Comes Tomorrow
ナウシカ



 戦闘体制

今日、月1のカウンセリングに行って来ました。
いろいろ話していてわかったのは、今、私は戦闘体制に入っているってこと。
全然、気づいていませんでした。

今、漠然と抱えていること、人間関係のことを話していくと、カウンセラーにこう言われました。
『まるで試合をしているみたいね』
(あっ!そうかも!?)と思いました。

人と相対する時、私は無意識に、勝つか負けるか、敵か味方か、そんなことを考えて、相手と向き合ってるような気がします。
そう、素ではないということ。
常に戦闘準備というか、ボクサーに例えるとわかりやすいけど、腕は胸の前で身構え、足はすぐに交わせるように、常に動いてる…

そう、いつもそうやって生きてきたから…
物心ついた頃から、そうやって親と戦ってきたから…
身も心も全部許して、自分の全部をさらけ出してというか、安心して自分を出せる場所なんか無かった…

気を許せば、足元すくわれる!
泣いたりなんかしたら、負け!
何があっても、何を言われても、ポーカーフェイス!
冷静沈着、精進、努力、褒められて奢らず、なじられて腐らず…
胸張って、顔上げて、地に足つけて…

演じ切ってました。
相手の出方を見てから、自分がどうするか決める。
初っ端から、こちらの手の内なんか見せない。
それが…それが…不覚にも崩れたことがあった。
そして…ボロボロ…

ああ〜やっちゃった!
人なんか信じちゃいけないのに、信じちゃった。
ああ…眠くなっちゃった…
この続きはまた…


2005年06月16日(木)



 十三の思い出

十三と言えば…
私は小学4年生まで、淀川区の塚本に住んでいて、十三も近くて、学校の遠足の時はいつも十三の辺りを歩いて電車に乗ったものです。
私の記憶では、いかがわしい?看板がいつもあちこちにあって、キョロキョロ見てしまう私たちに、先生は『見ないように!キョロキョロしない!』と必死に注意していたのを思い出します。

また、この辺は父とも2人で歩いたことがあり、おぼろげながら記憶にあります。
その父も、今年2月22日に亡くなりました。
離れて暮らしてから17年(高校3年生の時に両親が離婚)、父と最後に会ったのが8年前(実はすぐ近所に住んでいたんですが、私が結婚してから1度も会わず)

病院に入院する時も(今年2月7日)、入院してからも、2月24日の通夜も、25日の葬儀も、私は行きませんでした。
いえ、正確には行けませんでした。
生理的というか、性的というか、そういう嫌悪感があり、どうしても行けませんでした。
亡くなってからなら会えるかなとも思ったけど、魂だけになった今も、私の着がえ中や入浴中には会いに来ないでよね〜と思ってしまうほど、父の存在はトラウマだったので、未だに、そういった話題もなかなか打ち明けられずにいます(実は、うちの旦那も、旦那の両親も、私の父が亡くなったことを知りません)

2月24日は、うちの下の子の2歳の誕生日で、うちでケーキを買ってきて家族でお祝いしました。
上の子は旦那にそっくりだけど、下の子は私にそっくりで…生まれたことは妹が父に話していたみたいだけど、写真は送っていなくて(上の子の時は送りました)、それだけは悔やまれました。

1週間?1ヶ月?泣き明かしました、コッソリ…
まさか!あの父のことで泣けるなんて、自分でもびっくりしました!
親が亡くなっても、私は泣けないんじゃないかと思ってましたので…

不思議なことに、こんなに早く亡くなるとは思っていなかったのに、父が亡くなる2日前に、父が亡くなったという知らせを受け取る夢を見ました。
夢の中で泣きそうになってる自分に驚き、それで目が覚めました。
父が病気なのは妹から聞いていたけど、入院したのかどうかは聞いていなくて、あれからどうしただろうと思い立ち、妹に連絡を取る気になって、メールしたら入院はしたけど、容態は良くないとのこと。
それから急変、亡くなるまでは、あっという間…
悩む間もなく…ある意味、助かりました。
ちょうど、そんな時に限って、旦那は仕事が忙しく、家に2日帰ってきてなかったんです。
正直、助かったと思いました…

その間、日常は何ら変わらず、仕事もいつも通り行って、葬儀の日も普通に仕事してました。
職場の人も、訪問看護で会う患者さんも、誰も気づいてなかったと思います。
唯一、一人になれる車中でだけ、ボロボロに泣いていたことを…
それでも葬儀の日は…これも不思議なんですが、とても晴れ晴れした気持ちになったんです。
前日の通夜の日は、雨がよく降り、とても寒い日でした。
気持ちもジメジメ…
翌日は雨もカラッとあがり、なんとも言えない春の陽気♪

その葬儀の朝、実家の方の地元のお世話になった方が、うちに電話をくれていました。
留守電には、『今日はお父さんの最後のお別れの日です。○○ちゃん、待ってるね』
私はもう迷うことなく行かなかったけど、そのご好意は嬉しかったです。
私が母から刃物を突き立てられた時に、逃げ込んだのが、この方のお宅でした。

葬儀の日、訪問看護に回る車中で私は、何とも言えない気持ちになりました。
何だか、温かなものに包まれる感覚、自然と笑顔になれる不思議な感覚…
(ああ…地域の人たちがお題目を送ってくれている…私の父のために、お題目を送ってくれている…そして、私のためにも…)
(ちゃんと成仏できるね?罪を償ったね?今度は、人に迷惑かけるような生き方はするんじゃないよ!)と思える自分がいました。

想像だにしてなかった解決?の仕方でしたが、もう、あの父のことで悩まなくてもいいんだな、もう悪夢にうなされることもないんだなと思い、クリアーな気持ちで、良い思い出も、嫌な思い出も、乗り越えて?歩き出せるような気がしてます。
世間的に見たら、私のとった行動は非難ゴーゴーだろうけど、理解もされないだろうけど、父とは亡くなってから歩み寄れたような気がしてます。
亡くなって、やっと素直に本音で語れるような感覚?
私と父の間には、もう誰もいなくて、何もなくて、2人だけにしか理解できない思いがあって…

二子山親方の葬儀のニュースで、元夫人のインタンビューを聞いていて、全然立場も環境も違うけど、うんうんって頷きながら見てました。
少し、気持ちがわかるような気がしました。
うちの父は58歳でした。

いきなり赤裸々体験を告白しちゃいました。
やっとやっと、このことを語れるようになったんですよ!


2005年06月05日(日)
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