初日 最新 目次 MAIL HOME


活字中毒R。
じっぽ
MAIL
HOME

My追加

2012年07月27日(金)
「10分の1の金額をあげる」作戦

『生きる悪知恵』(西原理恵子著・文春新書)より。


(読者からの相談に西原理恵子さんが答えるという新書から。

相談者は、以前、お金に困っていた友人から、「100万円、せめて50万円でもいいから貸してくれ!」と頼まれたそうです。
「貸せない金額ではない」けれど、相手がトラブルの多い人であったこともあって、結局貸さなかったのですが、その後相手が死んでしまった(死因の詳細はわからないが、「クスリ」らしい、とのこと)とのこと。
「貸してあげるべきだっただろうか?といまでも悩んでいる」という相談への西原さんの回答)


【あなたがもし貸していたら悩まずに済んだかというと、そうじゃない。これから先、自分の商売がうまくいかなくなったり、体の具合が悪くなったりしたときに、ふと「あの100万円があったら……」みたいな気持ちになる。そのときに、相手の奥さんや子供を恨んだりするのが一番悪い心の風邪の弾き方だと思う。だから、やっぱり貸さないほうがいい。どっちみちムダだから。
 そうはいっても、気持ち的にモヤモヤする、断り切れないっていうんだったら、そこで私が高須先生から聞いた方法。彼のところには「カネくれ!」って言う人がたくさん来るけど、どうしてますかって聞いたの。そしたら、相手が貸してくれという額の10分の1をあげなさい、だって。「貸す」じゃなくて、「あげる」。もし100万円貸してほしいと言うなら10万円をあげて、「あと9人、頭を下げて集めるくらいの努力はしましょうよ」と。100万円貸しちゃったら、返ってこないとやっぱり痛いし相手にも腹が立つでしょ。せっかく友達だったのが、どうしても疎遠になっちゃうし。でも、10万円ならわりとあきらめもつくし、貸し借りじゃなくて「10万円あげた人」「10万円もらった人」と思えば友達として付き合っていくこともできるじゃない。
 私もなかなか断れなくて何回も嫌な思いをしてきたので、今はこの「10分の1作戦」で行こうと。別に10分の1じゃなくても、相手との親しさによって、その人に「見舞金としてあげた」「香典としてあげた」と思えるぐらいの金額をあげればいい。それで怒ったり、文句を言うような人は、そもそも友達じゃないでしょう。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕はこれを読んで、ちょっと考え込んでしまったんですよね。
 そんなに大金持ちではないので、「お金貸して!」って頼まれる機会はほとんど無いですし、昔から「カネ貸して」なんて言うヤツは、友達じゃないと思っていたから。

 「高須クリニック」の高須先生や西原さんのような成功者のもとには、そういう「お金の無心」がたくさん来るようです。
 「そんなの全部断ればいいのに」とは思うのだけれど、交友関係が広いと、そういうわけにもいかないのかなあ。「お金を貸してくれなかった」ということで、逆恨みされることもありそうですよね。

 「貸したお金」というのは、なかなか返ってくるものではありません。
 そもそも、返すアテがあるのなら、人間関係も考えて、金融機関から借りることを選ぶ人のほうが多いはずです。
 西原さん自身も、この回答のなかで、「恥ずかしながら、貸し倒れが2000万円以上ある」と告白しておられます。
 昔の友人が子供を抱えて困っているのを見かねて、「つい100万円くらい」貸してしまうのだけれど、二度と連絡がなくなってしまう。
 「借金が返ってきたのなんて、2〜3人かな、今までで」とまで仰っています。
 それでも、「手をさしのべてあげずにはいられない状況」っていうのもあるんだろうなあ、自分が少しでもお金を持っていればなおさら。

 この「10分の1あげる作戦」が、正解なのかどうか、僕にはわかりません。
 そもそも、10分の1だって、けっこう痛い。
 それでも、「貸して踏み倒され、さらに友人関係も破綻するよりは、あげてしまったほうがいい」というのは、わかるような気がするんですよね。
 借金って、催促されるほうもイヤだろうけど、催促するほうにとってもイヤなものだから。
 相手が友人なら、なおさら。

