離れ、調査の旅に出ます。
奇蹟を起こすと人々から崇められている故ヘレン夫人。
その彼女がいた修道院に足を運び、人々が祈っているのは神にではなく、彼女にでした。

ヘレンは路上生活者から生まれた子。
その彼女は16歳の娘を置いて修道院に入り、給食配給所で貧しい人々のために尽くし生涯を終えます。
人々はそんな彼女を慕い、亡くなった今でも彼女のいた修道院に集まり、祈りを捧げる。

彼女の墓には、今でも多くの人が訪れ、花束などを備えていく。
娘のロクサンヌは、それを片付けながら
『母が聖人だったかどうかなんて、私にはわからないし関係ないわ。
こうやって片付ける方の身にもなってもらいたいわ』

ロクサンヌは、16歳で自分を捨てた母親を理解できなかった。
確かに、人々に尽くし善行を積んだ偉大な母ではあったけど、自分のことを捨てた母の気持ちは、どうしても理解できなかった。

この後、フランクとロクサンヌの絡みが何ともいえず、人間的。
主を模索するフランク。
母親を模索するロクサンヌ。

調査を終えて、聖人認定のための委員会が開かれ協議されるんです
が、調査員のフランクと判定員?の枢機卿とのやり取りが、これまた緊迫したもので息を呑みます。
聖人認定には2つ以上の奇蹟と、生前の善行が判断の材料になりま
す。
そこで問題になるのは奇蹟の確かな証拠と、善行が聖人と呼ぶに相応しいものであるかどうか。

彼女は路上生活者出身で、善行といっても給食配給所で仕事をしていただけ。
判定員の枢機卿は
『給食配給所などを作り、そこでの仕事を善行として聖人認定するなど、もってのほかだ!
その程度のことで善行などと、そんな勘違いしたやつが増えるから、神への信仰心を失う人々が増えるのだ!
売春、ドラッグ、そんなやつらが増えるだけではないか!
世の中は良くなるどころか、ますます悪くなるではないか!
そんなことで人々は救えないし、奇蹟など起こしえない、まやかしだ!』
そして言います。
『そのヘレンとかいう女性は結婚して娘もいたようだな。
その娘は、母親に捨てられたと言っているそうじゃないか。
そんな汚れた人物が聖人と言えるのか!』
(この辺のセリフはうろ覚えなので、間違ってたらすいません)

この後、フランクの攻防が続くんですが、最後の言葉が突き刺さりました!
『彼女は庶民が選んだ聖人なんです!
奇蹟の証拠がなくて証明できなくても、現に彼女に癒され救われた人はたくさんいる。
我々が、ここで何を言おうとも、聖人認定がされないとしても、庶民が彼女を聖人と認めたんです!』

この後も審議は続き…
果たしてヘレンは聖人認定されたのか?
フランクは真実に辿り着けたのか?
そして、娘ロクサンヌの運命は?

興味のある方は、レンタルして見て下さいね。


2006年02月01日(水)
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