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2011年11月29日(火)
「草食系男子」と「腐肉系女子」

『地雷を踏む勇気』(小田嶋隆著・技術評論社)より。

【思うに、「草食化」という言葉には、思考停止以上に厄介な副作用がある。
 思考のみならず、感受性から情念にいたるまでのすべての精神作用を凡庸な比喩にまとめあげてしまう、どうにも困った呪縛が発生するのだ。
「草食化」「草食系」という言葉を、その意味するところに従って「恋愛に対して消極的な」という形容に置き換えて考えればそんなに抵抗を感じずに済む。
 でも、やっぱりダメだ。しばらくすると、どうにもならない違和感が生じる。無表情に草を食む山羊やシマウマの映像が脳裏に浮かんでしまうからだ。
 恋愛に積極的な男子が「肉食系:で、消極的な男が「草食系」だというこの言い方を敷衍すると、恋愛及びセックスは「捕食」に相当することになる。つまり、この言葉を使っている人間は、ライオンがトムソンガゼルを襲って食べるみたいなことを、男が女を口説くことになぞらえているわけだが、実際の話、恋愛というのは、一方の人間が他方の人間を狩って食べる関係と同一視して良いものなのだろうか。この言葉を使う人々が、そう思っているのだとしたら、そりゃあんたがそういう恋愛(つまり、相手をエサと考えるような)しかしてこなかったということなんではないのか?
「草食・肉食」という対照関係が、「狩り」の連想から出発した言葉であることはわかっている。そう思えば、ライオンやシマウマが出てくること自体はそんなに奇異なりゆきではない。
でも、「狩り」の先には、殺戮があり、捕食があり、血があり犠牲がある。それらの顛末とその絵柄と、男女の交際の様相はあまりにもかけはなれている。
 百歩譲って言うなら、「男は狼だから用心しなさい」という言い方には、一定の根拠があるかもしれない。無論、全面的な説得力があるわけではない。が、年長の人間が若い娘に与える訓戒として評価するなら「男は狼」説は、かなりの実効性を持っている。ここまでは認めても良い。
 ところが「男は狼であるべきだ」という思想になると、もはや正当性はない。
「据え膳食わぬは男の恥」といった調子の、昭和前期のセクハラ格言と比べても、さらに凶悪だ。
 底の浅いマチズモだと思ってもらえればまだ上出来な方で、レイプ礼賛思想と解釈されても仕方がない。私はそう思う。乱暴狼藉も甚だしい。
 女性の立場から男の草食化を嘆く文脈で書かれるテキストも、この2年ほどの間にすいぶんと大量生産された。
 私は、この方向からのものの言い方も、評価しない。率直に言えば浅ましいと思っている。
 交際には、それぞれに固有な駆け引きが介在しているものだし、人と人との関係は、男女のそれに限らず、簡単に一般化できるものではない。その意味では、草食系男子の増加を嘆く論陣を張る女性がいることは別に奇異なことではないし、その種のサービス記事を真に受けて真剣に我が身の将来を懸念する女性読者が生まれるのも無理からぬところなのだろうとは思う。
 でも、そうだとしても、「あたしは羊」「あたしはおいしい肉」「男なら私を狙うべき」という自意識には救いがたい傲慢と依存が宿っている。このことはどうやっても肯定できないと思う。私は気味が悪い。冗談じゃない。どうしてオレがあんたを狩らなけりゃならないんだ? それに、昨今の男子が恋愛に消極的なのが事実であるのだとして、その理由は、彼らが草食化したからだとは限らない。肉の方が腐っているからというふうに考えることだって可能なはずだ。女性の腐肉化。腐肉系女子。うん。撤回する。でも、自分が草より上等だと考えるのは思い上がりだぞ。】

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 小田嶋さんは、このあと、「草食系という言葉が、表現として下品であることはともかく、この言葉が流行したことには意味があるのだというふうに私は考えている」と仰っておられます。

 僕もこの「草食系」という言葉を聞いたとき、すごく違和感がありました。
 そして、この言葉を広めたのが女性側であるということにも驚かされました。
 もちろん、「草食系」というのは、おとなしくて穏やか、「肉食系」というのは、「激しやすくて凶暴」というようなニュアンスではあるのでしょうけど、自分たち女性のことを「エサ」とか「肉」だと見なしているっていうのは、あんまりじゃないかな、と。

 そもそも、相手がカッコいい男だったら、「私を食べて!」なのに、気に入らない(大部分の)男の場合には、「寄るな!」「触るな!」だったりしますしね。
 そういうダブルスタンダードな態度が、モテない男にとっては、かなり癇に障ってしまうのです。
 とはいえ、これは女性に限ったことではなく、男性のあいだにも、そういうダブルスタンダードは存在しているんですけどね。

 「レイプするくらいのほうが、元気があっていい」というような暴言を吐いて辞任した大臣がいましたが、男性のなかには、そういう「エネルギッシュすぎる性欲」みたいなのを否定しきれない人もいるのです。
 それにしても、女性側から、「私を狩って!」って言われるのは、それによる男女のリスクの差を考えると、意外というか、あまりに無防備というか……

