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2011年05月28日(土)
トラウマ絵本『ねないこ だれだ』

『俺だって子供だ!』(宮藤官九郎著・文春文庫)より。

(宮藤官九郎さんが書かれた、愛娘「かんぱ」ちゃんの育児エッセイをまとめた本から)

【今回も絵本について。
 かんぱが生まれなかったら全く関心を持たなかったであろう絵本の世界。しかし読んでみたら、これがなかなか興味深い。仕事で大人向けのストーリーばかり考えてるせいか、その自由な発想にいちいち驚かされます。
 中でも度肝を抜かれた一冊が『いやだいやだ』(せな けいこ、福音館書店)という20ページほどの作品。なんでも「いやだ!」とダダをこねる女の子ルルちゃんの、至ってシンプルなお話です。
「いやだ いやだって ルルちゃんは いうよ」
「なんでも すぐに いやだって いうよ」
「それなら かあさんも いやだって いうわ」
「いくら よんでも だっこしない」
 ……という調子で、要するにわがままばかり言ってるとママはもちろん太陽も、おやつのケーキも、お気に入りの靴も、ぬいぐるみのクマも、みんな「いやだって いうよ」と続きます。
 普通の絵本って、どんなに奇想天外な内容でも最後はちゃんとオチがつく。例えば『ウサギとカメ』ならカメがウサギを追い越し、努力って大事なんだなーという教訓があったりするもんです。
 ところがこの『いやだいやだ』には明確なオチがない。起承転結の結にあたる部分がごっそり無いのです。みんなが「いやだいやだ!」と言い出し「そうしたら ルルちゃんは どうするの?」という問いかけで物語は唐突に終わります。マジで!? 最後のページはご飯粒かなんかでくっついてた? と確認しましたが、2ページいっぺんにめくったわけではなく本当に終わりでした。

(中略)

 絵本業界も過渡期なのでしょうか。ありがちな展開じゃあ子供の心は掴めない。新しさを要求されるのも当然だよなーと巻末を見たら、なんと初版は1969年。俺が生まれる前じゃん!
 作者はせなけいこ先生。
 これを含む『いやだいやだの絵本』で産経児童出版文化賞を受賞しています。40年近く愛され続けている名作だったのです。
 たまたまもう1冊、せな先生の絵本が家にあったので読んでみた。『ねないこ だれだ』(福音館書店)という、夜ふかしの子供が主人公のお話なんですが、これがまた後味が悪い。
 時計が「ボン ボン ボン……」と夜の9時を告げる。こんな時間に起きているのはだれ? 黒ねこ? ふくろう? どろぼう? 「いえ いえ よなかは おばけの じかん」。おばけが出て来た! 果たして寝ない子の運命は? 最後のページにはお化けが子供の手を掴んで空へ消えて行く絵が。
「おばけに なって とんでいけ」……が――――ん!】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕の家にも『ねないこ だれだ』があるんですよ。
 それで、何気なくうちの息子に読んでいたのですが、このラストには、僕も「がーん」でした。
 うわー、なんかとんでもないものを読み聞かせてしまったんじゃないか?と思いましたし、いや、「夢オチ」で、もう1ページあるんじゃないかと、本を確認してしまいました。
 
 いやまあ、これはこれで、夜、なかなか寝付いてくれない子供に「おばけに なって とんでいけーーっ!」ってプレッシャーをかけるのに使えて、親としてはけっこう便利な1冊ではあるんですけどね。せな先生が、そういう意図で書かれたのかどうかはわかりませんが。

 それでも、「物語で子供に恐怖心を与える」というのが、果たして良いことなのかな?と疑問になってしまうこともあるのです。
 それこそ『ウサギとカメ』みたいな教訓的な話のほうが子供のためになるんじゃないか、とか。

 ただ、子供は怖がりながらも、せな先生の絵本の冷酷さというか、「めでたしめでたし、ではなくて、最後の結論を自分に投げ返されるような世界が、嫌いじゃないみたいなんですよね。だからこそ、40年以上も読み継がれてきたのでしょうし。
 子供は子供なりに、自分の周囲の世界の矛盾みたいなものと、毎日闘っていて、「大人が読んでもらいたい物語」には、物足りなさを感じているのかもしれません。
 「こんな子供っぽい絵本なんか読みたくないっ!」とか思っていたりして。

 なかなか寝てくれない子供への、親からの「小さな復讐」として受け継がれてきた面もあるのかな、とも思いますけど。



2011年05月18日(水)
KONAMIの小島秀夫監督が、『メタルギア ソリッド 4』で起こした「革命」

『バカタール加藤のアノ人に聞きたい!』(エンターブレイン)より。

(『週刊ファミ通』に掲載されていた、元編集長・バカタール加藤さんと有名ゲームクリエイターの対談記事をまとめた本の一部です。遠藤雅伸さんの回から)

【バカタール加藤:学問的にもゲームを見ている遠藤さんから見て、日本のゲームというもののありかたと、海外のゲームのありかたの差で感じることはありますか?

