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2004年09月18日(土) ■ |
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Vol.509 へんてこりんな夢 |
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おはようございます。りょうちんです。
毎晩のように海の底よりも深い眠りに落ちてしまう俺は、夢なんてものをほとんど見ない。いや、おそらく見ているのだろうが、すこぶる寝起きの良くない俺は、起きてから3秒もしないうちに見ていた夢を忘れてしまうのだ。しかしその朝、そんな俺が鮮明な夢を見た。見ていた夢が曖昧にならないうちに誰かに話しておかなくちゃと、寝起きでまだ1%も稼動していない頭の俺は、完全に開ききっていない目ですぐ隣にいた相方に必死で夢の内容を話して聞かせた。以下に書くのは、その時の俺と相方の会話を再現したものである。 「布団屋さんに行ったの」。「え、なんだ、何の話?」。「夢を見たの、だから忘れないうちに話しとかなきゃ」。「あ、夢の話ね」。「布団屋さんに行ったの」。「うん、それで?」。「布団一式ください」。「布団を買いに行ったんだ?」。「中古のでいいです」。「えー? 中古の布団なんて聞いたことないよ」。「子供用のしかありませんって言われちゃった」。「ははは、なんだよ、その夢」。「仕方ないから子供用のに寝てみたら、ほらねー、足が出ちゃうでしょう?」。 夢に、常識とかつじつまなんてものは無関係である。今になって冷静に考えると、なんでそんなおかしな夢を見たのかわからないのだが。寝ぼけていた俺は、ただ見ていた夢を覚えているうちに誰かに伝えておこうと、その時は必死だったのだ。 それにしても、へんてこりんな夢を見たものだ。新しい布団が欲しいと思っているわけでもないのに、なぜに布団を買いに行ったか。そしてなぜに中古の布団で俺は良かったのか。しかもなぜに子供用のものしかないと言われて、それに寝てみたのか。まさに謎だ。そういや昔、王監督とテニスのラリーをする夢を見たこともあるが、久しぶりに覚えていた夢がそれに匹敵するくらいとてつもなくへんてこりんな夢で、なんだか複雑な気持ちだ。誰か夢占いなんぞができる人がいたら、この夢を占ってもらいたい。俺の深層心理には、いったい何が隠されているのだろうか。
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2004年09月17日(金) ■ |
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Vol.508 ついうっかりにはご用心 |
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おはようございます。りょうちんです。
先日のこと。お金を下ろしに銀行へ行った。ATMの前に立ち、いざ機械の操作に取りかかろうとしたところで、無造作に貯金通帳が置かれているのに気がついた。まったく知らない人の名義の預金通帳を、ぱらぱらとめくってみる。中には数十万円の貯金が入っていた。その瞬間、なんだか急に見てはいけないものを見てしまったような気がしてちょっとあわてたが、どうやらこれは忘れ物に違いない。 時刻は夕方。もう窓口は閉まっている。俺以外に誰も人はいなくて、どうしようかと考えた末。備え付けの電話で行員さんを呼び出すことにした。まもなく若い女の行員さんがあらわれて、彼女に見ず知らずの人の預金通帳を手渡した。 それにしても。この通帳の持ち主はお金だけを下ろして、大切な通帳を忘れていってしまったのか。なにか重大な考え事でもしていて、ついうっかり通帳を忘れてしまったのだろうか。多額のお金や預金通帳をついうっかり忘れてきちゃうとか、逆に拾ったりとか、そういう話はまれに聞くけれど。まさか自分が預金通帳を拾うなんて、ちょっとびっくりした。 でも、誰にだってついうっかりはある。そういや俺も、過去に大金の入った財布を、電話ボックスについうっかり忘れてきてしまったことがある。あれは初めてひとり暮らしをするために、部屋を探しに行った時のこと。いくつかの物件を見終わって、最後に契約を決めた大家さんへと電話するため電話ボックスに入った時。これから住むことになる部屋も決まって気が緩んでしまったからか、公衆電話の上に契約金として用意した数万円が入った財布をついうっかり置き忘れてしまった俺。忘れたことに気がついた俺は一気に青ざめて泣きそうになったが、時すでに遅し。結局財布は見つからなかった。 今回、俺の拾った通帳の持ち主も、忘れたことに気がついた瞬間に背筋が凍りついたに違いない。俺の拾った通帳は、ちゃんと持ち主の元へと戻っただろうか。ついうっかりにはご用心。
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2004年09月16日(木) ■ |
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Vol.507 ごはん大好き |
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おはようございます。りょうちんです。
