Comes Tomorrow
ナウシカ



 ビューティー・コロシアム

まず簡単に、この番組の内容を説明すると『ビューティー・コロシアム』は和田アキコを司会とする、顔や容姿に悩む人の美容に関しての相談を受け付ける番組です。
もうシリーズ化していて、時々単発で放送されている。

結構、私はこの番組が好きで観てしまうんだけど、いろいろ考えさせられることがある。
ただ単純に、美容整形したり脂肪吸引などのダイエットをしたりして、綺麗になろうというものではなく、あくまでも人生を前向きに明るく生きるための糧として、整形もひとつのステップと捉え、やっていこうじゃないかというもの。

相談者の話を聞いてると、確かに酷い話も多い。
容姿だけでイジメにあったり、人から罵られたり、のけ者にされたり、こんなにも世の中は非情かと思うこともある。
だけど中には、『えっ!?それは、あなたの考え方が間違ってない?本当に容姿のせいだけ?』と思うものもある。

今日もそういう人が一人いた。
司会者やゲストの人にも一切心を開かず、頑なに何を言われても言い訳めいた反論を繰り返していた。

確かに対人関係が上手くいかないのを、全部、自分の容姿のせいにしてたら、まだ楽だよね。
ひがんで卑屈になって自己卑下しているようにも見えるけど、結局、全部、人のせいにしてない?
『私のこの顔のせいだ!全部、この顔のせいで何事も上手くいかないんだ!』
これって、自分のせいにしているようでいて、相手のせいにしてしまってるんだよね。
そういう風に差別的に、自分に接する人たちが全面的に悪いと。

本当にそれだけなんだろうか?
確かにイジメは良くない。
いかなる理由があろうと、イジメはした側が全面的に悪い。
だけど、ちゃんと自分自身を見つめ直す作業もしてきたんだろうか?と思える人物もいる。

相手の反応が、なぜこうなるのかわからない。
自分のどこが至らなかったんだろうか?
どうして、どうして!?
そして、それは顔のせい?容姿のせい?
人間関係って、それだけじゃないでしょ?
性格の合わない人もいるだろうけど、中には自分に合う人もいるだろうに。
顔や容姿は関係ないよと言ってくれる人もいるだろうに。
現に、すごく太った人とか、お世辞にも世間並みの顔とは言えない人でも、恋人がいる人がいるし、結婚して幸福になってる人もいる。

人間関係は確かに難しいし、誰もが一度は、悩みの一番上に上がったことがあるんじゃないだろうか?
そこで、自分の容姿のせいにだけして逃げちゃったらダメなんじゃないの?
それで問題は解決するの?
自分の発言(言葉)、態度には問題がなかったかって考えなきゃいけないこともあるんじゃないの?
相手の反応は、相手の問題ばかりではなく、自分にも潜んでる問題ではないの?

そこを考えるのが苦痛で、逃げてしまう人がいる。
相手に指摘されても、素直に取れなくて、自分が傷つくのが怖くて、心にフィルターをかけてしまう人がいる。
そして自分にとって、まだ楽な方の道(思考)に逃げ、都合のいい妄想?で勝手に解釈して、同じところに落ち着いてしまう人がいる。
ひょっとしたら、自分が変われるチャンスだったのかもしれないのに。
より更に良い人間関係を築けてたのかもしれないのに。

自分では全然そんなつもりもなかったのにと言っても、やはり人間関係は一人では築けないからね。
自分のことだけではなくて、相手のことも考えないといけないし、想像力や感受性を豊かにして、その都度その都度、相手との関係性において、自分のあり方というのも変化させていかないといけないんじゃないかと思う。
それが大人になるということなのかもしれない。

全部が全部は分かり合えなくて当然。
違いを認めるのは大前提だとしても、もう少し相手を理解する努力は必要ではないかと思う。
自分の中で作り上げたイメージだけでは、所詮バーチャルな付き合い方しかできないでしょう。
リアルな付き合い方っていうのも変だけど、人間って複雑なんだなぁ〜
アニメやドラマのようにはねぇ〜いかないよね〜


2005年05月31日(火)



 

誰かが言ってたっけかなぁ〜
愛されたきゃ、自分から相手を愛せと。
愛を欲しがってるだけじゃダメだと。
人を愛することで、自分をも愛されると。

無条件に親から愛されて育った人には、わかんないだろな。
愛が信じられないことを。
喧嘩しながらも、何だかんだ言いながらも、お互い助け合って心配しあって、やっていくのが親子ってもんだよと言った人がいたね。