遠藤雅伸:日本の特徴的なことを言うと、日本人は、若い人になればなるほど、人より前に出てやろうという気持ちが薄いですよね。海外だと、人を出し抜くとか、人よりも点数を上げるというのが大好きなので、ルールの中でできることなら何でもやろうということがよく見られます。相手より1点でもいいから多く取って勝ちたいとか。僕は勝ち負けでどうこうしたいとは思わないので、あまりこだわらないんですけどね。

加藤:確かに、日本人には和を大事にするようなところがあるかもしれませんね。

遠藤:だからこそ、ほかの国にはないようなゲームが生まれるのかもしれないですけどね。日本人が作るゲームは、丁寧に作るという部分だけが取り立たされていましたけれど、いまは海外で作られたゲームも非常に丁寧に作られた作品が増えているんです。難易度設定もしっかりしている。でも、最後の最後で突き放すんですよ。

加藤:ああ、なるほど。

遠藤:最後の最後で、「やはりこの部分はこうじゃないとダメだ」と。最後まで遊ばせたくないというか、「これくらいのレベルは突破してもらわないと、このゲームを極めたことにはならない」という、驕りみたいなものがあるんでしょうね。そういう意味では、KONAMIの小島監督が、『メタルギア ソリッド 4』でVERY EASY モードを作ってくれたのは、すばらしいことだと思います。

加藤:僕も思いました。アクションが苦手な僕でも楽しめましたよ。

遠藤:そのへんが日本人ならではの発想ですよね。本当に気持ちよく、最後まで映像が観られました。

加藤:『メタルギア ソリッド 4』では、とくに感じましたよね。それだけユーザーに伝えたいものがあるんだな、と思いました。

遠藤:ゲームが下手な人を許容してくれるという姿勢が、すごくうれしかったです。

加藤:任天堂さんも、ユーザーがクリアできないようなゲームを作らないようにしているな、というのをヒシヒシと感じますね。

遠藤:とにかくみんなにクリアーしてもらいたいので、クリアーの基準を低いところに設定していますよね。そしてクリアー後にも、やり込み要素として続きをしっかり遊べますという作りかた。僕は、これがいちばんいいと思うんですよ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕自身は『メタルギア ソリッド 4』未プレイなので、この「VERY EASY モード」が、どのくらい簡単だったのかはわかりません。
 でも、この2人の対談の内容からすると、ノーマルモードよりは、かなりラクにクリアできるようになっていたと思われます。

 僕はゲーム大好きではありますが、大好きなだけに「EASYモードでクリアするなんて、そのゲームの本質を味わったことにならない」なんて、つい考えてしまうのです。ところが、アクションゲームはもともと苦手+年齢に伴う反射神経と粘りの衰え+時間の無さで、結局、クリアできないまま放置、ということになりがちです。

 ゲームにおける難易度設定というのは非常に微妙なもので、簡単にしすぎると「歯ごたえが無い、ヌルいゲーム」だと言われるし、その一方で、「一部のゲーマーにしか楽しめない難易度になってしまっているゲーム」も少なくありません。
 テレビゲームがこれだけ一般的な娯楽になってしまっていると、ゲームをやる人の腕も千差万別です。

 制作側からすれば、「VERY EASY モード」をつけると、短時間でクリアされてしまうとか、ゲームをクリアしたときの喜びが少なくなる、なんてことも考えてしまうと思うんですよ。
 遠藤さんは、それを「驕りみたいなもの」と表現されていますが、「ちょっと難しすぎるくらいのゲーム」のほうが、クリアできれば記憶に残っていることも多いんですよね。
 人間、つらい思いをしたことは、なかなか忘れない。
 ただ、いまの世の中にはゲームやその他の娯楽が溢れているし、制作者側が期待しているほど、プレイヤーはひとつのゲームに長い時間を費やすことはできなくなってもいるのでしょう。

 加藤さん、遠藤さんも仰っておられますが、「VERY EASY モード」をつくるというのは、制作側にとっては、けっこう勇気がいることのようです。
 何年もかけて開発したゲームだから、簡単にクリアされるのも残念なのかもしれませんが、難しすぎて途中で投げ出されてしまうよりは、はるかにマシのような気もするんですけどね。