俺はことさら、ごはんが大好きだ。ごはん=お米。この図式は、俺の中では絶対に崩せない。俺にとって「ごはんを食べる」というのは「ごはん粒を食べる」ということであって、パンやおそばを食べることではない。パンやおそばを食べる時には、「パンを食べる」とか「おそばを食べる」とか、「パン」や「おそば」という単語を無意識のうちに使っているのだ。だからごはんを食べに行こうと誘われてパスタ屋さんなんかに連れて行かれると、ごはん粒を食べる気満々でいた俺は慌ててココロの切り替えをしなくてはならない羽目になったりする。いや、それはそれでおいしければうれしいんだけど。 もちろん、パンもおそばもおいしいものならなんだって大好きだ。でも、やっぱりごはんにはかなわない。カレーパンもカレーうどんも大好きだけれど、俺にとっちゃやっぱりカレーライスがいちばんだというのが最もわかりやすい例か。一日一回は最低でもごはんを食べたいと思うし、どんなにおいしいおかずでもごはんがなくちゃおいしさは半減する。だから、スーパーの食品売り場で見かける試食コーナーに行くと俺はどうしてもごはんが欲しくなってしまうし、「ごはんおかわり自由」なんてコトバにはめっぽう弱いのだ。 今年もいよいよ新米の季節がやってきた。新潟など日本海側の米どころでは夏に集中豪雨を受けて米の出来が良くなかった地域もあったようだが、このへんの田んぼでは夏の天候にも恵まれて黄金色の稲穂がもうすっかり刈り取られた。お百姓さんが丹精こめて作ってくれたお米を、毎日おいしく食べれることに感謝しなくちゃ。 炊きたての新米は湯気の中でつやつやと光り、口の中にほおばるとやけどしそうなくらいあつあつだったが、ほのかな甘味が口いっぱいに広がってとてもおいしかった。噛み締めた新米のうまみだけで、おかずなんていらないとさえ思った。日本というお米の国に生まれて、俺は本当に幸せだ。やっぱり、ごはん大好き。
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2004年09月15日(水) ■ |
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Vol.506 シフクノオト |
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おはようございます。りょうちんです。
彼が病に倒れたというニュースを聞いた時、俺も含めて彼らのファンだった人は誰もが驚いたに違いない。まだ若いのに、難しい名前の病気と戦うためにメディアから姿を消していた期間は、いつだって彼のことが気がかりで心配だった。あれから2年。病気を克服して完全復活を果たしたという彼に会いに、俺は横浜へ行った。 6万人以上をも集めた観客は、ステージが始まる前からざわついていた。これからの出来事を期待しながら、誰もがその時を今か今かと待っていた。やがて夕闇が訪れ、定刻よりも10分遅れて彼らのライブが幕を開ける。 オープニングは「終わりなき旅」。最初から彼は病み上がりとは思えないほどの力強さで歌い、ギターもかき鳴らした。過去のヒット曲や最新のアルバムからの曲を中心に、エネルギッシュにパワフルに全身全霊で広いステージを所狭しと駆けずり回った。そして時には切ないバラードを切々と歌い上げ、大勢のオーディエンスのココロに響かせた。一方俺らも、一緒になって歌ったり、叫んだり、拍手を送ったり、こぶしを突き上げたり。「光の射す方へ」、「PADDLE」、「口笛」、「抱きしめたい」、「血の管」、「掌」、「youthful days」、「innocent world」、「くるみ」、「ANY」、「HERO」、「Tomorrow never knows」、「タガタメ」などなど、ゴキゲンな曲のオンパレード。アンコールも含めて全24曲、ラストの「SIGN」まで約3時間にも及ぶライブの間中、俺のボルテージは熱くなったまま冷めることを知らなかった。 彼らの放ってくれた音楽は、俺らにとってまさに「シフクノオト」だと思った。彼らの奏でる音が、本当に心地良いとココロから思った。そして俺は、彼らのことをさらに好きになってしまった。
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2004年09月08日(水) ■ |
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Vol.505 フルーツアレルギー |
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おはようございます。りょうちんです。
