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2012年08月29日(水)
アメリカの大統領が日本のホテルに泊まるとき

『ホテルオークラ 総料理長の美食帖』(根岸規雄著・新潮新書)より。

【このフォード大統領の来日以降、アメリカの大統領が来日するとホテルオークラに宿泊するというパターンが増えました。
 ブッシュ大統領、カーター大統領、クリントン大統領等々は、ホテルオークラを好んで指定してくれていたようです。アメリカ大使館が近いという地の利もあったのだと思います。
 もちろんそれは名誉なことなのですが、スタッフは大変です。
 当時客室係として大統領一行を担当した経験を持つ、三橋由之氏がこう証言してくれました。
「大統領一行はスタッフを合わせれば百数十名になり、報道陣も大量にやってきますから、約500室ある別館全体が貸し切りということになります。別館が丸ごとホワイトハウスになるのです。ことに大統領がお休みになるお部屋は、最上階(ペントハウス)のインペリアルスイートになるのが通例ですが、来日に合わせてこの階には、米軍の横田基地から持ってくる20ミリの分厚い防弾ガラスの壁がつくられます。さらに各部屋を火薬探知犬が嗅ぎ廻り、不測の事態に備えます。私たち客室担当も震え上がるような獰猛なドーベルマンでした。
 客室の清掃は、特別なバッジをつけた担当者が行うのですが、必ず一人一人にSPがつきます。このSPは、廊下に花をいけた花瓶があると、その水までチェックするのですから完璧です。
 大統領の室内に入れるのは、厳重なチェックを受けたルーム担当者のみ。日本の総理大臣や財界人から花が贈られてきても、全てSPスタッフが根元から花をむしって調べるために、高価な花も台無しです、ケーキが贈られてきたこともあったのですが、それも食べる前にナイフでめちゃくちゃに突つかれて、チェックが終わるころには原型を留めていませんでした」
 アメリカ大統領一行の滞在は名誉なことであっても、ホテルオークラ全体としては、営業的には非常に苦しいという実情もあったようです。なにしろ大統領の滞在中はホテルの内外で警備が厳重になり、一般のお客様にも影響が出るからです。】

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 フォード大統領の来日以来、アメリカ大統領の「定宿」となっているホテルオークラ。
 「人類最高の権力者」が泊まるわけですから、警備が厳重なのはわかるのですが、大統領がやってくるたびに、ここまでやっているのだなあ、と驚かされました。
 ホワイトハウスのように、大統領がそこにいるための施設で、もともと警備体制がととのっているのであればともかく、「民間のホテル」であるオークラにとっては、「名誉ではあっても、営業的には苦しい」というのもよくわかります。
 僕が宿泊客だとしても、「そんな息苦しい状況のホテルに泊まるのは、遠慮したい」ですし。

 しかし、各部屋を獰猛なドーベルマンが嗅ぎ廻り、花やケーキはチェックでボロボロ、というのは、なんだかとても殺伐とした風景ではありますね。
 「なにもそこまで」と言われるくらいのことまでやらないと、安全というのは確保できないものなのかもしれませんが、この話を読むと、大統領が狙われるのが遊説中や劇場内で、宿泊先のホテルではない理由もわかります。
 これでは、「そこにいる」とわかっていても、そう簡単に手は出せないはず。
 まあ、だからといって、ずっと「箱入り大統領」というわけにもいかないでしょうけど。

 これを読むと、いくら「インペリアルスイート」に泊まっていても、人類最高の権力者というのは、気苦労ばかりが多くて、あんまり楽しくないんじゃないかなあ、と考えずにはいられません。
 もちろん、楽しもうと思って大統領になるわけじゃないでしょうが、彼らだって、ほとんどの人は、もともと「普通の暮らし」をしていたのだろうから。
 



2012年08月22日(水)
努力は、見えるところで、できるだけハデにやったほうがいい。

『考えずに、頭を使う』(桜庭和志著・PHP新書)より。

【ところで、これまで逃げていった新弟子たちは、みんな人の目の届かないところで練習したがった。柱の陰とか、みんなの後ろのほうに隠れて、とか。努力は見えないところでするものだ、という言い方もあるかもしれませんが、それがどういう見え方をするのか、逆の立場になってみればわかります。
 人の目の届かないところでやっているのには、見られたくない理由があるのです。つまり、数をごまかしている可能性がある……。見ている側にしてみれば、そう思うのも無理はありません。
 それは、とてももったいないこと。せっかく必死になってやっているのに、あらぬ疑いをかけられたら損以外の何物でもない。
 だったら、多少はバテている姿をさらすことになったとしても、見えるところでできるだけハデにやったほうがいい。頭を使うとは、こういうことだと僕は思います。】