 いやむしろ、こういう風潮は、「女性のほうが男性を狩るハンターになっている」ということなのかもしれませんけどね。



2011年11月08日(火)
ゲームのレビューほど、効率が悪い仕事ってない。

『超クソゲー3』(太田出版)より。

(『ゲーム批評』最後の編集長、奈良原士郎さんへのインタビュー「特別企画・伝説の活字系ゲーム雑誌『ゲーム批評』は何に敗れたか?」の一部です。ゲーム雑誌『コンティニュー』の元編集長・林和弘さんも同席されています)

【インタビュアー:『ユーゲー』(『ゲーム批評』と同じマイクロマガジン社から出ていた、中古ソフト専門誌)のライターは原稿料を度外視して、とことんゲームをやり込んでいましたからね。

奈良原:当時のゲームプレイ時間の増大が、僕らメディア側の人間にとって非常に厳しいものになってましたね。『ゲーム批評』の一番のウリがソフト批評じゃないですか? これほど効率が悪い仕事ってないですよね(笑)。

インタビュアー:僕も実感としてわかります(笑)。『ユーゲー』はかなりの部分を思い出で書けますけど、『ゲーム批評』は新作をイチからやらなきゃいけませんからね。

奈良原:それでも割けて4ページですから「どうすんだ?」ってことですよね。そこが時代の流れって意味で大きかったなって思いますよね。だから(100時間以上かかる)『ディスガイア』はマンガに逃げた。このスタイルで本を作ることが難しくなってたのは事実だと思うんです。あとは当時、娯楽全体の中での家庭用ゲーム市場の衰退もモロに受けてたなって印象はあるんですよね。

インタビュアー:あの頃は『脳トレ』とか軽めの携帯ゲーム機用のソフトが流行る一方で、家庭用は重くなる一方でしたよね。

奈良原:DSのヒットが出だしていけるかなと思ったんですけど、じゃあDSのゲームを『ゲーム批評』はどう扱えばいいんだって。

インタビュアー:100万以上売れたメジャーなソフトって、かえって批評が難しいですよね。

奈良原:そうなんです。ビジネス的な観点で『脳トレ』が売れる理由を分析する記事は書けるんだけど、誰がそんな本買うの? って。そうやって考えれば考えるほど「ゲームをどう扱うのか?」っていうスパイラルが非常に大きくなっていったんです。最初に甘くみてた分、そのダメージはより大きかったですね。】

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 『ゲーム批評』は、1990年代半ばに創刊され、2006年に休刊となった「伝説のゲーム批評誌」です。
 当時は、スクウェア批判などのセンセーショナルで歯に衣着せぬ記事(+「メーカーからの広告は入れない」というポリシー)で、一部のゲームマニアからは熱い支持を集めていました。
 そんな『ゲーム批評』の最後の日々を知る、奈良原元編集長へのロングインタビュー、とても興味深く読みました。

 ファミコンが誕生したのは、僕が小学校高学年の頃ですから、「大学に入ったら、東京に行って、『ログイン』か『ファミ通』か『BEEP』でアルバイトするんだ!というようなことを、けっこう本気で考えてもいたんですよね。

 しかし、このインタビューを読んでみると、「ゲームのレビュー」というのは、かなり「割に合わない仕事」であるということがわかります。
 まあ、ちょっと考えてみれば、わかりそうなものなのですが。

 書評家・杉江松恋さんが書かれていたものによると、書評家も、ある本についてのあとがきや書評を頼まれた場合には、たくさんの関連書籍(同じ作者の過去の作品や、その作者が影響を受けた作品など)を読んで、レビューを書かれるそうなので、「1冊だけ本を読めばいい、簡単な仕事」ってわけではなさそうです(ただし、書評家がみんな、杉江さんと同じスタイルで仕事をされているかは不明です)。

 それにしても、「大作ゲーム」を「隅から隅まで遊び尽くしてからレビューを書く」のだとすれば、それに必要な時間や手間に比べると、レビューの対価は「割に合わない」ですよねやっぱり。
以前、某有名ゲーム週刊誌のクロスレビューのコーナーで「担当者がほとんど遊ばずに点数をつけているのではないか」という疑惑が取り沙汰されていましたが、本当にあれだけのゲームをやりこみまくってから点数をつけるのは、現実的に不可能だと思います。
それを「何時間か遊んだだけのレビューなんて信頼できない」と考えるか、「何時間かで魅力を伝えられないようなゲームはダメだ」と思うかは、人それぞれなのでしょう。
正直、これだけたくさんのゲームが発売されていると、「何時間かでもひとつのゲームに触ってからレビューする」だけでも、大変な手間に違いありません。

 ものすごく複雑な、マニア向けで時間がかかるゲームがある一方で、『脳トレ』なんて、たしかに「現象としてはレビューできても、そのゲームそのものを何ページも使ってレビューするのは難しい」でしょうし。

