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2011年06月29日(水)
「カラシニコフ」は、なぜ世界でいちばん人気があるのか

『先送りできない日本』(池上彰著・角川oneテーマ21)より。

(「砂の国のヒット商品(1)カラシニコフ」という項から)

【商品の品質と価格のたとえとして、ふさわしいかどうか疑問ではありますが、世界のゲリラや反政府勢力に人気の商品があります。世界各地のゲリラ戦で欠かせない武器としてゲリラたちに知られているのが「AK-47」(「カラシニコフ」という自動小銃)です。世紀の傑作といわれるカラシニコフの特徴は、「隙間だらけ」。敢えて部品と部品の間に隙間を作り、砂漠の砂が入り込んでも、弾が詰まって作動しなくなることがないように設計されています。熱帯のジャングルでも、アフリカの砂漠でも、どんなに過酷な条件下でも、すぐに使えます。非常にシンプルな作りのため誰にでも扱え、分解も組み立ても簡単、価格も手ごろ。複製も簡単ということで、模倣品も含めて圧倒的なシェアを誇っています。「カラシニコフ」は設計者の名前です。ロシア人技術者のミハイル・カラシニコフは、ナチスドイツとの戦いに参戦し負傷。ドイツ軍に襲撃されて味方がほぼ全滅する中でのわずかな生き残りでした。「自動小銃さえあれば、全滅しなかったはず」という無念の思いから、仲間の命を守る銃として設計したのがAK-47でした。
 しかし、皮肉なことに世紀の傑作は、その使いやすさから世界に広まり、いまや「核兵器よりも効率的に人を殺し続けた武器」と言われるようになりました。もしこれを日本人が設計したら、砂が入り込まないように一分の隙もない銃を作ろうとしたでしょう。実際、太平洋戦争中の日本軍の銃は、故障しやすく、兵隊たちは、毎日銃の手入れに追われていました。】

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 そんなに兵器に詳しくない人でも(というか、「兵器に詳しい人」っていうのは、いまの日本では少数派だとは思いますが)、「カラシニコフ」という名前は耳にしたことがあると思います。
 それほどまで「カラシニコフ」という銃が知られるようになったのは、こんな理由があったからなんですね。
 「味方が全滅したこと」を悔いた技術者がつくりあげた銃が、こんなに世界に広まり、多くの人の命を奪い続けているというのは、カラシニコフさんにとっては、設計者冥利に尽きることなのか、それとも、「こんな銃を設計しなければよかった」のか。

 カラシニコフという銃が、「安くて性能も悪くない」というのはどこかで聞いたことがあったのですが、これほどまでに普及したのは、「隙間だらけのシンプルな作り」のおかげだったそうです。
 機械が「隙間だらけ」というのは、僕にとっては、なんとなく気持ち悪いのですけど、戦場という過酷な環境で使われるということを考えれば、たしかに、「すごく高性能だけれど、取り扱いが難しく、故障しやすい銃」よりは、「砂が少し入っても作動する銃」のほうが望ましいはず。

 たしかに、日本の技術者であれば、「少々トラブルがあっても作動する銃」ではなくて、「絶対にトラブルが起こらない、完璧な銃」を作ろうとしたのではないかと思います。
 それが、技術者としては理想に近いのかもしれないけれど、使う側の立場になって考えてみれば、「専門家じゃないと修理できない、高性能で高価な銃」よりも、カラシニコフのほうが「便利」な場合も多いのです。

 カラシニコフが「安価で取り扱いやすい」ために、少年兵や非熟練兵にも使用され、さらに多くの犠牲者を生んでいるというのもまた、戦場における現実ではあるのですが。



2011年06月23日(木)
「人の目や世間というものは、車窓から見える景色みたいなものなんです」

『秋元康の仕事学』(NHK「仕事学のすすめ」制作班・編)より。

(2010年5月にNHK教育テレビで放送された「ヒットを生み出す企画力 秋元康」の放送とテキストを元にまとめられた本の一部です)