アレルギー体質の人ってすごくかわいそうだよなぁと、ずっと俺はそう思っていた。今の世の中、ホントに数多くのいろんな種類のアレルギーがある。日本人の3人に1人はアレルギー体質だとも言われているらしく、花粉症を代表とする鼻炎やくしゃみをともなうものから、ハウスダストやペットアレルギーなどによる激しい咳や喘息を発するもの、卵などの食品アレルギーによるじんましんなどなど、その症状もいろいろあるらしい。しかし、そのすべてに属さない健康なカラダだと、俺はずっと頑なに思っていた。アレルギーと俺とは無関係、そう思っていたのに。 ふとしたきっかけで、俺もアレルギー体質なのだということに気づいてしまった。俺のアレルギーは、フルーツアレルギー。メロンやパイナップルを食べ過ぎて口の中や舌がぴりぴり痛んだことのある人もいると思うが、俺の場合、特定の果物を食べてもそうなってしまうのだ。メロンやパイナップルはもちろん、トマトやキウイフルーツ、場合によっちゃ桃やバナナなんかでもそうなる時がある。果実が完熟しているほどその痛みは激しく、症状が出るのも早い。比較的ちびっこに多いアレルギーなのだそうだが、最近では大人でもフルーツアレルギーの人が急増しているらしい。俺の症状はかなり軽い方だと思うのだが、中には果汁に触れただけで唇が腫れたり口の中がかゆくてたまらなくなってしまう人もいるんだそうだ。これがアレルギーだったなんて、全然知らなかった。 そういえば、俺は子供の頃からこの痛みには気づいていた。口の中の痛みに食べ切れなくなったメロンを弟に泣く泣く譲ったこともあったし、大好物のトマトは真っ赤に熟したものよりもまだ青く熟れ切っていないものの方が好きだというのも、実はそういう理由があったからなのかもしれない。 それでも今までは、おいしいものは痛みをこらえてでも食べていた俺。そしてこれからも、俺はこの痛みに耐えながらもおいしい果実を食べ続けていこうと考えている。
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2004年09月06日(月) ■ |
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Vol.504 びーちくりん |
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おはようございます。りょうちんです。
それはまだ夏が始まったばかりの頃のこと。うだるような暑さのせいで十分に回転することのできない頭のまま、流れてくるFMに俺はぼんやり耳を傾けていた。DJの話す軽快なトークも頭には残らず、何についての話題なのかさえもよくわからない状態だった。そんな時、彼女の話す聞き慣れないひとつの単語に、俺のレーダーは反応してしまう。「びーちくりん」。彼女はしきりに「びーちくりん、びーちくりん」と連呼している。 「びーちくりん」とは何なのか? そのコトバが放つどことなくいやらしく淫靡な響きに、俺は一気に「びーちくりん」というものに惹きつけられた。さらに聞いていると、「真夏の空の下で水着モデルと一緒にびーちくりん大作戦に参加してくれる人を大募集!」なんて言っている。水着モデルと一緒にやる「びーちくりん大作戦」とは、いったいどんな卑猥な大作戦なのだろうか? そんないやらしい大作戦に、この俺も参加することができるのか? まだお昼前だというのに、俺の勝手な妄想は見る見る間に膨れ上がった。 しかしさらに彼女の声に耳を傾けていると、次第に「びーちくりん」とは何なのかがわかってきた。どうやら、浜辺のゴミ拾いをしたりきれいに掃除することらしい。「びーちくりん」は「BEACH CLEAN」のことで、週末に参加者を募って一斉に浜辺の掃除をするイベントが「びーちくりん大作戦」なのだそうだ。なーんだ。いやらしくも卑猥でもなんでもなかった「びーちくりん」、ちょっとだけがっかりした。そんないやらしい大作戦なわけがないのは当たり前だけど、でもそのネーミングはどうにかならないものか。 それからすこしして、今年は俺も海に行った。海水浴やBBQをしてさんざん遊んだあと、ふと浜辺を見渡すと至るところにゴミが落ちているのに気がついた。あの日に募っていた「びーちくりん大作戦」には参加できなかったけど、俺はひそかにゴミを集めて、たったひとりだけのささやかな「びーちくりん」を実行した。
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2004年09月05日(日) ■ |
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Vol.503 夏の終わり |
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おはようございます。りょうちんです。
ちょうど今くらいの季節、8月の終わりから9月にかけてのこのシーズンが、俺は好きじゃない。終わっていく夏に、どうも切なさを感じてしまうのだ。日本という国に生まれて、変化に富んだいくつもの季節を過ごせるというのは、本当にステキなことだと思う。外の景色が少しずつ変わってきたのに気づいたり、空気が違って感じたりするのができることに、新しい季節の到来をいつもうれしく思う。それなのにこの季節だけは、秋がやってきたことをうれしく思わないわけじゃないのだけれど、それ以上にいちばん大好きな夏という季節が終わってしまう寂しさの方が、俺の中では大きいのだ。 もちろん、秋には秋の魅力がある。しのぎやすくなった陽気は、何をするにも快適な季節だと思う。収穫の秋、味覚の秋。おいしいものだってたくさん口にできるのもこれからのシーズンだ。だけどそうやって秋のステキなところをたくさん自分に言い聞かせてみるのだが、やっぱりどうも今はまだ夏の終わりをなごり惜しんでしまう俺だったりする。 今年の夏は、特に7月から8月のはじめにかけては、この上なく暑かった。40℃近くまで気温が上がった日も何度もあったし、連続真夏日の日数も記録を塗り替えた。熱かった分、楽しくて充実できた今年の俺の夏の記憶は、お盆が過ぎて急激に涼しくなったとたん、一気にそれは切なさに変わった。まだ夏よ終わらないで、楽しかった時間よ過ぎていかないでって、ココロの中で何度も叫んでいた。それなのに、今年の秋はいつもより早くやってきてしまったようだ。 朝晩めっきり涼しくなって、窓を開けたまま寝ていると寒くて布団に包まっている俺がいる。日中でも扇風機の出番は少なくなった。半袖のTシャツの上に、長袖シャツの袖を通す。あんなにうるさかった蝉の声も、いつのまにかもう聞こえなくなった。そのかわりに、夜になると虫の声が聞こえてくる。例年より早い稲刈りも始まった。もはや、夏じゃない。季節はもう、秋なんだ。