 僕も含めて、「ゲームを遊ぶ側」にも「意識改革」が必要なのかもしれません。
 「VERY EASY モード」でクリアするのは別に後ろめたいことでも、もったいないことでもないし、自分の腕前に応じて、もっとラクにゲームとつき合っていっても良いのです。
 ああ、そういえば僕はファミコン時代からずっと「せっかくのゲームの先のほうをコンティニューで見るのはもったいないから」と、コンティニューを使わずに遊んでいて、結局最初のほうの面しか見られないまま投げ出すゲーム少年」でした。
 志だけは、高かったんだけどなあ……



2011年05月09日(月)
開発した商品が大失敗したとき、会長に「おめでとう」と言われた男

『ハーバードの人生を変える授業』(タル・ベン・シャハー著・成瀬まゆみ[訳]・大和書房)より。

【実業家として有名なジム・バークは、1989年に引退するまでの13年間もの間、ジョンソン・エンド・ジョンソンのCEO(最高経営責任者)として活躍しました。
 彼は仕事をはじめたばかりのころ、「司令官ジョンソン」と呼ばれたロバート・ウッド・ジョンソン・ジュニアから、失敗に学ぶことの大切さを教わったといいます。
 バークの開発した商品が大失敗してしまったとき、バークは当時会長だったジョンソンに呼ばれました。彼はクビを宣告されるだろうと覚悟していました。ところが、ジョンソンは握手を求めてきてこう言ったのです。

「おめでとうを言いたくて君を呼んだんだ。ビジネスとは決断だ。決断をしなければ失敗もない。私のいちばん難しい仕事は、社員に決断するようにうながすことなんだよ。もう一度誤った同じ決断を下せば、クビにする。でも他のことなら、どんどん決断をしていってくれ。そして、成功することより失敗することのほうが多いということを君にもわかってほしいと思っている」

 バークは自分がCEOになった後も、同じ経営哲学を信奉しつづけました。

「リスクを冒さなければ成長はありえない。成功している会社はどこも、山のような失敗をしている」

 ジョンソン・エンド・ジョンソンに入社する前、バークはすでに3つの事業で失敗していました。
 自分自身の失敗を公表し、ジョンソンとのエピソードを繰り返し語ることで、バークは社員たちに重要なメッセージを送りつづけたのです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕がこういう「海外(とくにアメリカ)のビジネスで成功した人の話」を読むたびに驚かされるのは、彼らが常に「失敗」を大事にしていることなのです。
 アップルのスティーブ・ジョブズは一度会社を追われていますし、彼をはじめとして、アメリカの偉大な「成功者」には、「大きな失敗」を経験し、それを隠さない人が多いようです。

 考えてみれば、どんな名選手だって、打率10割はムリなのと同じように、どんな優秀なビジネスマンでも、「最初から最後まで勝ち続けられる人」は、ほとんどいないのでしょう。
 これは、アメリカだけの話ではなくて、日本でも松下幸之助や安藤百福(カップヌードルの生みの親)のように、数多くの失敗のなかから立ち上がり、最終的には成功を成し遂げた人はたくさんいます。
 その逆で、トントン拍子にきて、最後に大きなしっぺ返しを食らってしまう、という人もいますけど。

 「失敗を恐れるな」と書いてある本はたくさんありますが、このロバート・ウッド・ジョンソン・ジュニアのエピソードは僕にとって印象的でした。失敗した人に「気にするな、今度はがんばれよ」まではありえるとしても、「おめでとう」と言える人はほとんどいないと思うのですよ。
 この文脈からすると、かなりの「大失敗」だったみたいですし。

 実際、「決断力」というのはすごく大事だなあ、と、優柔不断な僕は感じています。
 失敗を怖れるあまり、「決断できない」あるいは、「決断を他人任せにする」ことが「処世術」だと思っていたし、それは、いまの日本の社会では、たぶん、間違ってはいないのです。