【第1章でも申し上げたように、もしも僕がお茶汲みをするのであれば、その部署の全員の健康状態や趣味嗜好を調べて、それぞれの人に合ったハーブティをブレンドして出してあげようと思うでしょう。なかには、そのときに先輩から「なに、あのコ、勝手なことして」と言われる人もいるかもしれませんが、そういった意見は全く意に介さなくていいですよ。
 人の目や世間というものは、車窓から見える景色みたいなものなんです。例えば、電車の窓から、田んぼの真ん中で踊っている裸の女の人が見えたとします。みなさん、そのときは「なんか、変なのがいるぞ」って窓際に集まりますよね。けれど、次の駅で降りてタクシーを飛ばして見にいく人はいないものなのです。
 あるいは男性が、「おれ、エアロビ習おうかな」と、ふと思ったときに、でもレオタードを着ることが、恥ずかしいと思うかもしれません。はじめのうちは、見た人は「プッ」と笑うかもしれないけれど、何回か通っていると、ずっと見ている人なんて誰もいなくなるんですよ。多くの人は、そのはじめの部分だけを気にして、やりたいと思うことを断念してしまうんです。
 ですから、先輩に「なに、あなた、勝手なことして」と言われることだけに怯えて、何もやらなかったりすることが、僕はとてももったいないなと思うんです。その先輩が家までずっと後ろをついて「カッテナコトシテ、カッテナコトシテ……」と耳元でささやいていたら別ですよ。けれど、そんなわけ、ないじゃないですか(笑)。
 人に悪口を言われたとしましょう。悪口を言われたら、みなさん傷つくでしょう。でも僕は、悪口を言われてずっと落ち込んでいる人によく言うんですけれども、悪口を言った張本人は言った瞬間に満足することが多いんですね。それでもう充分で、そのあとは友達と飲み屋でバカ騒ぎをしているか、テレビを見て大笑いして、とっくに忘れてしまっています。それなのに言われた被害者のほうが引きずってしまうんですね。そうやって、ずっと傷ついている人というのは、何かこう、おならを手に握って、ずっと嗅いでいるような感じに見えるんです(笑)。もう、いいじゃないですか。その瞬間は臭かったんだからと思うのですが、すごく大事に、何度も何度も「くせぇなあ……」と言っているように見える。それは、非常にもったいないと思うんですよ。なぜなら、いつかは忘れるわけじゃないですか。だったら早いほうがいいでしょう?
 僕が今、人生の半ばで思うことというのは、自分勝手でわがままに生きることの大切さです。もちろん社会のルールは守らなければいけません。青信号は進めで、赤信号は止まれということを守らなければ、この社会では生きていけません。しかし、それさえ守れていれば、人に嫌われようが、自分の生き方を貫くほうが魅力的だと思うんです。新しいことをやろうとするときには、必ず反対意見が出るものなのです。多少嫌われてしまうのは、しょうがないんですね。つまり、嫌われる勇気を持たないと優れた企画は生まれないのです。「こんなのはだめだ」「こんなの当たるわけがない」と言われては当然なんですよ。むしろ、みんなが「いいんじゃないの?」という平均点の企画ほどつまらないものはないんですよ。】

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 これを読んでいて、僕は、「あの秋元康さんも、いろいろと苦労してきたんだなあ」と思わずにはいられませんでした。
 こういう心境に至るまでには、悪口に対して、けっこう傷ついたり、落ち込んだりされたこともあったのではないでしょうか。
 放送作家として「時代の寵児」になったときの秋元さんへの評価は、けっして好意的なものばかりではありませんでした。
 僕も、「なんかうまくやったなこの人は……おニャン子クラブの高井さんと結婚までしちゃったし……」と思っていましたから。
 有名になるっていうのは、けっして、良い面ばかりじゃない。