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 『IQレスラー』などと呼ばれることもある桜庭和志選手。
 この新書を読んでいると、その合理的な考え方に「なるほどなあ」と唸らされるところがたくさんありました。
 この文章は、そのなかのひとつです。

 「努力は人に見せるものじゃない」っていうのは、日本人の美学、みたいな感じで、けっこう認知されていると思います。
 僕も「努力は陰でするものだし、そのほうがカッコイイ」と信じてきました。

 でも、長年レスリングや格闘技の世界で生きてきて、先輩に指導されたり、後輩を指導したりしてきた桜庭さんは、「指導する側にとっては、見えない努力は誤解を招くことが多い」と、あえて苦言を呈しているのです。
 体育の時間に、なるべく人目につかないように準備運動をしていた運動オンチの僕にとっては、「ああ、そんなふうに見られているんだなあ、やっぱり……」という感じでもあります。
 実際、人目につかないところだと、どうしてもサボりがちになりやすいですしね。
 
 「見えるところでできるだけハデにやったほうがいい」
 そうやって全体練習をこなして、必要性があるのであれば、それこそ個人練習をあとで追加すればいいだけのことですし、指導者に対して「こいつはちゃんと練習している」と思わせておいて損なことはないはずです。
 あんまりアピールしすぎると、仲間には嫌われそうですが。

 そもそも、「○○選手は陰でこんなに練習していた!」なんていうのが美談として伝えられている時点で、それはもう「陰の努力」じゃないんですよね。
 そういう人たちは、「陰で努力している」というセルフプロデュースをやっているだけです。
 どこかで誰かが見ているか、自分で話すかしないと、「陰の努力」のことは、誰も知らないはずなのだから。

 「努力をアピールすること」は、けっして悪いことじゃない。
 少なくとも、誤解を避けるために、必要な技術ではあるのです。



2012年08月15日(水)
「何てことない高校生活で何にもなかったんですよ」

『本の雑誌』2012年8月号(本の雑誌社)の連載エッセイ『続・棒パン日常』(穂村弘著)より。

(穂村弘さんが、雑誌の企画で、いまはアナウンサーになっている同級生のIさんと一緒に卒業した名古屋の私立高校を訪れたときの話)

【記憶が白い理由が全く思い当たらないわけではない。何もなかったからだ。高校生活を営む上で多少なりとも発生する筈の恋愛やクラブ活動を巡る出来事が私の身には何も起こらなかった。アルバイトをしたこともなかったから、小学生の生活と大差ない。周囲の大人しい友人たちの場合もそれに近かったと思う。
 女の子と自転車の二人乗りをしたことがない。文化祭で喫茶店をやったとき、一緒にカーテンをつくったくらいか。空白の中に友達や女子から名前を呼ばれた記憶はいくつかあって、それが自分にとっては貴重な出来事だったからだろう。名を呼ばれるだけのことが珍しい。誰も私に用はないのだ。
 映画や小説とはちがって、現実には何もないということがある。わかっている。しかし、それを認めるのは勇気がいる。それとも現実はそんなものなんだろうか。何もないのが普通なのか。調査したわけじゃないから不明。
「何てことない高校生活で何にもなかったんですよ」。同行の記者に向かってI君が云った。その穏やかな口調に勇気を得て、そうなんです、何にもなかった、と私も云ってみる。口に出して、ちょっとほっとした。何にもないのはおそろしい。】

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 穂村さんは、このエッセイのなかで、当時の記憶、駅からの道筋や周囲の景色、校舎の配置などがほとんど記憶に残っていないことに驚いた、と仰っておられます。
 僕は男子校出身で、卒業して以来、20年くらい母校を訪れていないのですが、この穂村さんの話を読んで、なんだかすごくホッとしたんですよね。
 僕も、もし同じような状況になったら、きっと「何もない」だろうから。

 でも、実際のところ、こういう状況に置かれたら、人は「何か」を探してしまうと思うのです。
 とってつけたような「面白いエピソード」を、かなりのフィクションをまじえて、作り出してしまうかもしれません。
 やっぱり、「何もない」のは、怖いし、「高校時代に何もなかった人」だと、他人にみなされるのは、ちょっと恥ずかしい。

 この話のなかで、Iさんの「何にもなかったんですよ」という言葉を読んで、僕も少し勇気がわいてきたのです。
 ああ、アナウンサーになるような人でも、高校時代「何もなかった」んだ、って。
 逆に「すごすぎて、何も言えない」ような思い出があった可能性もありそうですが。