 でも、「決断」しなければ、何もはじまらない。
 そして、「決断をする人がいない」ことが、「前例主義」を蔓延させ、「致命的な失敗」につながることもある。

 とはいっても、いまの日本が急に「どんどん失敗しよう!」という社会になるとは考えにくいわけですが、だからこそ、「決断できる人」の必要性も増してくるはずです。
 
 僕も今度、失敗した後輩に「おめでとう」って言ってみようかなあ。
「バカにしやがって!」と怒らせてしまいそうだけど。



2011年05月03日(火)
《ニューヨーク・タイムズ》紙のセールスウーマンの「特別なはからい」

『リッツ・カールトン 超一流サービスの教科書』(レオナルド・インギレアリー&ミカ・ソロモン著、小川敏子[訳]/日本経済新聞社)より。


【昨年の秋、わたし(ミカ)はペンシルバニアの郊外でおこなわれた工芸フェアの会場で《ニューヨーク・タイムズ》紙のセールスウーマンに声をかけられた。彼女は新規の購読者を開拓するために販促用の上等なギフトを用意し、会場の人々に呼びかけていたのだ。


セールスウーマン:「ニューヨーク・タイムズ」紙の宅配を契約されませんか。1週間わずかXドルです。ご契約いただいた方にはすばらしいギフトを差し上げます!」

ミカ:「じつはもう購読しているんですよ」

セールスウーマン:「宅配で毎日ご購読いただいているのでしょうか? もし現在そうでなければ、契約内容の変更はいかがでしょうか」

ミカ(彼女の粘りにクスクス笑いながら):「お宅の会社が新しい夕刊を始めるのなら、ぜひそうしてもらいたいですね。いま配達してもらっている以上に増やしてもらうのは無理だと思いますよ」

セールスウーマン:「でも、ごらんの通りとてもすばらしいギフトを用意しているんです。とにかくなにかさしあげたいんです。すばらしいお得意様でいてくださることのお礼として。お好きなものを選んでください」


 このやりとりについて検討してみよう。まず全体的な状況だ。わたしは混み合った工芸品フェアの会場をただ歩いていただけだった。ここに注目していただきたい。わたしはニューヨーク・タイムズ》紙のセールスウーマンになにも要求していない。彼女の成績をあげるための貢献ができないこともあきらかだ。ギフトをよこせなどとはひとこともいっていない。それでもセールスウーマンにはひっかかるものがあった。新聞を「正規の料金」で購読している客に対し、なにも提供するものがないという状況はおかしいのではないかと感じたのだ。
 そこで彼女は決意したのだ。プロモーションの対象者ではない相手に対し、特別なはからいをしようと。それは相手の立場に立って気持ちを予測して提供したサービスだった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕はこれを読んで、このセールスウーマンの機転と勇気に感心してしまいました。
 「熱心に新規購読者を勧誘する」ことができる人は、けっこういると思うんですよ。
 でも、「すでに宅配を契約してくれている人」が、目の前にあらわれたとき、どうするべきか?
 もちろん、ここに紹介されているように「すばらしいギフトをプレゼントする」ことが正しいと僕も思うのです。
 しかしながら、彼女に与えられたミッションは、「新規顧客の開拓」であり、「すでに契約している人にも、求められればプレゼントする」というのが、マニュアルに書いてある可能性は低そうです。
 おそらく、彼女の「成績」として評価されることもないはず。

 「自分から連絡して新聞をとるよりも、訪問してくる販売員相手に迷ってみせたほうが、いろいろとオマケをつけてもらえる」というのが、日本では宅配の新聞を契約するときの感覚でしょう。
 要するに「釣った魚に餌はやらない」。それがあたりまえ。

 ただ、考えてみると、これは「お得意様への善意」だけではないんですよね。
 こういう「お得意様向けのサービス」を行うことによって、いまの時代はブログなどで「その企業の良心」を宣伝してくれる人もいるでしょうし、何より、「いままでのお得意様を維持すること」は、「新規顧客を開拓すること」と同じくらい、あるいはそれ以上に重要なことです。
 ひとりの「新しいお客」と契約するために、ふたりの「これまでのお得意様」を失っては、元も子もありません。
 もちろん、「新しい顧客の開拓」を行わなければ、事業の拡大は無いのですが、「新しい顧客」を獲得するためのコストと、これまでのお得意様を繋ぎとめるためのコストを比較すれば、後者のほうがかなり安くあがるはず。
 それは簡単な計算のはずなのに、「新しい顧客の獲得」のほうだけが「成功」だと考えられがちです。
 
 おそらく、これはマニュアル化されたものではないと思うのですが、それでも、このセールスウーマンは「上司がこのサービスを理解してくれる(あるいは、少なくとも叱責されることはない)」ことを確信しているからこそ、こういう対応ができたのでしょう。
 
 ほんと、こういうのって、できそうでなかなかできることじゃないですよね。
 ちょっと考えてみれば、コストの面からも、けっして「損する話じゃない」はずなのに。