 ここで秋元さんが仰っておられるような「人の目や世間」って、やっぱり気になりますよね。
 でも、自分がその「人の目や世間側」になったときのことを考えてみると、たしかに、「他人がやることなんて、ちょっとくらい変でも、自分に直接迷惑がかかるものでさえなければ『車窓から見る景色』みたいなもの」なのです。
 「世間」にとっては、その程度のことなのに、僕も含めて多くの人が、「はじめの部分だけを気にして、やりたいと思うことを断念してしまう」。
 ほんと、もったいないですよね。
 その入り口さえ突破してしまえば、あとはもう、どうってことないのに。

 この「悪口を言う側と言われる側の不平等」というのは、ブログをやっていると感じることがよくあります。
 言ったほうは「日頃の苛立ちを、顔の見えない相手にちょとぶつけただけ」で、それこそ、「言い終えた(あるいは掲示板などに書き終えた)瞬間に、何を書いたのかさえ忘れてしまう」のに、言われた側は、いつまでもそれを引きずってしまう。
 ブログのコメント欄などでは、「言う側」に比べて、「言われる側」は、「自分の場所で、いろんな人の目があるだけに、口汚く罵ったり、無視したりするのも「世間」の目が気になる、という事情もあります。
 眞鍋かをりさんが以前言われたように「ネット上の悪口は、見たら負け」だというスタンスで、無視していくしかないのかもしれません。
 もちろん、秋元さんや眞鍋さん乃場合は、賞賛や応援も多いでしょうけど、ネガティブな言及も、ブログをやっている一般人とは大きな差があるはず。
 いずれにしても、「名無しで悪口を書いて去っていっただけ」の人の言葉を過剰に気にするのは、たしかに「割に合わない」ことです。
 頭ではわかっていても、ついつい、「くせぇなあ」をやってしまいがちではあるのですが。

 「嫌われる勇気を持つ」っていうのは、「どこで悪口を言われているかわからない世の中」を生きていくためには、すごく大事なことなのではないかと僕も思います。
 結局、「嫌われないことを最重視した言葉」って、誰からも強く好かれることはないのだから。



2011年06月14日(火)
悩みに悩んで、最後にパッと浮かんだ結論が、「ああ、これはもう一回エヴァンゲリオンをやるしかないんだな」というものでした。

『40歳の教科書NEXT』(モーニング編集部&朝日新聞社[編])より。

(各界の著名人に「40歳」という年齢をどう乗り越えていくべきか?について、さまざまなテーマで聞いたインタビュー集より。映画監督・プロデューサーである庵野秀明さんの回の一部です)