 お金持ちっていうのも、それはそれでけっこう大変なんだなあ、と考えさせられる話ではありました。
 もちろん、「お金が無いよりはマシ」なのだとしても。



2012年07月11日(水)
「子ども」と「子供」の問題

『その「正義」があぶない』(小田嶋隆著・日経BP社)より。

【子供は、原稿を書く人間にとって、何よりもまず、表記の問題として立ち上がってくる。
 このことに、私は、過去20年来、折にふれて、わずらわされてきた。
 たとえば、どこかのメディアに原稿を書く。
 私は、ふだん、「子供」と、この言葉を、二文字の漢字で表記している。
 と、媒体によっては、ゲラの段階で「子ども」という書き方に訂正してくるところがある。
「ん?」
 最初のうちしばらく、私は、意味がわからなかった。
 で、個人的に「漢字」と「かな」の混じった単語表記が気持ち悪いので、再度「子供」に直してゲラを戻したりしていた。
 と、先方から電話がかかってくる。
「あのぉ、コドモの表記なんですが、『ども』をひらかなにする書き方はお嫌いでしょうか?」
「まあ、あんまり好きじゃないですが。そちらがどうしてもということなら、別にこだわりませんよ」
「……でしたら、恐縮ですが、ここは当方の表記基準に沿って、『子ども』とさせていただきます。どうも申し訳ありません」
「いや、かまいませんよ」
 こういうことが幾度が続いて、何回目かのある時、私は、説明を求めた。
「お差し支えなかったら、『供』をひらがなに開く理由を教えていただけますか?」
 と。この質問に対して先方の語ったところはおおむねこんな感じだった。


1.子供の『供』の字には、「お供」という意味合いがあって、結果「コドモ」と「子供」表記すると、『大人に付き従う者」であるというニュアンスが生じる。

2.その他、「供」を、神に捧げる「供え物」と見る見方もある。


「いや、私がこう思っているということではありません。読者の一部に、いまご説明したみたいな受け止め方をされる人々がいる、ということです。とにかく、慣例として、『コドモ』は『子ども』にしておいた方が面倒が少ないということです」
 なるほど。
 全面的に納得したわけではなかったが、私は、先方の説明を受けいれることにした。モメるのも面倒だし、どっちにしても大差はないと思ったからだ。
 新聞社や雑誌と付き合っていて、この種の問題が持ち上がることはそんなに珍しくない。
 そして、ほとんどの場合、私は、先方の表記基準をそのまま了承することにしている。用語や表記についてこだわり出すときりがないし、実際のところ、文句を言ってどうなるものでもないからだ。

(中略)

 話を「コドモ」に戻す。
 説明を受けて後、しばらくの間、私は、「子ども」という表記で原稿を書いていた。
 と、ある時、童話作家の先生(かなり有名な作品を書いているちょっと有名な先生)から、メールをいただいた。前半部分は、いつも原稿を楽しく読んでいるというリップサービスで、後半(←たぶん本題はこっち)は「子供」の表記について、メディア側の強要に負けては駄目だぞ、というお叱りの言葉だった。
 以下、内容を列挙する。


1.「子供」の「供」は、単に複数形の名残り。たいした意味はない。

2・こういう文字を取り上げて問題にしたがるのは、子供を利用したおためごかしだ。

3.差別のないところに差別を言い立ててそれを問題視する連中は、差別をネタに何かをたくらんでいる。油断してはならない。

4.表現者が表記について妥協するということは、武士が刀を捨てるのと一緒。許してはならない。しっかりしなさい。

5.何よりもまず漢字とかなを交ぜて書く「交ぜ書き」は絶対に醜い。書いてはならない。


 恐れ入って、私は、早速返事を書いた。
「了解いたしました。以後気を付けます」
 以来、私は、特に制限がない限り、「子供」もしくは「こども」と書くことにしている。
 でも、媒体の側が「子ども」表記を推奨してくる時には、しぶしぶ従ってもいる。
 うん。わがことながら、ふぬけた対応だとは思う。でも、仕方がないのだよ。独自の表記を押し通すには、それなりの手間がかかる。そういうのが私はイヤなのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 小田嶋さんは、「そもそも『子ども手当』の表記自体が『子ども』を採用していて、福祉行政や教育の現場では、いまなお『子ども』という書き方がスタンダードになっているのではないか」と推測されています。
 実は僕も、この「こども」をどう表記するかに関しては、アドバイスをいただいたことが何度かあります。
 「こども」が「大人に付き従うもの」とか「供え物」という意識は全くないのですが、「そう感じる人がいる」と言われてしまうと、「それは考え過ぎなんじゃないかな……」と思いつつも、やっぱり気にはなります。
 いまのところ、僕のなかでは統一されていなくて、けっこう場当たり的に使っている、というのが実情です。
 個人的には、「子ども」と「子ども」よりも、「コドモ」とカタカナにしてしまうほうがはるかにいろんな(子どもを特別視するとか、ちょっとバカにしたような)ニュアンスを含んだ表現だとは思うのですが、これはまあ、あまり公の場所では使われません。
 
 しかしながら、思い返してみると、「子ども手当」が、「子供手当」と書かれているのを見たことがないので、行政的には「子ども」を使うべき(あるいは、使ったほうが無難)だと考えているのかもしれませんね。

 「子供」か「子ども」かで、書いている人のスタンスを色分けしようというほうが、乱暴なのではないかと僕は思いますが、その一方で、この有名な童話作家の先生の「子ども」批判にも、内容的には頷けるのだけれども、「そこまでこだわる必要があるのかなあ」と感じてしまうんですよね。