 けっこうみんな「何もなかった」のですよね。
 それを口にするのは、けっこう勇気がいることなのだけれども。




2012年08月07日(火)
NHK_PR 1号さんの「もっとも印象に残っている失敗」

『中の人〜ネット界のトップスター26人の素顔』(古田雄介著・アスキー)より。

(「ネット界のトップスター」たちへのインタビューをまとめた書籍から。NHK広報局の「中の人」NHK_PR 1号さんの回の一部です。企業アカウントでありながら、「ツイッターでは、あえて尖ったトーンを落とさないように意識している」という話に続いて。インタビュアーは古田雄介さん)

【――波風を抑えるのと逆向きの対策ですね。その部分をNHK公式アカウントで通すには、ご自身の覚悟や対応力もさることながら、局内の理解が必要ではないですか?


NHK_PR 1号(以下「1号」):そこは問題ないですね。職業柄、みんな賛否の意見が出ることに慣れていると言いますか、職場では「誰もが『いい』という番組を作っちゃいかん」と教えられていますから。
 NHKでは多様な放送を出すのが使命だと考えていて、実際『おかあさんといっしょ』も『NHKスペシャル』も作っていると。それだけ幅広いものを出せば色んなニーズを持ってご覧になる方が出てくるので、たとえば、子供番組でぬいぐるみが会話しているのを流すと、「なんで動物が日本語をしゃべっているんだ?」というお叱りの電話をいただくこともあるんです。そういうご意見も含めて、幅広いものを出せば何かしらの反応はあるんだと、皆知っているんですよ。それが健全だし、それが当たり前だと。


――ああ、なるほど。第一線の報道機関で培ってきた土壌ですね。賛否の否にいちいちアレルギーを起こさず、理にかなった空気が流れているという。

1号:全員が絶賛するものを目指すと、偏りが生まれてきますからね。偏らずに中立を目指すと、「手ぬるい」、「やりすぎ」と、両方の側から同じ量のご批判がきます。それがちょうどよいわけで、賛否両論はあって当然と思っています。
 感覚的にはやっぱりラジオに近くて、パーソナリティとして番組を1本担当している感じなんですよね。リスナーがいなくなるようなつまらない方向にいきたくないから、それなりのエッジは効かせるし、番組は長く続けたいから、ヘンにリスキーな無茶はしないようにするという。

(中略)

――印象に残っている失敗を教えてください。

1号:はやぶさの件やさかなクンさんの件など、色々ありましたが、一番心に残っているのは、番組案内をした際の一件です。NHK総合とEテレで時間が被っている番組があって、フォロワーさんから「両方見たいんですけど」というツイートをもらって、「じゃあひとつは録画で見てください」と返したら、「録画機器を持っていないんです」と。生活保護を受給されている方で、子供に両方見せたかったということだったんです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ちなみに、NHK内でも、「1号」さんの正体はほとんどの人が知らないそうです。
 本人に「あれって誰がやっているか知ってる?」なんて聞かれることもあるのだとか。
 このインタビューを読んでいると、「マスゴミ」なんて嘲られることが多い日本のメディアも、かなり懐が広いのだな、という感じがします。
 NHKって、公共放送として、「なるべく批判が出ないように、無難に」やっているのかと思いきや、ここまでの覚悟をして番組をつくっているんですね。
 それにしても、子供番組に「なんで動物が日本語をしゃべっているんだ?」なんてクレームを付けてくる人が本当にいるというのには驚きました。
 そりゃあ、ある程度は「いろんな批判が来るのはしょうがない」と思っていないと、やってられないですよね。
 
 その一方で、twitterはラジオ番組みたいなものだということで、「長く続けられるように、リスクは避けていく」という、かなり微妙なバランス調整を行っているのです。

 この「もっとも印象に残っている失敗」の話を読んで、僕は正直「この相手の人、本当に生活保護をもらっている人だったのだろうか?」などと考えてしまいました。
 NHK_PR 1号さんを困らせるための「なりすまし」だったのではないか、とも思うんですよ。
 少なくとも、twitterに書き込める、なんらかのツールは所有しているということだし。
 そこで「自分の想像力の欠如」を反省したNHK_PR 1号さんはすごいなあ、と僕は感じました。
 反応せずに、スルーすればいいだけの話でもありますしね。

 これを読むと、twitterというのは、多くの人と繋がれる一方で、ついつい、「自分を基準に考えてしまいがちなツール」なのだなあ、と考えずにはいられません。
 言葉だけだと「冗談でした」と言ったり、後で謝っても通用しない場合が多いですし。

 「自分の色」を出さないと、見向きもしてもらえない。
 でも、調子に乗ると、すぐに叩き落とされる、そんな危険もあるのです。