【『エヴァンゲリオン』については思い入れも強かったし、テレビ版の制作当初から「これは自分の最高傑作になる」という予感がありました。ほかの作品と比べてどうというよりも、一試合完全燃焼としてこれができれば、もう作家として十分じゃないかと思っていました。
 そしてありがたいことに予想以上の評価や反響があり、客観的には大成功だったと思うのですが、そこから先がたいへんでした。
『エヴァンゲリオン』の評価が高まるほど、周囲は「次もエヴァっぽい作品を」と期待してきます。そして実際、世の中には「エヴァっぽい作品」が溢れるようになる。
 でも、そうやって周りがエヴァに傾いていくほど、僕はエヴァから離れたくなるんですよ。作家として同じテーマや手法をくり返すのも嫌だし、もっと別のものにチャレンジしたくなるわけです。
 それで実写映画(『ラブ&ポップ』『式日』など)を監督したり、ほかの企画もやってみたりするんですけど、どうも呪縛から解かれていないし、新しい企画も作品として形にできない。エヴァを否定しようとすればするほど、自分の中でエヴァが顕在化してくる。
 考えてみれば、当然の話でした。
 当時の僕がやろうとしていたのは、ただ「エヴァじゃない」というだけの作品で、むしろ、ひたすらエヴァを否定することで、逆にエヴァの呪縛に囚われていたんです。
 また、当時の苦しさは、アニメ業界の閉鎖性に幻滅していたことも大きかったと思います。このままアニメ業界の閉じた世界にいても、新しいものは何も流れてこない。新鮮な水がいっさい流れない、狭くてよどんだ沼にいる魚になったかのような感覚です。いまにも窒息しそうで、とにかく外に出て新鮮な空気が吸いたかった。
 それでほかのジャンルの方々と接したり、自分にとって未知の分野に足を踏み入れたりしてみたのですが、結局、どこに行っても閉塞感はあるんですよ。アニメ業界ほどではないにせよ、それぞれ閉じた世界になっている。故郷の山口から大阪の大学に出たとき、そして東京へと出て行ったときと同じ感覚でした。場所が変わったところで、自分の感じる息苦しさは同じなんだなって。
 苦しかったですよ。この地獄からどう抜け出せばいいのか。どうすれば自分はエヴァの呪縛から逃れることができるのか。
 悩みに悩んで、最後にパッと浮かんだ結論が、「ああ、これはもう一回エヴァンゲリオンをやるしかないんだな」というものでした。もう一度、ゼロから出なおして再構築すれば、さすがに決着がつくだろうと。いま制作している『エヴァンゲリオン』の「新劇場版」は、そんなこともあって始めたんです。
 なんだか、迷いも気負いもなかったですね。さっさと終わらせて次に行こう、というくらいに考えていました。】

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 とはいえ、やりはじめてしまったら、「さっさと終わらせて次に行く」というわけにもなかなかいかず、「新劇場版」は、当初の予定よりも、制作がだいぶ遅れてしまってはいるようです。
 まあ、いいかげんなものをさっさと作られるよりは、時間をかけて納得が行く作品となることを、庵野さんだけでなく、多くの観客も望んではいると思うのですが。

 この庵野秀明さんの話を読んでいると、庵野さんの代表作であり、大きな名声をもたらした『エヴァンゲリオン』は、それゆえに、その後の人生を大きく変えてしまったのだということがよくわかります。
 僕は庵野さんが『ラブ&ポップ』とか『式日』なんて映画をつくったという話を聞いて、後日、その映画を観て、「ちょっと有名になったからって、ネームバリューを利用して、しょうもない作品で遊んでばかりだな……」なんて思っていたんですよね。
 たしかに、これらの実写映画は、「『エヴァンゲリオン』の庵野秀明」でなければ、商業作品として制作されることはなかったように思われますし。
 ところが、庵野さんにとっては、とにかく、『エヴァンゲリオンの呪縛』から逃れるために、これらの新しい世界を模索していたわけです。

【当時の僕がやろうとしていたのは、ただ「エヴァじゃない」というだけの作品で、むしろ、ひたすらエヴァを否定することで、逆にエヴァの呪縛に囚われていたんです。】

というのは、いま、その「呪縛」を乗り越えつつある庵野さんだから、ようやく見えてきた当時の姿で、その当時は、とにかく試行錯誤の連続だったのでしょう。
とにかく、自分の最高傑作とは違うものをつくらなければならない、というのは、本当につらかったのではないかなあ。
「あの『エヴァ』を作った人が、迷走してしょうもない作品ばかりをつくっている」という「世間の声」も、当然、耳には入っていたでしょうから。

そして、「アニメ業界の閉鎖性」についての言葉は、身につまされます。
結局みんな、いつも「自分の業界」は実像以上に「閉鎖的」だと思い込んでしまいがちで、外に出ては失望することの繰り返しなのかもしれませんね。

これを読んで、「世間に評価された作品をつくった人」も、それはそれで大変なんだなあ、と思いましたし、庵野さんが『エヴァンゲリオン新劇場版』の後、どこに向かうのかが、楽しみになってきました。

まさか、また一周して、『新々劇場版』なんてことはないよね……