 もし僕が職業的物書きだったら、自分の意志を貫き通せるような大御所でないかぎり、「はいはい、まあ、面倒なことは避けたいですものねえ」って、あっさり「子ども」に変えてしまいそう。
 逆に言えば、そこまで「子供」と漢字で書くことにこだわりもない、というのが本音です。
 たぶん、世の中もそういう人が多いから、誰か声が大きくてめんどくさそうな人が言った「『子供』だと親の付録、生け贄!」みたいな、想像力が豊かすぎる話が『子供』と書きにくい理由になってしまったのでしょう。
 
 それなら、「美しい」の「美」なんて、生け贄になる羊が元になってできた漢字なんですよ!とか、言ってみたくもなるし、そんなことにこだわる前に、「こども」のためにできることがあるんじゃない?という気もするんですけどね。

 「子ども」か「子供」か?
 実にめんどくさくて、どうでもいい問題ではあるのですが、「差別表現」というのは、こういうふうに生まれてきて、いつのまにか「禁忌」になってしまうのだな、というのがよくわかる話ではあります。
 とはいえ、「表現の自由のために、『子ども』じゃなくて、『子供』と書くぞ!」なんて主張するほどの「根拠」も「やる気」もないんだよなあ。だからこそ、こういうのは連綿と受け継がれてしまうのでしょう。
 少なくとも、「こども」にとっては、「そんなのより、小遣いアップしてくれないかなあ」って感じだろうとは思うけどね。



2012年07月04日(水)
「フェイスブックの友達は、150人程度が信頼関係を保てる限界」

『フェイスブックが危ない』(守屋英一著・文春新書)より。

【私は、フェイスブックの友達が150人を超えたら、友人関係を見直す必要があると考えている。
 米国・ニールセン傘下のNM Incite(2011年12月調べ)によれば、友達リストから削除した主な理由は、「不愉快だから(55%)」「あまりよく知らないから(41%)」が多く、続いて「営業目的だったから(39%)」「気分をめいらせるから(23%)」「反応が少ないから(20%)」「政治的な投稿が多いから(14%)」「別れたから(11%)」となっている。
 いずれにせよ、不愉快な思いをしている人が多いことは、事実だ。
 英国の人類学者ロビン・ダンバー氏は、ヒトがどのくらいの集団規模で生活しているか調べた結果、現代社会で共同生活を営む上での上限人数は約150人である、と結論づけている。
 この結果から私は、「フェイスブックの友達は、150人程度が信頼関係を保てる限界」と考えている。後述の利用者の行動パターンかどうかを分析し、不正アクセスの疑いがある場合に追加の認証手段を用いるリスクベース認証の通称「友達当てクイズ」の観点からも、友達の人数が多すぎるとクイズに正解する確率が下がり、結果的に自分のフェイスブックにアクセスできないという問題がおこりうる。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「現代社会で共同生活を営む上での上限人数は約150人」なのだそうです。
 この数字、パッと見て、「少ない」と思うか、「そんなに多いのか」と考えるのか。
 学生時代、同級生の顔と名前を一致させるのも困難だった(というか、周囲からは僕もそういう存在だったのではないかと思うのですが)僕自身は、「150人って、そんなに大勢、大丈夫なの?」ちう感じなんですけどね。

 『フェイスブックが危ない』を書かれた、インターネットセキュリティの専門家の守屋さんは、これに準じて、「フェイスブックの友達も、150人程度が信頼関係を保てる限界」だと述べておられます。
 ネットワーク上では、学校や職場と違って、「物理的な距離」のことをあまり考えなくてすむので、150人というのは、よりいっそう「現実的に対応できる人数」のような気がします。
 というか、「相手の顔写真と名前が一致するには、このくらいが限界」といったところなのでしょう。

 しかしながら、『フェイスブック』や『mixi』などのSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)をやっていると、自分の「ネットワーク上の友人」が少ないと劣等感が刺激されてしまうのです。
 自分の友人が少なく、書いたものにはわずかな反応しかないのに、友人はちょっとしたことを書いただけでも「イイネ!」がたくさんつけられていたりすると、「自分ももうちょっと『ネットワーク上の友達』が欲しいなあ」とか考えがちなんですよね。
 それで、かなり基準を緩くして「友達集め」をやってみると、今度は、不快な言動に悩まされたり、いちいち「イイネ!」と反応するのがめんどくさくなったり……
 
 実際のところ、僕自身も、友人も『フェイスブック』は、一部の自分をアピールするのに積極的な人以外は、「食事のメニュー紹介」と「旅行自慢」にしか使えていないのです。
 「自分や家族のセキュリティ」とか考え始めると、SNSで何か商売でもやろうというのでなければ、そんなに書けることは多くありません。

 もちろん、「友達」が多いのは悪いことではありません。
 でも、「友達を増やしすぎて、かえって何もできなくなってしまう」というケースは、少なくないのです。
 やっぱり、「顔と名前が一致しないような人」を「友達」にしちゃいけないよね。
 自分では、「ネット上だけ」と思い込んでいるのだとしても。