 ネットでは「攻略サイト」がすぐにできてしまいますし、他の人の「感想」も知ることができます。
 ゲーム雑誌とそこで「ゲームをレビューする人たち」にとっては、どんどん難しい時代になってきているのは間違いないようです。



2011年11月02日(水)
「お父さん、マンションへ引っ越しなさい」

『勝負哲学』(羽生善治・岡田武史共著/サンマーク出版)より。

(棋士・羽生善治さんと、前サッカー男子日本代表監督・岡田武史さん。いまの日本を代表する「勝負師」ふたりが、お互いの「勝負哲学」について語り合った本の一部です)

【羽生善治:たとえばスランプのときなどは、何でもいい、小さなことでいいから、何を変えてみるといいと思います。早起きをするとか、服装を変えるとか、新しい趣味を始めるとか。生活の中に、そんな小さな変化やメリハリをつけることで心の停滞が防げるところがあります。そうして精神の流動性が高まれば、メンタルコンディションも上向きになっていくはずです。

岡田武史:その気分転換が渡すが下手くそでしてね。コンサドーレ札幌の監督をやったとき、契約時にはJ1だったのが、就任時にはJ2に落ちていました。そんなのすぐに昇格させてやると思っていたのに、なかなかうまくいかなくて悩みました。
 北海道には単身赴任でホテル暮らしをしていたんですが、ホテルの部屋で試合のビデオなどを見ながら、ああでもない、こうでもないと打開策を考え続けます。それが仕事ですし、考えるのをやめたら監督は務まりませんから、食事をしている間も風呂に入っているときも、バカみたいに考え続けます。でも、考え続けているとやっぱり煮詰まってくるんです。
 そんなことを電話で家内にグチったら、「お父さん、マンションへ引っ越しなさい」といわれましてね。引っ越せば、自分で掃除したり、洗濯したり、ご飯をつくったりしなくちゃいけない。それが気分転換になるからというんです。引っ越したら、家内のいうとおりでした。つまり、精神の安定に重要なのは生活なんですよ。メンタルコントロールにはふつうの生活が何より大事なんです。

羽生:勝負とは無関係の日常生活が片方にきちんと担保されている、そのことが大切なんですね。たしかに盤上を離れて、ふつうの生活、ふつうの時間が流れている場所に身を置くとホッと安心します。

岡田:でしょう? 負けて歯ぎしりしながら家に帰ってきたら、おやじのそんな感情や思惑とはまったく関係ない、ふつうの人間の暮らしがそこに展開されている。それは苛立ちよりむしろ慰めや癒しのほうがはるかに大きいことです。
 自分にとってサッカーは生きるか死ぬかの、厳しい気の抜けない世界だが、他の人間にとってみたら、勝とうが負けようが別にどっちてもいいことだ。その事実の自覚は大切なことで、心をなごませてくれるシェルターにもなるし、自分の世界にのめり込みすぎないよう距離をとってくれる作用もあります。それがすなわち、効果的なメンタルコントロールにもつながるんじゃないでしょうか。】

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 この岡田監督の話を読んで、「なるほどなあ」と感心してしまいました。
 人間、「自分にとって命がけ(とまでは言わなくても重要な)仕事をやるときって、とりあえず「日常のことは後回しにして、その仕事に集中しよう」と考えがちなものですよね。
 岡田監督を招聘した、コンサドーレ札幌のフロントも、日本代表監督の経験者だし、雑事にわずらわされずに監督としての仕事に集中してほしい、といことで、ホテルの部屋を提供していたはずです。

 でも、実際にそういう生活をしてみると、人間、かえって煮詰まってしまうというか、何か月間も一つのことに集中し続けるというのは、けっこう難しいことのようです。

 掃除や洗濯といった「日常的な家事」って、一人暮らしだと、どんなに忙しいときでも、定期的に「やらなければならない状態」になります。
 ところが、「だからこそ気分転換になる」のだという面もあるんですね。
 ホテル住まいで、気分転換に自分の部屋を掃除する人はなかなかいないでしょうし、精神的に追いつめられているときには、「必要な状況にならないと、やる気になれない」でしょうし。

 逆に、「試験勉強などで追いつめられているときに、むしょうに掃除や洗濯がしたくなる」っていうこともありますよね。
 原稿の締め切りに追われた筒井康隆さんは、編集者が宿泊しているホテルを訪れた際に「部屋の風呂を洗っていた」という伝説があります。

「精神の安定に重要なのは生活なんですよ。メンタルコントロールにはふつうの生活が何より大事なんです」

 僕も若い頃は、「何かに没頭するには、日常の雑事は邪魔だ」と考えていました。
 しかしながら、いまは、この岡田監督の話、とてもよくわかりますし、「マンションで生活して、日常を取り戻すこと」をアドバイスした監督の奥様の慧眼にも感服します。
 こういうのって、自分ではなかなか思いつかないことなんですよね。
 とくに、大きなプレッシャーにさらされているときには。