そんな愛、いったいどこにあるんだか?
信じたところで、それを確かめる術はなし。
信じたふり、愛されてるふり、愛してるふり…

嫉妬なんかしないよ。
元々、そんなもの得られないってわかってるから。
私には無縁な世界だって知ってるから。

純粋無垢に、人を疑うこともなく、愛に満たされた笑顔。
泣いたり怒ったりしても、そこには揺るぎない信がある。
私は笑うしかない。

ただ笑うしかない、人前では…
でも一人になると、能面のように無表情なんだ。
無のようでいて、無ではない。
だけど、何もないんだ。

ただ決められた日常を送るだけさ。
淡々と、幸福そうに笑いながら、毎日を過ごすだけさ。
自分で自分を褒めながら、けなしながら、諭しながら、抑えながら、慰めながら、呆れながら、見つめながら、流されながら…
そして、年を取る。

群衆の中で笑いながら、ただ一人…


2005年05月23日(月)



 所詮

人の気持ちなんて、よくわかんないものだ!
本当の心は覗けない。
でも、人はどこかで、他者を信じたいと思って、自分が想像するところの他者の気持ちとやらを思い描く。

私は、ひねくれ者なので(私の気持ちが他人にわかって、たまるかよ!)という気持ちに時々なる。
そうだから、私は他者の気持ちとやらも、いろいろ分析、想像してみても、所詮はわからないもんだし、理解の範囲は超えてるだろうなと思ってしまう。

それは、ある意味、正しいのか?
わからないけど、自己コントロールに躍起になる。
自己中と言われれば、それまでだけど、私は(自分はこうする、自分はこう思う、自分は…)ということを大切にしている。
他者の出方によって、大きく自分の気持ちやら行動やらが乱されるのが嫌い。
こういうと誤解されるかもしれないけど、ここでは他者のことは縛らないし、何かを強要もしない。
(あなたがどうであれ、私はこうするけど、あなたはどうする?)というスタンスで、他者に選択の自由を与える代わり、私の気持ち、これから取る行動などを宣言する。
いけないかもしれないけど、その場で言い切ってしまう。

どうしても人は縁に触れ、良くも悪くも影響を受ける。
それはわかってる、いいことであることもわかってる。
でも他者次第で状況が変わることで、自分が心乱されるとしたら、それはあまり好まない、特に悪い結果はね。

説明するのが難しいけど、どっちに転んだとしても、私は自分によって、自分の行動において、物事を変えていくということに神経を集中させる。
変えられない事柄でも、目の前にある現実は、自分によって引き起こされたもの、または、あらゆる原因で必然的に起こったこと、だから、自分次第でどうにでもできるし、どうにでも捉えることができる、結局は自分次第だと開き直る。

そのように、長年に渡って訓練されてきたので、自己コントロールには長けてるんじゃないかと、自分で自分のことを思う。
変わらない親、振り回される自分。
どんなに心を砕いても、どんなに努力しても、それは一瞬にして無に帰す。
想像し難い形で、こっぱみじんにされる。

そこから逃れるには、どうしたらいいのか?
…そうだ、そんなところに自分の身(心)を置かなければいいんだ!
他者に崩されることのない、縁に紛動されることのないところに、いればいいんだ!
そういう風に学習してしまった。
いいのか悪いのか、こういう強さを身につけてしまった。
親に鍛えられた。

あの頃に比べると、随分自由になった。
自分を取り巻く環境を、ある程度コントロールできるようになったし、私は気持ちを切り替えるのも上手だ!
本当は引きずってるのかもしれないけど、スパーンと切って捨てるのを難なくやってしまう。

ああ〜また走り出した。
止まってられないんだ!
思ったらすぐ行動、できる時にすぐ行動、できなくてもすぐ他の方法を模索して、必ず進むべき道を探し出す。
悩んでられないんだ、感情的になってられないんだ、そんな暇があったら、何かする。
そうでないと、私の人生消えちゃう、そんな危機感があるのかもしれない。
こんな生き方、ダメなの?どうなの?

他者によって不幸になるのは認められない。
他者によって幸福になるのは有難い。
自分によって幸福になるのは素晴らしい。
自分によって不幸になるのは自己責任。

でも、あの尼崎の脱線事故は、明らかに他者によって不幸にされたケース。
ああいう場合はどうするのか?
私だったら、どうする?どう生きる?

自分が、他者によって不幸を与えられたら?
他者の痛みや苦しみを、少しでも取り除き、共に泣き、他者を少しでも幸福の方向へと支え、励まし、他者を幸福にすることで、自分の幸福に代える。
他者の幸福が、自分の幸福になる。
結局は、他者によって不幸にされた自分は、自分によってまた幸福になれる。
どっちに転んでも、幸福になれる。
辛く長く険しい道のりでも、誰人も幸福になれる。

所詮、自分は自分なんだ!
誰がどうであれ、何がどうであれ!


2005年05月07日(土)
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