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2004年09月02日(木) ■ |
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Vol.502 スクーターに乗って |
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おはようございます。りょうちんです。
この夏、俺は念願だったスクーターを手に入れた。前々から欲しいと思っていたのだが、俺には車も自転車もあるのにわざわざ大金をはたいてスクーターを購入するのもどうかと、長い間ずっと躊躇していた。そんな折、車の免許を取ったバイト君がそれまで愛用していたスクーターの処分に困っているというのを聞きつけて、彼から格安で譲ってもらったのだ。 そういえば俺も大学生になって車の免許を取るまでは、ずっとスクーターを愛用していた。問題集を一夜漬けで頭に叩き込み、初めて幕張の免許センターに行ったのも確かあの時だった。それからはずっとスクーターばかり乗り回していた俺。寒い冬の日でもどしゃ降りの雨の日でも、学校に行く時もバイトに行く時も遊びに行く時も、いつも俺の移動手段はスクーターだった。それまでのチャリンコライフとは比べものにならないほど、スクーターという小さなマシンは俺の行動範囲を広げてくれたのだ。 あれから10年以上も時が過ぎて。俺は再びスクーターに乗るようになった。最初は運転もおっかなびっくりだったけど、ちょっと走っているうちにすぐにあの頃の感覚がよみがえってきた。蒸し暑い真夏の夜でも、スクーターに乗ると風を体中で感じることができる。夏の風をひとり占めできた気がして、なんとも気持ち良い。思わず歌い出した俺の大きな声は、過ぎてゆく風の中で見事にかき消された。 今では雨が降らない限り、俺は仕事も買い物も実家に帰るのもほとんどスクーターで行動するようにしている。そんな中、スクーターに乗っていると季節を感じることができるんだなぁと気づくようになった。車のフロントガラス越しじゃ感じ取れないことも、スクーターに乗っていると敏感にわかる時がある。空気がひんやりしてきたとか虫の声が聞こえるとか、ここ数日そんなことに気づかされた。草のにおいがすると思ってふと目をやると、早くも稲刈りが始まっている。日中はまだ暑い日が続くけれど、もう秋はすぐそこまでやってきているのかもしれない。
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2004年09月01日(水) ■ |
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Vol.501 オリンピックはおもしろい |
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おはようございます。りょうちんです。
アテネオリンピックが閉幕してから数日たつけれど、いまだに俺はあの熱い感動が冷め切れないままでいる。時差の関係上、日本ではほとんどが真夜中のライブ中継となり、なかなかオンタイムですばらしい戦いの数々を見れなかったと嘆く人も多い中、俺はちょうど自分のパソコンが壊れていたという理由も手伝って、毎晩のようにTVの前で戦いの行方に声を荒げていた。前回シドニー大会の時よりも、何倍も熱くなっていた自分だったように思う。 他のスポーツの大会とは違って、どういうわけかオリンピックはすべての競技に熱くなれる。思わず夢中になってしまった卓球やレスリングや重量挙げやカヌーやシンクロナイズドスイミングなんて、たとえTV中継していてもオリンピックじゃなければ絶対に見なかっただろうし、見ているとルールさえよくわからなくったってがんばっている選手を応援したくなってしまうのだ。それにしても、日本の選手団の活躍は本当にすばらしかった。競泳陣や柔道陣などの活躍により過去最多のメダルラッシュに、俺もずっと興奮しっぱなしだった。 もちろん、メダルを手にすることのできなかった選手だって輝いて見えた。より速く、より強く、より高く、より遠くへ、そしてより美しく。ただそれだけを目標に向け、すべてを犠牲にして、長い間苦しい練習やプレッシャーに耐え続けてきた結果。その答えが夢をつかむことのできた嬉し涙だとしても、たとえそれが戦い敗れた悔し涙だとしても、熱い感動を呼ばないはずがない。それは日本の選手だけに限らず、どこの国の選手でもブラウン管越しにあふれるほどに伝わってきた。 オリンピックはおもしろい。スポーツ観戦は本来おもしろいものだけど、オリンピックはなおさらそう思う。次は北京。4年後の北京大会を、実は今から楽しみにしている。
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